大阪が生んだ世界の福本こと、【福本豊】の盗塁術はこうだ!

大阪が生んだ世界の福本こと、【福本豊】の盗塁術はこうだ!

決して足が速かったわけではない。スタートの俊敏さ、盗塁への貪欲さが世界の福本を生んだのかもしれません。そんな福本豊の今と現役をご紹介します。


13年間も盗塁王の名を欲しいままにした福本豊

1947年11月7日生まれ
身長168cm、体重68kg
左投げ左打ち
ポジション:外野手

阪急ブレーブスの黄金時代に1番打者として、ダイヤモンドを走りまくっていた世界的な選手。盗塁もさることながら、福本は、走っても、打っても、守ってもよしの3拍子揃った名プレイヤー。本塁打も208本塁打を記録している。

福本豊(ふくもと ゆたか)

福本豊の獲得タイトル・主な表彰と記録

【 タイトル 】
盗塁王:13回 (1970年 - 1982年)
最多安打(当時連盟表彰なし):4回 (1973年、1974年、1977年、1978年) ※1994年より表彰

【 表彰 】 
MVP:1回 (1972年)
ベストナイン:10回 (1972年 - 1974年、1976年 - 1982年)
ダイヤモンドグラブ賞:12回 (1972年 - 1983年)

【 日本記録 】
通算1065盗塁
通算115三塁打
通算299盗塁刺
通算外野手刺殺:5102
通算外野手守備機会:5272
通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本) ※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録
シーズン20二塁打以上:14回 (1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年) ※タイ記録
シーズン三塁打リーグ1位:8回 (1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年)
シーズン50盗塁以上:14回 (1970年 - 1983年)
シーズン盗塁:106(1972年)
1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録
11試合連続盗塁:2回 (1971年4月27日 - 5月12日、1974年4月10日 - 4月28日)
13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)※獲得回数13回も日本記録
12年連続ダイヤモンドグラブ賞(1972年 - 1983年) ※受賞回数12回も日本記録
14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年)
3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年) ※タイ記録

福本豊のプレースタイルはこれだ!

ヒットを打つと必ず、二塁、三塁と走り、ヒットも三塁打に変える男。パ・リーグのほとんどの捕手が嫌った選手。常に走り続けた選手である。

投手の癖を読む力が半端ではなかった。

盗塁もリーグ1位なら、盗塁死も11回もリーグ1位を記録するほど、常に走り続けたことがわかるでしょう。決して、俊足というわけではない福本豊だが、盗塁術が素晴らしかったことで、日本記録106盗塁という大記録が生まれたのです。

盗塁だけではなく、打撃も素晴らしい選手だったことは知っていたでしょうか。安打数はリーグ1位が4回、本塁打においては、2ケタ本塁打が11回と、更に、先頭打者本塁打は8本と日本プロ野球史上1位タイ記録となっている。

守備においても、ゴールデンクラブ賞も12回も受賞するほど、外野手としての名手でして、肩は決して強いわけではないが、落下点を読む力が半端ではなく、捕球する範囲が広く名手と成長していったのです。

福本豊の高校時代の活躍

福本豊のプロ入り前、社会人野球時代

社会人野球として、松下電器の野球部員で活躍していた福本豊が、1968年には、加藤秀司、岡田光男とともに、富士製鐵広畑の補強選手として都市対抗に出場し、チームを優勝させた。

その年に、阪急ブレーブスと南海ホークスのスカウトの目に捕えられ、阪急ブレーブスに7位指名を受けることとなる。当時は、福本が目に留まったわけではなく、注目の加藤秀司(南海ホークスに入団)を見に来ていたスカウトの前で、本塁打を打つ、ホームへ好返球と目につくプレーをやったことで、指名されることとなったのだ。

指名を受けた時は、福本豊は自分が指名を受けてるとは知っていなかった。

ドラフトの翌朝、先輩がスポーツ紙でおまえがのっとるがなと言われたことで初めて知ったらしい。福本らしいですね。

その後、しばらく経ってから、阪急職員による肉料理接待が始まり、プロになったら毎日、こんなに美味い料理が食べられるのかと思いながら、入団を考えていたが、何度も食事をおごってもらったことで、入団を決意したのです。

盗塁王の福本豊

指名を知らなかった福本の夫人も、奥さんらしく、夫が野球選手であることを知らなかったらしい。

ある日、福本に、松下から阪急に転職すると伝えらて、特に、詳しい説明もなかったので、ある日、阪急電鉄各駅を、夫の姿を探していました。

その時に、盗塁王の福本さんではと駅員に告げられ、初めて、自分の夫がプロ野球選手だとしったらしい。

阪急ブレーブスでプロに入り、世界の福本へ!

プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという[3]。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わったが、プロデビューは山田や加藤よりも早かった。 1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年から背番号を7に変更し、同年には日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破る世界記録のシーズン106盗塁[6] を記録してチームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる(全国紙面では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)」と固辞した[7][8]。ただし大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事岸昌から賞詞を受け取っている[9]。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E8%B1%8A#.E7.8F.BE.E5.BD.B9.E6.99.82.E4.BB.A3

福本豊 - Wikipedia

1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。引退から4年後の1992年6月16日、リッキー・ヘンダーソンにより、同記録は破られた。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。 1984年から1986年前半までレフトを守る機会が増え、40歳近くになると盗塁のサインがダグアウトから出るようになったり、晩年は「走るな!」のサインまで出されることもあったという。1987年4月18日のロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩の脱臼をした。(全治2週間)福本にとって最初で最後の大きな故障離脱で、これを境にスタメンから外れ、出場試合数も減るようになった。(福良淳一、ダラス・ウイリアムズなどが1番打者に) 1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した[10]。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、福本は皆に「冷たい奴や」と言われたと回顧している[3]。 後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている[11]。また、ベースボールマガジンなど一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。週刊ベースボールでのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を依頼したが拒否されたという[10]。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した[10]。 他方で、その8日前で阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていることが井上光央アナウンサーから言及されている。 現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っており、やくみつるに「走らざること山の如し」と揶揄されるほどだったが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている[3]。なお、最後に出場したオールスター戦では盗塁を試みており(結果は失敗)、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている。また1989年の引退試合(対読売ジャイアンツ戦・西宮球場)では山田共々阪急のユニフォームで打席に立った[12]。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。 引退後[編集]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E8%B1%8A#.E7.8F.BE.E5.BD.B9.E6.99.82.E4.BB.A3

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