ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)がプロレスラーになるまで
プロレスラーになるまで
ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)
大学ではアメリカンフットボール選手として活躍
1968年、
ワシントン・レッドスキンズに入団
1971年、
膝の故障で引退
その後、
フットボールのコラムニスト、
酒場の用心棒、
などを経て
1973年、
プロレスラーとしてデビュー
ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)をもっと知る
雄叫ぶブロディ
198cm、135kgの巨体
類稀な運動神経
そして研究熱心な性格
80年代随一の強豪として
「プロモーターの言うことを聞かない。」
「選手間でもアンタッチャブルとされるくらいの実力を持つ。」
「ブロディのやりたいことに逆らうとボコボコにされる。」
と恐れられ
格が見合わない相手は秒殺され
自ら
「私があの程度の選手と20分も攻防を繰り広げるのはリアリティがない。」
と正当化した
プロレスファンの間では
いまだ「ブロディ最強説」が囁かれているほど
強い男である
ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)とライバルたち
16文キックを喰らっても倒れない
馬場の16文キックを最初に浮け止めたのがブロディだった
キックを受けても倒れず
逆にキックを返した
vs ジャンボ鶴田
ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視していた
初来日で鶴田とタッグで初対決した際、
鶴田のスタミナについていけず
2度目の来日では
鶴田へのライバル意識から初来日時より20kgもウェイトを落として臨んだという
天龍からみたブロディ
天龍はブロディについてこう語っている
「ハンセン、ブロディからは
プロレスと、プロレスラーの凄さを教えてもらった
破壊力の凄さ
たゆまぬ努力の凄さである」
「『誰にも負けない、俺がNo.1だ』という気持ち、プライドは誰よりも凄かった
レスラーに対する好き嫌いの激しい人で
自分にスタミナの重要性を教えてくれたジャンボ(鶴田)や
技を逃げずに真正面から受ける僕のことはリスペクトしてくれて、
彼も僕らの技は逃げもせず受け止めてくれたのですが
『俺はこんな奴は認めない』と判断したレスラーは技も受けず
ロープに飛ばされても戻らず、
それこそミル・マスカラスや長州力なんて
キングコング・パワーで一方的にけちょんけちょんでした」
スタン・ハンセンとタッグ
スタン・ハンセン(大学のアメフトの後輩)と「超獣コンビ」を結成
年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦では
優勝1回
準優勝2回(いずれも決勝で反則負け)
PWF世界タッグ王座では初代王者となる
父親を援護するため、
リングに上がったドリー・ファンク・ジュニアの息子(ディンク君、素人)に
キングコング・ニー・ドロップを放ったこともある