名前のまんま、透き通るような心を持ち主である水野透は、東大阪市生まれ生野区育ち。
小学生のときに横山やすし・西川きよし、中田カウス・ボタン、坂田利夫、レッツゴー三匹の漫才や吉本新喜劇に遭遇し、
「お笑いはいいなあ」
と思ったが、中学生になると、吉田拓郎、泉谷しげる、南こうせつらによるフォークソングブームが到来すると
「その瞬間、お笑いになりたいというのは消えました」
ビートルズなど洋楽も聴き始め、吉田拓郎に憧れた水野透は、中3でギターを始め、高校になるとプロレスも好きになって、
「プロレスと誰も聴いてないような洋楽。
こうなってくると仲間が限られてきて、少数精鋭を集めて教室の端っこの方で話ししてました」
大阪の桃山学院大学に入学すると、
「ミュージシャンにはなれない」
と思い「桃山学院大学プロレス研究会」を創った。
2年後、同大学に西成で数十年続く和菓子屋の長男で、
「プロレスとアイドルが好きなオタクやった」
という藤原光博が入学。
プロレス研究会の部員勧誘ポスターが、アントニオ猪木でもジャイアント馬場でもなくWWFヘビー級チャンピオンのボブ・バックランドであることに興味を持って食入るように眺めていると
「ちょっとチミチミ、プロレス好きなの?」
といわれ、
(天才バカボンのセリフみたいだな)
と思いつつ、振り返ると丸顔の男がいて
(油すまし(熊本県の妖怪)みたいな顔したオッサンやな)
と思いつつ、
「好きなのだ~」
と答えた。
それがポスターの作成者、水野透だった。
水野透は、新日本プロレスのアントニオ猪木派。
藤原光博は、全日本プロレスのジャイアント馬場派。
そんな2人は、すぐに意気投合。
藤原光博は、「バイブ藤原」がリングネームでリングに上がり、水野透は実況者として大学プロレスを盛り上げ、人気者の先輩後輩となった。
さらに藤原光博は、「浪花のモーツァルト」ことキダ・タローがテーマ曲を担当し、和田アキ子、横山ノック、上岡龍太郎司会の視聴者参加型の恋愛バラエティ番組「ラブアタック」に出演した。
当初は関西ローカル番組で、男性参加者の大半が関西の大学生や専門学校生。
彼らは「アタッカー」となって、5人一組で様々なゲームに挑戦。
優勝すると少し高いところに座っている女性参加者「かぐや姫」に愛の告白。
上岡龍太郎が
「○○君の運命はいかに!
まいります!
スイッチオン!」
というと、観客と敗れたアタッカーたちは
「落ちろ!落ちろ!」
とコール。
かぐや姫が「YES」のスイッチを押せば、カップル成立し、ファンファーレが流れ、天井に吊るされていたクス玉が割れ、大量の紙吹雪と紙テープ。
「NO」のスイッチを押せば、しおれた音楽と共にアタッカーはステージ下の「奈落の底」へ強制降下。
「ラブアタック」は、特別企画として女性が告白する「女性アタッカー大会」や夏休みに行われる「小学生大会」などもあったが、特に人気があったのは数ヵ月に1度行わエる、かつて告白に失敗したアタッカーが再挑戦する「みじめアタッカー大会」
「みじめアタッカー」の中には、清水圭、松本竜助、トミーズ雅、大川興業総裁の大川豊、放送作家の百田尚樹、ジャーナリストの菅沼栄一郎などもいて、「みじめアタッカー大会」に繰り返し出場することは一種のステータスだった。
「テレビに出てみたい」
という動機で、半ば常連のように番組に出たものの、女性経験がまったくなかった藤原光博は、体を硬直させながらかぐや姫に3回告白し、3回フラれ、「みじめアタッカー」となった。
大学在学中の1981年の元旦に偶然、深夜ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」の第1回放送を聴き、
「初めて寝ながら腹抱えて笑った」
という水野徹は、ビートたけしに憧れ続け、大学卒業後、食品会社に就職したが、
「やっぱりたけしさんみたいになりたい」
と3ヵ月で辞めて、弟子になるために上京。
「オールナイトニッポン」の収録が行われているニッポン放送で出待ち。
そして弟子入りを志願し、履歴書を渡した。
ビーとたけしが、
「今、弟子がいっぱいで新規はとってないんだよ」
といってタクシーに乗ると、水野透は、タクシーを拾って追跡。
信号待ちで2台のタクシーが横に並んだとき、ビートたけしが窓を開け、体を大きく乗り出し、手渡した履歴書をみせながら
「ちゃんと読んどくから」
といって手を振ってくれた。
あまりにうれしかった水野徹は、それで満足してしまい、以降、弟子入り志願しには行かず、返事をもらう前にホームシックになって、大阪に帰った。
そして藤本義一が主宰してた「笑の会」のオーディションを受けて合格。
「お前たちは止まることを許されない」
といわれ、4人組ユニット「ザ・駐車禁止」を組んだが、半年で解散。
水野徹は、その後、1年間はお笑いの活動ができず、「ザ・駐車禁止」を観に行っていた藤原光博は
「レッカー移動されよったな」
と思った。
1986年1月、25歳の水野透は、雑誌で吉本興業の新人オーディション出場者募集の記事を発見。
「1人ででけへんな」
と思い、1年留年して大学5年生になっていた23歳の藤原光博を
「一緒に出えへん?」
と誘った。
学園祭とプロレス以外は何もせず、勉強をまったくやっていなかった藤原光博は、一緒にバカをやっていた仲間が卒業するのをみて、初めて陰で勉強もしていたことを知り、
「嘘つき」
と思いながら留年。
その後は1人ぼっちになって登校してもまったく面白くない上、親に罪悪感を感じて5年生の学費だけは自分で払おうと、あまり学校には行かずにアルバイト。
将来、和菓子屋を継ぐことを考えていたが、水野透に
「俺が黒澤になるから、お前は三船になれ」
といわれ、お笑いの道へ進んだ。
こうして「リットン調査団」というコンビが誕生。
黒澤明監督と三船敏郎のように水野透がネタを書き、藤原光博が演じるという関係性ができた。
そして南海ホール(後の心斎橋筋2丁目劇場)」で行われていた、芸人として4年先輩に当たるダウンタウンが司会を務める番組「心斎橋お笑い探検隊」の素人コーナーに出演。
このオーディション形式のコーナーに合格し、プロの芸人に。
このときに一緒にオーディションを受けたNSC出身の今田耕司、板尾創路、蔵野孝洋、そして東野幸治と
「ほぼ同期」
となった。
ちなみに年齢では、
1960年生まれ、水野透
1962年生まれ、藤原光博
1963年生まれ、松本人志、浜田雅功、板尾創路、蔵野孝洋
1966年生まれ、今田耕司
1967年生まれ、東野幸治
とリットン調査団が1番上だった。
水野透は、最初、舞台に出られただけで喜んでいたが、NSC出身者の今田耕司、板尾創路、蔵野孝洋や自分たちと同じ素人出身の東野幸治のネタの面白さに
「これはアカン。
このままやと負ける」
と焦り、しかも
「ウケたら来週も出してくれる。
ウケなかったら次の週はお休み。
ただしネタは常に新ネタ。
週に1個つくってこいみたいな」
という雇用形態の中、パン屋でアルバイトしながら必死にネタづくり。
一方でパン屋で年下の2人の女性従業員から
「芸人やってはるんですか?」
と聞かれ、
「そやねん」
と答えると
「よかったら芸人さん呼んで、コンパしません?」
といわれた。
オーディションで芸人になって、まだ数ヵ月。
今田耕司、板尾創路、蔵野孝洋、東野幸治らと、やっと仲良く話せるようなったばかりだったので
「呼べる芸人、相方だけやけど」
と答えたが、女性たちは、それでもよいといった。
水野透は彼女がいたが、藤原光博にはいなかったので、
「俺が横にいてるし、なにかきっかけになれば・・・」
と思っていた。
そしてコンパ当日、2人の女性は非常に積極的で、緊張しながら真面目に、しかも必死に話す藤原光博を
「ピュアやわ」
と気に入り、コンパは盛り上がった。
生まれて初めてモテた藤原光博は、コンパの後、2人の女性と連絡を取り続けたが、決して積極的ではなかった。
理由は、子供の頃から、
「男は風俗とか行くけど、女は結婚するまで処女」
「女性は、性欲がない清らかで美しいもの」
「街角のカップルとかもただ映画観に行ったり遊園地行ったりしているだけ」
と信じ続けたこと。
「自分は男やけど本当に好きな人ができて結婚するまでやらんとこう」
と決めていたが、大学で水野透に
「彼女いてるっていうけどセックスはしてないよな」
と聞いたとき、
「なにいうてんねん。
してるよ」
といわれ、
「ヤッてんねや」
と衝撃を受け、
「これはヤラな損やがな」
と思ったが
「風俗とかよりちゃんと付き合う子の方がいい」
と思い、お店に行くことは我慢し、
「せっかくここまで来たら、お金を払うとかじゃなくて、普通に出会って普通につき合って、海が見える白いコテージでやろう
と誓っていた。
そこに自分に好意を持ってくれる女性が2人も現れたから、さあ大変。
それでも
「でも僕は好きじゃないから、そんなんしたらアカン」
と思っていた。
そんな24歳、超ピュアで超ムッツリな藤原光博は、パン屋の女性の1人と人生初のデートへ。
まず母校、桃山学院大学の学園祭へ行き、その後、親の車で堺の街をドライブ。
車がラブホテルエリアに入ったとき、冗談で
「入ろか」
というと
「うん」
まさかの返答だったが。、
(聞き返して心変わりされると困る!)
と思い、ドキドキしながら無言で車をホテルへ入れた。
建物の中に入り、部屋に行くまでの間、初めて女性の手を握り、部屋の中で初めてキス。
すべてが初体験だったが、AVで観てきたすべてをやろうと、、
「駅弁もヤった」
しかしフィニッシュすることはできなかった。
「ずっと手でやってたから、手の感触と違うからやろな、最後までイカなかった。
それもあるしどっかで気ぃ遣ってた。
集中できなかった
つき合ってないのにヤッていいかな?って」
好きではない女性に童貞を捧げ、
「ヤッてしもうた」
と後悔したが、翌日、「圭・修(清水圭、和泉修)」がつくった劇団の芝居の稽古があり、満面の笑みで
「昨日ヤッたんや」
と報告。
今田耕司に
「おめでとー。
もうチェリーさんっていわれへんな」
といわれ、みんなから拍手された。
藤原光博は水野透にだけ
「最後までイかへんかってん」
と打ち明けた。
すると肩を叩かれ、
「1番最初でなにもかもうまくいく男はおらへんで」
といわれ、
(カッコイイ!!)
と感動。
この後、藤原光博は、女性と交際し続け、
「3回目のエッチの後で一緒にお風呂入って彼女がシャンプーしてる後ろから背中にオシッコかけた」
しかも最終的にパン屋の女性の2人ともとヤッてしまった。
1986年5月、客席数146の劇場「心斎橋2丁目劇場」がオープン。
オープニングは、ダウンタウン主演の「心斎橋筋2丁目劇場物語」
2日目は、「憂歌団 2丁目ザ・ライブショー」
3日目は、明石家さんま主演の芝居「SAMMA劇団」
6月 「「2丁目探検隊」」がスタート。
ダウンタウン、ハイヒール、圭修、今田耕司、東野幸治、130R、非常階段、まるむし商店、岡けんた・ゆうた、そしてリットン調査団らが活躍。
1987年4月 ダウンタウン司会の公開生放送番組「4時ですよ~だ!」が始まると心斎橋2丁目劇場は大盛況。
12月 登竜門イベント「2丁目JRたんけんたい」がスタートし、吉田ヒロ、木村祐一、亀山房代、山崎邦正、辻本茂雄、島田珠代、藤井輝雄らが活躍。
そんな中、リットン調査団は、今宮戎神社こどもえびすマンザイ新人コンクールで「こども賞」を受賞。
それは上から3番目の賞で、3年後にナインティナインが受賞した。
心斎橋2丁目劇場では、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治など年下の同期とは楽しくやっていたが、年下の先輩であるダウンタウンの楽屋からは、いつも浜田雅功の叫び声や女性スタッフーの悲鳴、そして松本人志の笑い声が聞こえてきて
「とにかくこわくて近づけなかった」
あるとき藤原光博は、裸芸を披露してジャンプして天井のパイプで頭を強打。
浜田雅功は、床に横になって悶絶している藤原光博をガムテープでグルグル巻きにして舞台に引きずっていった。
心斎橋2丁目劇場は、ほとんどの客が女子中高生。
開演時間になり、緞帳が上がると舞台の隅にガムテープを巻かれた裸の男がいて悲鳴が上がったが、ダウンタウンは淡々とオープニングトーク。
藤原光博は、全裸で横たわっていたときより、その後、服を着てネタをやったときのほうが恥ずかしかった。
番組が終わった後、ときどき反省会が行われ、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治らはスタッフや作家からネタについて批評やアドバイスを受けたが、水野透だけ
「おいっ水野、お前顔変えろ!」
「お前、華ないねん」
といわれた。
反省会が終わった後、ブサイク芸人である蔵野孝洋に
「気にしなや」
と励まされたが、翌日、散髪に行った。
ほとんどの客がダウンタウン目当ての女子中高生という心斎橋2丁目劇場で、リットン調査団は、
「坊さんが屁をこいた」
をミュージカル風に歌って踊ったり、チョンマゲのかつらをかぶって
「♪チョンマゲつけたらヨーロレイヒ~♫」
と歌ったり、プロレス、アニメ、下ネタを盛り込んだコントで客席をシーンとさせた。
『NHKは何の略?』
と聞かれたら
「内臓、破裂、気分」
と答え、
『好きな街は?』
と聞かれれば
「ワイヨミング州」
『尊敬している芸人は?』
「ザ・アベックホームラン師匠」
『何で売れないと思いますか?』
「プロデューサーと寝てないから」
『今後のスタンスは?』
「福井俊雄次第」
という水野透は、
「オモロイことをいうてるはずなんですけど、そもそも女子高生の口には合わない料理ですから誰も手をつけない。
なのでアクセントとして、少しずつ女子高生も好きそうなところをちょっとずつエッセンスとして入れたりもしたんです。
なんとか、ネタを見続けてもらうために。
でも結果的に、そのエッセンスのところだけホジくって、みてもらいたい本体の料理は手つかず。
そんな毎日でした」
と試行錯誤。
一方、
『今後のスタンスは?』
と聞かれると
「未来はわからん、今や」
と答える藤原光博は、芸人になってすぐに
「自分の才能のなさにビックリした」
「向いてない」
と思ったという。
心斎橋筋2丁目劇場を立ち上げた大﨑洋(後の吉本興業会長)に
「スベッたらお前らの来るとこちゃうから来週から来んでエエ」
といわれたり、水野透に
「ネタ飛ばした」
「噛んだ」
などとよく怒られ、出番の数日前から緊張で下痢になったが
「打ち上げでの飲む生ビールの1口目、こんな美味いもんない」
しかしある日の生放送中、事件が起こった。
リットン調査団がコントをしているとき、客席から
東野幸治や「おもんない」
というヤジが飛んだ。
一瞬、変な空気になったが、リットン調査団はコントを続行。
すると別の客席から
「帰れ!」
というヤジ。
さらに
「キショイ」
これが呼び水になって
「おもんない」
「帰れ」
「キショイ」
の大合唱。
水野透は、
「ネタしてる芸人に帰れはないやろ
お前らの子宮食べたろか」
と応戦。
すると合唱はパワーアップし、ジーパンにチェック柄のシャツ、銀縁メガネの藤原光博は
「俺らで笑わんでエエから黙ってて」
といったが、コントを続けることはできず、舞台から降りた。
「客が笑おうが笑うまいが自分たちが面白いと思うネタをやる」
という水野透。
「人生が10回あっても100回あっても芸人になりたいし、もう1回吉本に入りたい」
という藤原光博。
そんなリットン調査団のカルト的コントは、万人ウケはしないものの、男性や芸人仲間、そして少数ながら女性にも熱烈に愛された。
お笑いという正解のない世界の中で
「自分がやりたいことをやる」
「ウケないことがわかっていても全力でやりたいことをやる」
というリットン調査団は、ダウンタウンからも
「リットンは、やっぱり面白い」
といわれたが全然売れず、バッファロー吾郎、ケンドーコバヤシ、野生爆弾、レイザーラモン、笑い飯、千鳥、友近、山里亮太、ネゴシックス、天津、中山功太、ハリウッドザコシショウなどたくさんの後輩芸人に慕われながら、追い抜かれていった。
1990年、ダウンタウンが心斎橋2丁目劇場を卒業し、東京へ進出。
その後、劇場では、雨上がり決死隊、ナインティナイン、バッファロー吾郎、FUJIWARA、チュパチャップス、へびいちごらが活躍。
同時に今田耕司、東野幸治、板尾創路、蔵野孝洋、木村祐一などが東京に進出し「ごっつええ感じ」などに出演。
劇場出身者たちが全国に名を馳せる中、リットン調査団は、心斎橋筋2丁目劇場で活動し、深夜、2人一緒に写真の現像所でアルバイト。
仕事終わりの朝、空を見上げながら藤原光博が、
「またあのメンバーと一緒にやれたらエエな」
というと水野透は
「ハァーッ」
とタメ息。
心斎橋筋2丁目劇場を中心にときどきテレビに出たり、営業の仕事していたが、やがて東京でレギュラー番組を1本持ち、渋谷公園通り劇場で「リットン寄席」をやったり、大晦日のカウントダウンイベントのMCをやるようになった。
東京のレギュラー番組とは、深夜バラエティ番組「かざあなダウンタウン」で、ダウンタウン、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治、木村祐一、山崎邦正らと共演。
若手芸人は各コーナーで身体を張って番組を盛り上げたが、最年長コンビのリットン調査団は、最もイジられ、特にお色気企画の際に輝きを放ち、浜田雅功に
「こいつらが活きるのはここやったんや」
といわしめた。
そんな状態で藤原光博は、
「レギュラーあるうちに東京行ったら1本(のレギュラー)が2本、3本、10本に増えるかもな」
と東京進出を進言。
しかし水野透は
「1本のためになんで行かなアカンねん」
と消極的だった。
「東京に住んだら、もっと仕事が入るんちゃうかな」
「大阪で実力つけてからや」
結局、藤原光博は強引に1人で東京へ。
すごく気が利き、すごく仕事ができる藤原光博は、アルバイトをすれば、すぐにシャッターの鍵を任されたり、社内報にまで載ったり、重役会議に呼ばれるなど、責任ある立場になり、
「お笑い以外は、何やっても成功する」
本来、2ヵ月かかる天理スタミナラーメンの奈良本店での修行を2週間で調理のノウハウをマスターし、天理スタミナラーメン東京1号店(高田馬場店)をオープンさせて独立。
「資金は知人から無担保で提供してもらった」
「お笑いの世界では金脈をつかめてないけど人脈だけはある」
と芸人の仕事よりも生き生きと語った。
後輩のケンドーコバヤシが東京に進出してくると
「コバ、いろいろ不安はあると思うけど、不安になったときは深呼吸しろ」
とアドバイス。
ケンドーコバヤシが
「深呼吸したら楽なりました」
というと
「楽なったんちゃうねん。
お前が今、深呼吸したここは東京やぞ。
大阪と比べて圧倒的にアイドルの女の子歩いていることが多いねんからな。
そのアイドルのスカートの下をくぐった空気を、お前は今吸えたぞ!
だから東京で頑張っていこう」
と元気づけた。
「水野さんも早よ、来いや」
「温かくなったら行くわ」
といい続けて、3年が経ち、藤原光博は、東京ドームで行われるアントニオ猪木の引退試合のチケットを2枚購入。
1枚を
「東京ドームの21番ゲートで待ってるで」
といって大坂の水野透に送った。
1998年4月4日の引退試合当日、藤原光博開門時間から待っていたが、水野透は30分くらい遅れてやってきて、汗だらけの顔で
「水道橋の駅からドームまで遠いな」
そして2人でアントニオ猪木の引退試合に涙したが、その途中で水野透は
「東京に引っ越す」
といった。
こうして37歳の水野透が合流し、リットン調査団は東京に進出。
しかし1本あった東京のレギュラー番組「かざあなダウンタウン」は、すでに終了。
さらに水野透が上京した直後、渋谷公園通り劇場もなくなってしまった。
「君にはダマされたわ」
そういう水野徹は、東京の喫茶店に入って
「れーこー、くらあい」
と注文したが、
「は?」
「だかられーこー、くらあい」
「はい?」
キツい大阪弁のために通じなかったが、藤原光博いわく
「ええカッコしいなところがある」
という水野徹は、
「アイスコーヒー下さい」
が決していわなかった。
そしてはリットン調査団は、新宿のルミネtheよしもとを中心に活動しながら、藤原光博は、ホテルの皿洗い、水野透は、羽田空港の荷捌き場でアルバイトをしながら、1999年1月31日にジャイアント馬場が死んだときは
「バイトも手につかへんし、飲んだくれて自暴自棄になって泣いたわ」
「今ちゃんの中野探検隊」という若手芸人がロケをしたVTRを流す番組でレギュラーになったリットン調査団は、「色んなものをぶつけられる企画」を体当たりで実行。
藤原光博が、8mぐらいの高さから地面に寝転んでいる相方の顔面に絹ごし豆腐を落とすと、水野透は必死に
「絹ごし豆腐でも高さがあったら危険や!
死んでまうわ!」
通天閣の上から絹ごし豆腐を落とされたこともあり、
「通天閣の上から落ちてくる絹ごし豆腐は凶器や!
ホンマに死んでまうわ!」
と魂の叫び、1mの高さかスイカを頭上に落とすと、一瞬、水野透の首が体にメリ込んだ。
「走ってくる軽トラがブレーキをかけて止まる瞬間にぶつかる」
という企画も視聴者がハマったため、軽トラからトラック、最後は観光バスになった。
しかしリットン調査団の芸人の仕事は徐々に減り、出番は新宿のルミネtheよしもとの新喜劇だけに。
新喜劇では石田靖率いる「石田班」に所属していたが、ある日、水野透が
「大衆に迎合するような笑いはやりたくないねん」
といい出し、唯一の仕事である新喜劇の仕事を断った。
「人の書いた台本でウケようがスベろうが充実感、達成感がないねん。
何かが違う。
イヤやねん」
という水野透に対し、藤原光博は
「新喜劇の仕事もコンビの仕事も全部やりたい」
といい、考えが合わず、コンビの仕事は激減。
「そのときは他にもたまたま仕事が多かったから月収80万あって、次の月が1万円で、その次の次の月がゼロで、もうずっ~とゼロになった」
という藤原光博は、もともとルミネに出ながら
「なにがあるかわからん」
と月数回アルバイトに出ていたので、そこで時間を増やして働くようになったが、それも東日本大震災によってなくなった。
やがて郵便受けに督促状がたまるようになり、吉本興業に借金し、その借金を返すために友人から金を借りた。
「水野さんはルミネとかで、いってみれば大衆に迎合した笑いはやりたくない。
じゃあ自分らでイベントやろうよっていう話やけど、それもやってない。
何もしてない。
頼むから俺と一緒にやってくれって頭下げるのもオレも意地があるからイヤやしね。
嫌々やっても面白いものができるわけないし、じゃ自分1人でやっていこうと思って」
という藤原光博は、ドラマや映画に出た経験があった吉本興業に
「仕事入れへんかな」
と俳優の仕事を頼み、無名の人たちと一緒にオーディションを受け、ドラマ、映画、舞台に出演し、くせのないサラリーマン役から、お得意の奇異で珍妙な演技まで幅広くこなした。
リットン調査団としての活動は年数回となって水野透と顔を合わせる機会が減ると藤原光博は、ときどきインターネットで
「リットン 水野」
を検索。
そして
「西新宿をチャリンコで走ってました」
という目撃情報などで生存確認。
一方、アルバイトを頑張る水野透は、
「体は正直ですからね…
この前も重いものを運ぼうと思って「これはアカン」と思ってピキッと来る前に荷物を置いたんです。
それでも3日ほど腰痛でバキバキでしたから。
ま、そんな現実もありますけど、なんとか走り続けたい。
それは思っています」
2001年、千原ジュニアはバイク事故に遭い、生死の境をさまよっているとき
夢の中でリットン調査団の2人に出会い、コント道具のような大きな花びらを顔の周りに装着した水野透と藤原光博が
「こっちにおいでよ」
「早く」
と笑顔出で手招きしているので、直感的に
「行ったらアカン」
と、その場に留まった、
するとゆっくりと意識が戻り、一命をとりとめた。
リットン調査団は、毎年、年末の深夜から早朝にかけて約5時間、生放送される「オールザッツ漫才」に、第1回(1990年)から14回連続出場していたが、水野透が、出ないといい出し、
東京から大阪にプロデューサーがやってきて
「リットンさんは、この番組の顔です」
と説得したが、水野透は
「去年出たときに違う風が吹いた」
といって断り、藤原光博は、
「わけのわからんこというて、ええカッコしよんねん」