
桑田真澄選手の基本情報
桑田真澄 - Wikipedia
小中学時代からその頭角は現れていた!
小学2年生の時に町内会のソフトボールチームに入団。6年生主体のチームにも関わらずすぐにショートのレギュラーポジションを獲得。翌年の小学3年生にはボーイズリーグの野球チームに所属し、小学5年生の時には主力選手として活躍していた。当時父親である泰次により、
など「巨人の星」さながらの特訓を受けており、それは小学4年から中学を卒業するまで続いた。
大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが、プロ野球選手としても活躍した西山秀二(前・巨人一軍バッテリーコーチ)である。この年の大正中は投打とも地域では他を寄せ付けない圧倒的に強かったと言われている。大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、中学時代の桑田の凄さを物語るエピソードが掲載されている。当時の桑田のことを西山は次のように語っている。
また中学時代の特筆すべきエピソードとして、野球の為に中学3年生の3学期に中学校を転校したというものがある。これは「PL学園に進学したい」という桑田に対し、当時在籍していた学校側は「お前は勉強もできるから、○○高校にしろ。お前が○○高校に行けば○○高校は他に5人のうちの生徒を入学させてくれる。PL学園へは絶対に行かせない」と、桑田のPL学園進学を許さなかった為である。最終的に桑田はPL学園に進学する為に八尾市立成法中学校に転校をして中学を卒業した。
高校生の時からプロ野球人生の未来予想図を描いていた!
PL学園入学直後は、同級生のチームメイトの清原和博と田口権一(元・本田技研野球部)の長身コンビに注目が集まり、当時172cmしかない桑田は監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする毎日であった。そんなある日、母親が練習を見に来た際に「もう自分は投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と胸の内を正直に打ち明けた。甘い言葉を掛けてもらえると期待していた桑田に対し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」という厳しいものだった。
母の叱咤激励に応えるように、桑田は自分の存在価値に磨きをかけていった。

高校時代に投げていた球種はストレートとカーブだけ!
毎日新聞
また、桑田を語るにあたり、絶対に素通りできない重要な人物がいる。それが市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫臨時投手コーチである。清水がPL学園の臨時コーチに就いてすぐに桑田の外野からの返球を見て球の回転の良さに驚き、「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私に任せてくれ。夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻しマンツーマンの指導をした。
桑田が1年生の夏の大会の地区予選4回戦、大阪球場での吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を猛アピール。当初、中村は同意しなかったが、清水の投手コーチとしての力量と、その迫力に押され、桑田の起用を決意した。試合直前まで雑用係をしていた1年生の桑田の公式戦先発デビューが突然決まったのである。桑田を見下していた上級生のチームメイトは「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田に悪態をついた。しかし、この試合で清原が公式戦初本塁打で桑田を援護すると、それに応えるように桑田は相手打線を2安打完封に抑えるという結果を残し、実力で上級生を黙らせた。いわゆる「KKコンビ」が誕生した瞬間である。

KKコンビ誕生!
デイリースポーツ online
桑田の才能を見出した清水は当時の桑田の事を次のように語っている、
桑田の高校時代のエピソードとして印象的なものがある。
中村監督はこの桑田の提案を受け入れ、その後PL学園の黄金時代を迎えることとなった。
読売巨人軍で躍動する背番号「18」!

マウンド上では圧倒的な存在感を放った!
【巨人】OB対決桑田氏登板 - プロ野球ニュース : nikkansports.com
プロ入り前後は投手としてだけではなく打撃、守備にも才能を発揮していた桑田に野手転向を薦める者も多かった。しかし、投手としてのプロ野球選手にこだわった桑田は1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。ここでも、実力で周囲を黙らせる結果となった。
2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らのスリーランホームランとタイムリーヒットでチームの全4得点を叩き出し、プロ初完封勝利を挙げた。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。
翌1988年には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手にも抜擢され、名実ともに巨人軍のエースとしての地位を固めていった。
その後も桑田の安定したピッチングは続き、1992年のシーズンまで6年連続の二桁勝利を記録した。
球史に残る「10・8決戦」!

先発三本柱で制した「10・8決戦」!
1994年10月8日 中日-読売 26回戦 (ナゴヤ)|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある」スペシャルコンテンツ
桑田は1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際、8回2死までノーヒットノーランに抑える好投を見せていた。しかし、投手コーチの堀内恒夫の指示で中日との最終戦に備えるため、完封のかかった9回を回避する為降板した。「10・8決戦」前日に、宿舎で長嶋に呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われた桑田は意欲満々で試合当日に臨んだ。
当日の試合前の練習時に、ファンからの熱い声援を受けてた桑田は15分も涙が止まらなかった。試合中も、初回からブルペンに入って準備はできていたが「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。
7回3点リードの状態から登板した桑田はこの時の心境をこう述べている。
また、これも桑田らしいエピソードと言えるが、8回裏、中日の先頭打者として打席に立ったPL学園の後輩で同室だった立浪和義が、一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて退場となりながらも内野安打とした場面に感動したことを認めている。
9回裏2死。斎藤ー槙原からその日のマウンドを受け継いだ桑田は、自身の代名詞とも言える切れの良い大きなカーブで小森哲也を空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えて「10・8決戦」の幕を下ろした。『ベースボールマガジン』の2009年3月号では優勝の瞬間のことを下記のように記述している。
桑田は巨人軍在籍中は斎藤・槙原らと「先発3本柱」として、7回のリーグ優勝、3回の日本一に貢献し、輝かしい歴史を刻んだ。
その一方、ケガにも悩まされ巨人軍の選手として最後の年となった2006年4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げるも、この試合で走塁中に右足首を捻挫してしまう。同27日の広島戦でも先発投手としてマウンドに上がったが、3回途中で6点を与えてしまい敗戦投手となり、その2日後に登録抹消された。桑田にとって、この試合が巨人軍として1軍での最後の登板となった。
その後も桑田は二軍で懸命に調整を続けたものの、シーズン終盤に入っても一軍昇格の気配がないことから「自分を戦力としては見ていない」と判断し、巨人軍を退団することを決意した。
現役を引退するのか、それとも他球団で現役を続行するのか、桑田の動向に世の中の注目が集まる中、桑田はそのどちらでもない選択を発表した。それが、メジャーリーグ挑戦であった。
最終的に桑田の引退試合は行われず巨人軍のファン感謝デーで『お別れ会』として行われることとなった。イベントの最後に桑田は、
と、ファンの人達や選手を含む読売巨人軍のスタッフに深々と頭を下げ、21年間在籍した巨人に別れを告げた。
39歳70日で夢のメジャーデビュー!

メジャーでも背番号は「18」!
きょうの「お土産」: きょうの○○
マイナー契約ながらピッツバーグ・パイレーツの2007年の春季キャンプに招待選手として参加、開幕メジャー入りを目指していた。ところが、3月26日のトロント・ブルージェイズとのオープン戦で事故が起こった。桑田はセンター前ヒットを打たれた直後ボールの行方を追いながら三塁ベースカバーに入ろうとした際に、同じく三塁の判定に向かっていた球審と激突。右足首の靭帯断裂という大怪我をしてしまった。その時の審判が「3人制」だったために、球審は三塁での判定をするため三塁に向かっていた為、桑田と交錯することとなってしまった。これにより、開幕メジャー入りが絶望となっただけではなく、長い期間のリハビリ生活を余儀なくされた。
そんな桑田をパイレーツは解雇することなく、インディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで3Aの故障者リストに入れリハビリをサポートした。その後もフロリダでリハビリを続け、5月19日にはフリー打撃のピッチャー、5月24日には練習試合での登板をクリアして、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流することができた。合流して間もなくの6月2日、3Aではあるがアメリカでの公式戦初登板を果たした。
3Aに復帰してからも順調な調整ぶりをアピールした桑田は、中継ぎ陣が絶不超であったというピッツバーグのチーム事情にも後押しされ、6月9日にメジャー昇格を果たした。そして翌日の6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦で、ついに念願のメジャー初登板を果たした。ちなみに、39歳70日でのメジャーデビューは当時日本人選手としては史上最高齢であり、長いメジャーリーグ史上においても第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジ選手の42歳、ディオメデス・オリーボ選手の41歳に次ぐ第3位の高齢メジャーデビュー記録であった。
昇格後は監督のジム・トレーシーから「大事な場面でストライクが取れる」と好評価を獲得するまでになり、中継ぎ投手として大事な場面で起用される機会が増えた。しかしながら、巨人時代にも指摘されていた球威の衰えと、桑田最大の武器であるコントロールの精度も落ちており、大事な場面で打ちこまれるという場面が続いた。
結果桑田はメジャーで19試合に登板し、0勝1敗、防御率9.43と言う成績で1勝も上げないままピッツバーグより戦力外通告を受け、プロ野球選手としての引退を決意することとなった。
引退後も野球に対する情熱は衰えず!

現役引退後も日本の野球界の発展の為に精力的に活動中!
PL学園の監督 桑田真澄氏の可能性は!? | ファッションズビュー
桑田は現在の日本における野球を含めたスポーツの指導のあり方について問題提起をしており、スポーツニュースや野球中継の解説などで持論を積極的に発信している。質の伴わないダラダラとした長時間練習や、先輩や指導者に対する行き過ぎた上下関係の強要、また「「指導」という名の「体罰」は必要である」といった古い体育会系思想を痛烈に批判。2013年1月12日付けの朝日新聞社会面で、桑田は体罰について次のように語っている。
桑田は体罰を肯定している指導者に対して「体罰」は「指導者が怠けている証拠である」と厳しく指摘している。
ストイックとも言える桑田真澄の野球人生。
桑田の視線の先には、永く険しい道がまだまだ続いているのであろう。
そんな厳しい道中も桑田の顔には、いつもの穏やかな笑顔が広がっているに違いない。
今後も桑田の歩む「野球道」から目が離せない。