キャシー中島さんのプロフィール

本名:勝野八千代(かつの やちよ)
生年月日:1952年2月6日
出身地:アメリカ合衆国 ハワイ マウイ島
アイルランド系アメリカ人のお父さんと日本人のお母さんの間に生まれたキャシー中島さん。
ハワイのマウイ島で生まれ神奈川県横浜市で育ちました。
近年ではハワイアンキルト作家としての活動が有名ですが、元々はファッションモデルとして芸能界デビューされ、歌手や女優、タレントとして活躍。
俳優の勝野洋さんの奥様でもあり、おしどり夫婦としても有名ですね。
美少女グルーブ「クレオパトラ党」

現在でも学校にハーフの生徒がいたら注目されがちですが、キャシー中島さんが中学生だった1960年代は今よりもっと注目度が高い時代でした。
ハーフとして生まれたキャシー中島さんは、目の色も髪の色も周りの生徒と違うためか、何をしていても目立っていたんだそうです。
お母さんからは「それは生まれ持った素晴らしい個性なのよ」と言われていたそうですが、実際の周囲の反応は個性という受け止め方ではなかったといいます。
おそらく差別や偏見があったのでしょう。
そんな心の中にたまったモヤモヤを発散させるために、学校から帰って遊びに出ては夜11時や12時まで遊んでいたというキャシー中島さん。
よく踊りに行っていたという「ゴーゴー喫茶」では、そこで知り合った女の子たちと「クレオパトラ党」というグルーブを結成。
クレオパトラ党には、キャシー中島さんの他、俳優の浅野忠信さんのお母さんである浅野順子さんやパリコレをはじめ多くのファッションショーで活躍した山口小夜子さんも参加しており、華麗に踊る美少女グルーブと言われていたそうです。
モデルとして芸能界デビュー

クレオパトラ党の一員として踊るキャシー中島さんに注目し、モデルの世界へ導いたと言われているのが、スタイリストの草分け的存在とも言われた堀切ミロさんでした。
堀切ミロさんに「あなたさあ、かわいいのに。もうちょっと痩せたらモデルで使いたいのね」と言われたというキャシー中島さん。
大卒の初任給が月給2万円~3万円と言われていた当時、モデルとして3万円~5万円もらえると聞いて、すぐさまダイエットを敢行!
3ヶ月で20kgという驚異的な減量をしました。
実はキャシー中島さんが5歳の時にご両親は離婚。
それ以来、子供心に働き過ぎなくらい働いているお母さんを見て心配に思い、少しでも家計を助けられたらという思いがモデルになる決心を突き動かしたんだそうです。
モデル活動がスタートすると、1969年にレナウンのCMで「イエイエガール」としてメジャーデビュー。
その他、イタリア人男性5人、日本人女性2人の7人組コーラスグループ「カサノヴァ7(カサノヴァセッテ)」のメンバーとしてレコードデビューもされました。
タレント業に転身

モデルとしてたくさんの仕事をしていたキャシー中島さんでしたが、気が付けば自分より年下の若くてスタイル抜群のモデルが次々と入ってきて、徐々に「自分の居場所がなくなるかも」という危機感を感じ始めるようになっていたそう。
また、モデルをしていた頃にカメラマンから「キャシーは話が面白いからタレントになったほうがいいんじゃないの?」と言われたこともあり、20歳の時にモデルからタレントに転身することを決意しました。
「ぎんざNOW!」で初代アシスタントになったことを皮切りに、エメロンシャンプーのCM出演、ドラマに出演し女優業にチャレンジ、さらに歌手としてソロデビューと様々な場面に登場し、ハーフタレントとして活躍されました。
猛烈アタックで勝野洋さんとゴールイン

キャシー中島さんが結婚を意識し始めたのが26歳の頃。
実は19歳の時にモデル仲間との結婚と離婚を経験しているキャシー中島さんは、「二度目は失敗したくない」という思いが強くありました。
そんな時、偶然テレビで見かけたのが後に夫となる勝野洋さんだったといいます。
真面目で素朴な印象を受け、「こういう人と結婚したい!」と思い、そこからキャシー中島さんの猛烈アタックが始まりました。
まずは、知り合いなどあらゆるつてを使い勝野洋さんがよく行くお店の情報を得ると、自分もそのお店に通い飲み友達になり、年末には石原裕次郎さんらとハワイに行っているという情報を得ると、キャシー中島さんもすかさずハワイ行きのチケットをゲット!
そして、偶然を装って現地で会う。
そういったことが続いていくうちに勝野洋さんは「こんなに偶然が重なるならこの女が運命の相手なのかな」と思うようになっていったんだとか。
そして、交際スタートから約二か月後の1979年2月にゴールインすることとなったのです。
ハワイアンキルト

キャシー中島さんと言えば、やはりハワイアンキルト作家としての活躍が有名ですよね。
幼い頃から手芸が好きで「将来は手芸屋さんになりたい」と思っていたというキャシー中島さん。
19歳の時に訪れたロサンゼルスでアメリカンキルトと出会い、結婚後にはキルト教室を開きました。
そして、後に家族で訪れたハワイで出会ったのがハワイアンキルト。
シンプルで色鮮やかなデザインに惹かれ、独学でハワイアンキルトの技法を学びました。
現在では横浜を中心にキルト教室やキルト販売店を経営しているキャシー中島さんですが、キルト作家として有名になったきっかけは「笑っていいとも!」への出演でした。
ある時、人気コーナーだった「テレフォンショッキング」に夫の勝野洋さんが出演することになったのですが、勝野洋さんのスケジュールがどうしても都合がつかず、キャシー中島さんが夫の代役として出演することになりました。
その際ににキルトを紹介すると、当時はあまり一般的とは言えなかったキルトが世に広まっていくようになりました。
キルトに関する著書も、2019年時点で70冊を超えているそうなので、2025年現在では100冊に届いているかもしれません。
長女の死

2009年7月、歌手やモデルの他ジュエリーデザイナーとしても活動されていた長女の勝野七奈美さんが29歳という若さで先立ちました。
同年2月に咳が止まらないなどの異変を感じ医療機関を受診したところ、肺がんであることが判明。
その後は治療に専念していましたが、わずか5ヶ月後に死去されたのです。
悲しみのあまり毎日を泣いて過ごしていたというキャシー中島さんでしたが、七奈美さんが好きだったオレンジ色の生地を使い、七奈美さんと会話をするような気持ちでキルト制作に励むことで少しずつ立ち直っていったと言います。
現在は、夫の勝野洋さんをはじめ、次女・雅奈恵さん、長男・洋輔さん、さらにお孫さんに囲まれ幸せに暮らしているキャシー中島さん。
2025年7月には、七奈美さんの十七回忌の法要を執り行ったことを報告されています。
「落ちこんでなんかいられない」

実はキャシー中島さんご自身も二度のがんを克服されています。
2016年と2021年に皮膚がんの手術を受けました。
他に転移するものではないと判明したものの、やはり告知を受けた時は恐怖心と不安で足が震えたといいます。
もちろん、そんな時にキャシー中島さんの支えになったのはご家族の愛情でした。
幼い頃に経験したご両親の離婚や、ハーフとして生まれたことによる偏見、そして、勝野洋さんと家庭を持ってからも長女・七奈美さんを看取るなど、様々な困難に直面されてきましたが、「でも涙は見せたくない」というキャシー中島さん。
その言葉の通り、キャシー中島さんはいつも笑顔の印象が強い気がします。
これからも、明るい笑顔で多くの人たちに元気を届けて欲しいですね!