速球派から技巧派へ転向
鈴木 啓示:日本プロ野球名球会公式ホームページ

「弱い近鉄では1対0で勝つしかない」
5年連続で20勝以上した1961年から71年までの近鉄の順位は6、4、2、3、3位だった。それ以前万年Bクラスのチームがそこそこの順位になったのは鈴木啓示の力が大きい。鈴木はこの5年間に、110勝76敗、勝率.591。近鉄はこの間、319勝314敗、勝率.504。チームの勝ち星の3割5分を上挙げた。入団1年目に挙げた10勝がチーム最多勝だった。

活躍の舞台となった「日生球場」と”草魂”の芽生え
【3月16日】1985年(昭60) 20年目“草魂”の意地!オープン戦1失点完投(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球3月
近鉄のホーム球場は日生球場。鈴木がプロの第一歩を踏み出した球場だ。当時は後楽園球場でも大阪球場でも、現在に比べると狭い球場ばかりだったが、日生球場は特に狭かった。本塁打がよく出る投手泣かせの球場だった。
第26回 鈴木啓示「筋力はあくまで投げ込みと走り込みで作るもの」 | 週刊ベースボールONLINE

”草魂”の意地
弱小球団だった近鉄で毎年タイトル争いに絡み、最多勝は3度、防御率、最高勝率のタイトルも獲得。ドラフト制度以後では唯一の300勝投手で、オールスターは入団した66年から計15回出場した。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_march/KFullNormal20080309195.html【3月16日】1985年(昭60) 20年目“草魂”の意地!オープン戦1失点完投(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球3月

1985年3月16日、日生球場でのオープン戦で、鈴木は1失点完投勝利を挙げた。調整の場であるオープン戦で完投することはまずありえない。それも実績のある大ベテラン投手であればなおのことだ。投球数は123球、被安打7、奪三振8、失点1。近鉄はオープン戦で9連敗中だった。鈴木は、オープン戦とはいえ「オレが連敗を止める」と静かに燃えていた。
【3月16日】1985年(昭60) 20年目“草魂”の意地!オープン戦1失点完投(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球3月
”草魂”の最後の登板
【3月16日】1985年(昭60) 20年目“草魂”の意地!オープン戦1失点完投(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球3月

【3月16日】1985年(昭60) 20年目“草魂”の意地!オープン戦1失点完投(野球) — スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球3月

”男の勲章”
鈴木に与えられた冠は”草魂”。鈴木の座右の銘そのものだ。鈴木は入団時から「弱い球団」「狭い球場」という逆境を乗り越えようとした。たとえ狭い球場でもエースとしてホームグラウンドを好きになろうと努力した。そしてホームグラウンドで勝つために制球力を磨いた。
鈴木には世界記録がある。それは被本塁打560という大記録だ。この記録は、日生球場をホームグラウンドとした大エースでなければ打ち立てられなかった記録だろう。