名打者石井琢朗

プロ野球チップスカード
石井琢朗 - Wikipedia
表彰
石井琢朗の生い立ちとプロ入り前
小学校3年生から野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す。
プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え、栃木県立足利工業高等学校に進学。
1年時から背番号1を背負い、2年時に夏の甲子園に投手として出場した。
高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。高校3年時のドラフト会議では東洋大学への進学が決まっていたためどの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形で1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。ドラフト外でプロ入りした最後の選手となった。

特徴

憧れの選手は篠塚和典。横浜球団史上最多の2306安打を放っている(2008年10月9日時点)
打撃スタイルはとにかく、コンパクトに。またいかにピッチャーとのタイミングをとるかを模索。ピッチャーがえしの基本のバッティング。
三塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝き、遊撃手としても1度受賞している。送球までの速さと安定感は12球団1と評されたこともある。
また、通算358盗塁を記録しており、4度盗塁王を獲得している。
入団から3年間は投手であったものの、バッティングセンスを見いだされ4年目から内野手に転向。この際に登録名を現在の「石井琢朗」に変更する。するとその年の後半には三塁手のレギュラーに定着し、翌年には盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得。スター選手に登りつめる。
1996年、大矢明彦監督によって遊撃手にコンバートされ、以後10年に渡って遊撃レギュラーの地位を不動のものとする。
1998年にはマシンガン打線の1番打者として38年ぶりの優勝に大きく貢献した。
ちょっと笑えるエピソード
2006年、古木克明から「石井豚朗」と名前を書き間違えられた年賀状が届く。
琢朗の琢の字が「豚」に似ている事から、ブタローという野次を受けた事がある。
ちなみに、本人はものすごく気にしている。
長年活躍した横浜から広島へ移籍

石井琢朗 - Wikipedia
カープのコーチになった石井琢朗
今シーズン(2015)から3塁ベースコーチを務めることになった。
しかし、壊れた信号機と呼ばれるほどミスが目立つ。
本人も猛反省していたが、結局今シーズンをもって1軍打撃コーチに戻されてしまった。
珍事件・・・・!
広島“インフィールドフライ”でサヨナラ/野球/デイリースポーツ online
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