フジコ・ヘミング は、第2次大戦前の起こる直前のドイツ、ベルリンで生まれた。
母親は、ピアニストの大月投網子。
実家は大阪で工場を経営し、父親(フジ子の祖父)が印刷用のインキを発明して財を成し、大月投網子は、東京芸術大学卒豪後、ベルリン芸術大学に留学していた。
父親は、ロシア系スウェーデン人のジョスタ・ジョルジ・ヘミング。
貴族の末裔という家系に生まれ、20歳を過ぎたばかりの頃、ベルリンの大手映画会社の広告デザインを担当していて、年上の大月投網子に出会った。
2人は結婚し、フジ子と弟のウルフ(俳優の大月ウルフ)が誕生した。
「父はベルリンにいた頃、新進デザイナーで、最も有名で後々まで使用されているのはマレーネ・ディートリッヒが主演した映画「上海特急」のポスターで、幻想的な絵です。
父は芸術家にありがちな自由主義で、女性に対してもあまり責任を取るタイプではなく、いつもフラフラしているような若者でした。
母は、後からそれに気づいたようですが、当時は2人とも若かったため、出会ってすぐ恋に落ち、結婚しました。
私が両親のことで覚えているのは、いつもケンカばかりしていたということ。
ベルリンでも日本でも口ゲンカが絶えませんでした。
父は、女たらしで恰好をつけるタイプ。
母は、ヒステリーで気性が激しく、思い通りにいかないとわめきまくる。
2人は性格をよく見極めてから結婚すべきでしたが、若かったからか、お互いの本質を理解しないまま一緒になってしまいました」
(フジコ・ヘミング)
フジ子が5歳のとき、一家は東京へ移住。
それは日中戦争が起こる直前の頃で外国人に対する偏見や差別は強く、父親は仕事に就くことができなかった。
そして毎日、母親とケンカ。
結局、わずか1年で単身、ヨーロッパへ戻っていった。
「母は父について多くを語ろうとはしませんでした。
私には3歳下のウルフという弟がいますが、幼い子供たちを残して去っていった父を決して許そうとはしませんでした。
何度か父から手紙がきて「生活が軌道に乗ったら家族をスウェーデンに呼びたい」といっていたようですが、母は頑として応じようとはしませんでした。
電話もかかってきましたが「何いってんの、ノーったらノーよ」と、叫んでいる母の声を覚えています。
父から電話がかかってくると私はすぐに代わってほしいため、母の隣にピッタリくっついて電話の向こうの父の声を聞き取ろうとしました。
「ハロー、フジコ、元気かい?」
はるか彼方から聞こえてくる父の声は、懐かしさににあふれ、私はいつまでも受話器を離そうとしませんでした。
しかし母はもう父に愛想をつかしていたのかもしれません。
女手ひとつで2人の子どもを育てるため、ピアノを教えるようになったからです。
自宅で生徒を教えることも多かったのですが、出稽古に行くこともあり、裕福な外国人の子弟のレッスンを必死でこなしていました」
ピアノを教えて家計を支える母、フジ子、弟という3人暮らしとなった上、戦争が始まるとますます厳しい状況となる。
「父はイジめられ、仕事もなく、スウェーデンに帰っていきましたが、母も外国人と結婚したからと警察に連れて行かれたこともありました。
外国人は立入禁止だと海水浴場に入れなかったことや、意地悪されて食料の配給をもらえなかったこともありましたし、異人、異人とイジメられて石をブツけられることもありました」
そんな中、フジ子は5~6歳の頃に、母の手ほどきでピアノを始めた。
かつて家にピアノのレッスンに来た女の子が、母親に
「先週も同じ間違えをしたのに、なんでアンタは練習してこないの‼」
とものすごい剣幕で怒られ、ポロポロと涙を流して、まったく弾くことができなくなるのをみて
(かわいそう!
なんであんな教え方をするんだろう)
と思っていたが、自分は他の人と比べ物にならないほど厳しい指導を受けることになった。
「毎日、練習を欠かさない。
その積み重ねがなければピアニストになれない」
という母親は、フジ子に2時間ほどのレッスンが1日に何回も繰り返した。
それは
「音が間違ってる!」
「そろってない!」
と怒鳴り放しの厳しいスパルタ式で、フジ子は外で遊びたくてもダメ、トイレに逃げ込んでも引っ張り出され、あまりの厳しさに、いつも泣いていた。
母親について、
「1度もピアノをホメられたことがない」
「毎日何度も「このアホ」といわれ続けたので、40歳を過ぎるまでずっと自分は前代未聞のアホだと思っていたわ」
というが、
「そこにはたしかに愛情があった」
「正直で純粋で不器用。
そんな母のことが大好き」
という。
母親は、外国人の血が混じっているフジ子をミッション系(キリスト教系)の青山学院初等部に入れた。
聖書の教えに基づく「全人教育」を奨励し、クリスチャンでない人でも受け入れる青山学院初等部。
クラスには、日本人だけでなく、イギリス人、台湾人、中国人の子供もいて、担任の先生は堂々と
「戦争で反対です」
といった。
父親がいなくなってしまった寂しさ、貧困、母親の厳しいレッスン、そんなツラい現実から逃れるためか、フジ子は空想するのが好きだった。
自由に気持ちを膨らませて、街の風景、道端、ピアノの練習、家族、裁縫、お気に入りの服、食べ物などからたくさんの楽しい瞬間を発見し、窓につく雨粒や物干し竿から落ちる雨だれをずっと眺め、その下に空き缶を置いて水が落ちる音を楽しんだりした。
そういった空想遊びは、やがて絵を描くことにつながっていった。
学校の夏休みの宿題がきっかけで絵日記をつけるようになり、授業で描いた絵が賞をとったこともあった。
フジ子のとって想像することと絵を描くことはなくてはならない楽しみとなった。
「現実から離れて没頭できる趣味を持つことはとても大切。
なにか1つ持っているとツライことや悲しいことを一時忘れることができて心のリセットにつながる。
私が幼い頃から絵を描くのが大好きで、いつも絵ばかり描いていたのは、父から受け継いだものかもしれません。
ただし、父はいつもいっていました。
フジコ、絵描きにだけはなるなよ、食べていけないからって。
母は父のことをプレイボーイで格好ばかりつけて、責任感がなくて、勝手な男だといっていた。
純粋な母に対し、父か計算高くてずる賢い人。
けれど私は父からいいところをたくさんもらっている。
絵を描いていると私の中に父の血が流れていることを感じるの。
繊細でロマンチックだった父。
そこも受け継がれている」
一方、走るのが苦手なフジ子は、徒競走やマラソンで、いつもビリ。
運動会で走っているとき、
「うちのアホ娘、ビリで走ってる」
といいながら他のお母さんたちと笑う母親を目撃してショックを受けた。
大人になってドイツに渡り、膝が痛くなって病院にいったとき
「これはあなたのお母さんがあなたが赤ん坊のときに間違った方法でおしめを巻いたのが原因でしょう。
それであなたの股関節はおかしくなっているのです」
といわれた。
自分が走るのが苦手な原因が判明し、運動会のことを思い出したフジ子が知らせると、母親は申し訳なさそうにしていたという。
母親の友人の娘がNHKのオーケストラでバイオリンを弾いていて、小学校3年生のフジ子のことを音楽部長に話したことがきっかけで、NHKラジオに出演することが決定。
当日、9歳のフジ子は、緊張しながらショパンの即興曲を生演奏。
番組放送後、反響を呼び、
「天才少女」
といわれた。
「小さい頃は何もわからずに弾いていたし、演奏会にいくお金もないし、テープレコーダーもなかったから、他の人がどんなに素晴らしいのか、下手なのか、聴く機会がなく、比べることもできなかった」
また10歳のとき、初めて猫を飼った。
以後、拾ったり保護したりしながら、常に犬や猫と一緒に過ごすことになる。
「母はあまり好きではなかったけど、なぜか飼うことを許してくれた。
飼えないときもあったけど、それからというもの私の人生に猫はなくてはならない存在になっていた。
スウェーデンの祖母の実家は動物病院で粗祖父は院長をしていたので、その血が流れているから猫と一緒にいるのかもしれない。
猫は人間みたいに嘘をつかないし裏切らない。
人にみられていることを意識して格好つけたり威張ったりしない。
純粋でつくられていないところが好き」
最初のピアノの先生は母親だったが、10歳からレオニード・クロイツァーの指導も受け始め、それは大学卒業まで断続的に続いた。
世界的ピアニストであり、東京芸術大学とベルリン芸術大学で教えていたレオニード・クロイツァーは、
「子供には教えない」
といっていたが、母親に連れられてやって来たフジ子のピアノを聴くと
「お金なんていいから教えよう‼」
フジ子は、葉巻をくわえたままピアノを弾くクロイツァーをみて、
「かっこいい!」
と感激。
クロイツァーは、フジ子がうまく弾くと目でそれを伝え、弾き終わった後、
「今に君は世界中の人を魅了する」
と飛び上がって喜ぶこともあった。
それまで母親に怒られてばかりだったフジ子は、
「なんでこんなに優しいの?」
と戸惑ったが、クロイツァーの温かい指導で、ますますピアノが好きになっていった。
そしてクロイツァーが日比谷公会堂で弾いた「 La Campanella(ラ・カンパレラ)」を初めて聴き、あまりに美しい音色に感激。
「ラ・カンパネラ」は、ピアニストで作曲家のフランツ・リストが1834年に作曲したピアノ曲で、「カンパレラ」 は、イタリア語で「鐘」という意味。
フジ子にとって後に自分の代表曲となり、人生を左右する大切な1曲との出会いだった。
中学3年生の2月、空襲が激しくなった東京から家族と一緒に岡山県総社市日羽に疎開。
2ヵ月後の4月、岡山県の高等女学校に入学した。
敵国の音楽を演奏することは憚られていたため、フジ子は毎日、みんなが帰った後、学校のピアノに向かい、練習を続けた。
すると意外な変化が起こった。
「いろんな兵隊さんが、私のピアノを聴いて感激して。
ある方は教室に入ってきて黒板に『愛しのフジちゃん、ピアノが素晴らしい』って白墨で書いてくれたのを思い出します。
彼女は外国の音楽をやっているのか、結構いいねと思ったらしくて、あるとき家にいたら素晴らしい合唱が聞こえてきたんです。
エッ?と思って窓からいたら兵隊さんが合唱しながら行進しているの。
サンタルチアの合唱が。
あんなに感激したことは初めてだった。
だからきっと私のピアノにも影響されて『ヨーロッパの音楽をやりましょう』なんてことになったんじゃないかしら」
初恋をしたのも、このときだった。
「私、戦争中に岡山に疎開したの。
日本の兵隊がたくさん小学校に駐屯していた。
その中の1人が私の初恋の人なのよ。
私よりずっと年上だったから、もう亡くなったらしいですけど、プックリした日本人よ。
笑ったことは1度もなかったわ。
いつも憂鬱そうな悲しい顔をしていた.
1回だけ彼がしゃべった言葉は、『きょうはピアノを弾かないんですか』って、私に、廊下でお会いしたときに。
私は一言も彼にしゃべらなかった。
それで終わっちゃったんです。
終戦になっていってしまったから」
終戦後、東京に戻って青山学院中等部に転校し、青山学院高等部に進学。
16歳のとき、中耳炎が悪化し、右耳の聴力を失ってしまい、さらに一時、不登校になってしまう。
「学校が大嫌いだったから、授業をサボって1日中映画館に入り浸ってこともある。
もちろん母には内緒。
学校にいくより映画のほうがよっぽどプラスになると思ったから。
4本立て上映している映画館があって、朝の9時頃に入って、映画が終わって外に出ると星がキラキラしてて幸せな気持ちになったことを覚えているわ」
その後、学校の先生に、
「なんで学校に来ないの?
将来困りますよ」
といわれ、渋々登校。
17歳でコンサートデビューし、高等部を卒業後、東京芸術大学に進学。
20歳からタバコを吸い始め(89歳で禁煙)、21歳のとき、新人音楽家の登竜門、「NHK毎日コンクール(現:日本音楽コンクール)」に入選(5位以内)し、翌年には2位入賞。
さらに文化放送音楽賞など多数の賞を受賞。
リサイタル(独演会)だけでなく日本フィルハーモニー交響楽団との共演など本格的な音楽活動が始まった。
「高等部の同級生は、今、色んな道を歩んでいる。
幸せな家庭を持っている人もいれば、1人の人もいる
ガリガリ勉強していた優等生が社会的に成功しているかといえば、そうでもない。
当時最低だった私が、こんな風になっている。
人生どうなるかなんて、わからないものね。
だから評価されなくても自分が信じた道への希望を決して捨てないほうがいい。
希望を持ち続けていれば理解してくれる人たちがきっと現れる。
そして道が開ける時が来る。
そう信じること」
東京芸術大学卒業後は、自分で生まれ故郷であり、かつての母親が学んだベルリンへの留学を熱望。
ところがパスポートの申請したとき、自分が無国籍であることが発覚。
かつて父親の祖国、スウェーデンの国籍を持っていたが、生まれてから1度も訪れたことがないため、規則によって抹消されてしまっていた。
無国籍ではパスポートが取れないので、日本国籍を得ようと役所に何度もかけ合ったが、願いが届くことはなかった。
その後、音楽活動を続け、28歳のとき、西ドイツ駐日大使、ウィルヘルム・ハースの助力を得て、西ドイツ赤十字社に認定された難民としてドイツに渡り、ようやくベルリン芸術大学で学ぶという夢が叶った。
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ドイツでは母親からの仕送りと奨学金を頼りに貧しい生活がスタート。
そのお金がなくなって母親に、
「食べるものがなくえ砂糖水しか飲めない」
と手紙を書くと
「何いってるの。
こっちは塩をなめてお金を送っているの。
もっと頑張りなさい」
と返事が来た。
また母親は新聞の切り抜きを送ってきて、それは
「人間はじゃがいものスープさえ食べていれば生きていける」
という医者が書いた記事で、砂糖水に加え、じゃがいものスープも空腹を凌ぐメニューとなった。
お金がないために病院の清掃の仕事を始め、寝たきりの人やお年寄りの世話も行った。
ピアノを弾いていることは誰にもいっていなかったが、病院に置いてあったピアノを弾くと医師や看護師、患者が集まってきて、中にはボロボロと涙を流す人もいて、みんなが感激してくれた。
「ピアニストの多くはお金持ちの家に生まれた人で、私のようにお金がなくて清掃の仕事をしていたなんていう人はいないでしょう。
お金持ちのピアニストの音楽は聴きたくないけど、現実はそういう人が一流を呼ばれているのよ。
でも病院で働いたことも、いい経験になったと思ってる。
いろいろな苦労が私のピアノの音をつくっている。
ツラいことに耐えた経験がピアノの音色や響きに現れ、豊かな表現になっているはず」
外国に留学できる日本人は金持ちの特権階級の子供ばかりで、ド庶民のフジ子は見下された。
ある者はハーフであるフジ子のことを
「日本人じゃない」
とドイツ人学生にいい、ある者は
「あなたがピアノを弾いている姿はクマの子みたい」
とおかしそうにいった。
日本で異人とイジめられ、ドイツでも偏見で変人扱いされるという理不尽に対し、フジ子はゴーイング・マイ・ウエイ。
「人は人、私は私。
人と違って何が悪いの」
「人と違う方がいい」
「国籍なんてどうでもいい。
私に祖国なんてない」
「たとえ変人といわれても、そんなことは気にせず、自分らしさを出すことを1番に考えるべき」
「みんな同じ価値観になってしまうと個性が消えてなくなってしまう」
と決して屈することなく自己を肯定し、ピアノを弾き、音楽を学んだ。
他人からどういわれようと我が道をいくフジ子は「ハンガリー狂詩曲」を弾いていると教授に
「なんでそんな下品な曲を弾くんだ」
といわれて失望したこともあった。
「この曲は、放浪する貧しい人たちの音楽が元になっているから、その教授はそういう音楽をバカにしたのでしょうけど。
(作曲したフランツ・)リストは、寛大で貧しい人たちの心を受け入れられたから、この曲を書けたのにね」
同じようにクラッシク音楽にはジャズやロックをバカにする傾向があったが、
「お高くとまっちゃってね。
私はジャズもロックもシャンソンも民謡も演歌も好き。
クラッシクの人の中には演歌のことを「下品な歌い方」という人もいるけど、美空ひばりを聴いて、ああいう風に色気のある音楽やったら観客が喜ぶわよといいたいわ」
こういった反骨精神は音楽にも現れ、ただうまく弾くだけでなく、繊細さと激しさを併せ持った情感あふれる旋律と世界でも稀有なピアノの音色がつくられていった。
「機械のようにミスなく完璧に弾くことが素晴らしいと思っているピアニストをいいとは思わない。
クラシック音楽とはこういうものと決めつけているようで、そういう人たちがクラシック音楽を面白くないものにしているんじゃないかと感じる。
私はショパンの霊感を感じて、自分の心に描かれたイメージのままに演奏するの。
この曲はこう弾くものなんて決まりはないし、音楽はみんなのためにあるのだから。
楽譜通りの弾き方がいいと思っている人が大勢いるけど、こうでなくてはならないという決まりはない。
譜面にない休符があったり、リズムがあったり、もっと自由な解釈があっていい」
陰湿なイジメにあったり、食事ができないほどお金に困ったり、大変なことがいろいろあったが、ベルリン音楽学校では一流の音楽に触れることができて、それは一生の宝物になった。
その独自の音楽性と自己演出で「魔術師」といわれたヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が定期的に開かれ、学生は無料で聴くことができた。
「カラヤンが振るタクトは、しなやかでとても優雅。
時折、カラヤンと目が合うような気がして胸がドキドキ高鳴った」
というフジ子は、オーケストラのメンバーに
「私のピアノを聴いてください」
と書いた紙をカラヤンに渡してもらった。
すると意外にも
「すぐに来い」
という返事が来て、カラヤンのところへ。
「何を弾くの?」
といわれたが、あまりに突然で心の準備ができておらず、
「今は弾けません」
と答え、カラヤンのご機嫌を損ねてしまった。
ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業後、キャリアを積むために音楽の都、ウィーンへ移った。
ウィーンでは、ピアニストにして音楽学者、とりわけモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの専門家で自筆譜や歴史的楽器のコレクターとしても有名なパウル・バドゥラ=スコダに師事し、
「自分の思うままに。
それでやっていきなさい」
とアドバイスを受けた。
今世紀最大の作曲家であり指揮者のブルーノ・マデルナとも出会い、才能を認められ、ソリストとして契約。
「やっと自分の演奏会ができる」
と思ったが、そうかんたんにはいかなかった。
たとえ才能を認められても音楽会社や興行会社のバックアップがなければ演奏会は行えない。
厳しい現実を知り、コネもお金も支援者もいないフジ子は、
「自らの手でチャンスをつかまなければならない」
と悟った。
1969年、コンサートが実現できずに悶々と日々を過ごしていたとき、カラヤンと人気を二分する世界的指揮者、レナード・バーンスタインがアメリカから演奏会を行うためにウィーンにやって来た。
演奏会が行われる数日前、まったく面識のないバーンスタインに
「どうか私のピアノを聞いてください」
という手紙を書いて宿泊先のホテルに託した。
そして3時間ほどの演奏会をお金がなかったために立ち見席で聴き、演奏会が終わった後、バーンスタインの楽屋に向かった。
運よくバーンスタインと会え、ドキドキしながら
「私の手紙を読んでいただけましたか?」
と聞くとバーンスタインは優しくうなずいて
「ああ、もちろん読んだ」
すぐさまフジ子が
「私のピアノを聴いてください」
というとバーンスタインは、
「すぐに弾いてみなさい」
フジ子は
(これが最初で最後のチャンス)
と意を決し、3時間立ちっぱなしで棒のようになった脚で部屋の隅にあったピアノに向かい、いろいろな曲を細切れで弾いた。
その中にはバーンスタイン作曲の「ウエストサイドストーリー」もあった。
無我夢中で弾き、それは弾き終わった後は動けないほどだった。
するとバーンスタインはフジ子に近づいて、抱き寄せ、キスをして
「君は素晴らしいピアニストだ。
君のために力を貸すから安心して私にすべて任せなさい」
抱きしめられた瞬間、フジ子は尊敬の念が沸き上がると共に恋に落ちた。
「彼は私を抱いてキスをして、ウンッてやってね。
それで安心しろっていいましたよね、私に。
寛大で人間味にあふれてて、音楽に対して差別や偏見がない。
粋でセンスがあって、明るくて。
私が尊敬する一流の音楽家であり、私の理想の男性」
しかしそのバーンスタインへ想いは、20年以上、胸に秘めたままだった。
「1年でも1ヵ月でも彼と一緒に居られたら素晴らしかったと思う。
私が彼を好きだってことは、彼は全然知らないですよ。
ラブレター書こうかな、書こうかな、今日書こうかな、1度でもいいから書いて死にたいと思っていたら、彼、死んじゃったからね」
(バーンスタインはフジ子の成功をみることなく1990年にアメリカで死去した)
バーンスタイン以外にも恋愛を対して、フジ子は自称、負け組。
「恋をすると不思議ね。
今日は会えるかしらと朝からその人のことばかり考えて、心がウキウキして、毎日が楽しくなる。
いろんな恋をしてきたけど、惚れた相手はロクでもない人が多かった。
ウソつきな人だったり、浮気者だったり。
友達からはどうしてそんな男ばかり惚れるのといわれたけど、こればかりは直らない。
私は男を見る目がないのね。
フラれたときはいつももう2度と恋なんかしないと思うけど、不思議なことにどんなイヤな思いをして別れても、時が経つといい思い出だけが心に残っていく。
嫌なことは全部忘れて、なんて素敵な恋だったんだろうと、いいことばかり思い出す。
そしてまた気がついたら好きな人がいて恋をする」
バーンスタインに
「任せなさい」
といわれた半年後、フジ子は、その推薦によってウィーンで、しかもシューベルトホールという一流のホールでリサイタル(独演会)を行わうことになった。
街角には一流の証となるリサイタルポスターが貼られ、コンサートを1週間後に控えた冬のある日、突然、アクシデントが。
暖房のないアパートの部屋で暮らし、食事は大屋さんにご飯をつくってくれる油まみれの豚肉料理という環境の中、疲労も重なってフジ子は風邪を引いて発熱。
医者にかかるお金はなく、その場しのぎで薬を飲んだ。
「この薬が合わなかったのかもしれない」
というが、起きたとき、体に異変が起こった。
いつも枕元に鈴を置いていた鈴が床に落ちたとき、音がしないことに気づいたのである。
元々、右耳は16歳から聴こえない。
鈴を拾って左耳の横で鳴らしたが何も聴こえない。
あわてて病院にかけ込んだが、すぐには治らないといわれた。
しかしリサイタルは待ってはくれない。
バーンスタインの秘蔵っ子ということで新聞記事にもなり、すでに演奏を楽しみに待っている人も数多くいた。
「バーンスタインからもらったチャンスを逃すわけにはいかない」
耳が聴こえないまま初日のステージに上がったが、自分の弾く音も観客の反応も聴こえず、散々な結果に。
演奏翌日、新聞に書かれた評価は、
「衝動的で力強く個性的な表現力を備えているが、残念なことに彼女本来の演奏とは程遠いものになってしまった」
その後の公演は中止にせざる得ず、35歳のフジ子は、最大のチャンスを最悪の結果にしてしまった。
「まったく聴こえない。
弾いててなんにも聴こえない。
これは現実だろうか。
16歳のとき、中耳炎をこじらせて右耳が聴こえなくなっていたけど、今度は左耳も聴こえなくなってしまった。
音楽家を志す者にとって、これはどういうことか。
もうダメだと絶望した」
どうしたらいいかわからず、毎日泣いて過ごし、しばらくはピアノの前に座ることもできなかった。
「誰も知らないところへ行ってしまいたい」
フジ子は逃げるようにウィーンを後にして、父親の母国、スウェーデンの首都、ストックホルムへ。
「いやっ、あのときはやっぱり・・・
もう、そのときお金も何もなかったから・・・
とにかくウィーンから出なくちゃ、もうこれは救われないと思ったからね。
その後すぐ荷物をまとめてストックホルムいきましたけどね。
そのときはやっぱり落ちぶれて、都落ちしたような気分で、もうこれで終わりだと思いましたけどね」
大学病院で耳の治療を受けながら、途方に暮れる日々。
唯一の楽しみは絵を描くことだった。
「美術の才能があった父親の記憶をたどりながら絵を描き続けることで、かろうじて精神を保っていた。
けれど思うのは、それが私の人生だということ。
ピアノを弾くことをやめなかったから今の私がある。
ツラい目にあったことも決してムダになっていない。
音を失ったおかげで、その他の感性を磨くことができたのかもしれないし、幸せを得るために通らなければならない道だったのかもしれないわ」
フジ子の左耳は、40%まで聴力を回復。
ウィーンで失意のドン底に落とされ、誰も知らないところへ行くたくてスウェーデンへ渡ったが、
「やっぱりドイツがいい」
とドイツへ戻り、街を転々とした。
「なにか嫌なことがあると、もっといい場所があると思い、荷物をまとめて引っ越し。
でも結局どこにもパラダイスなんてない。
1つの場所にいたほうが自分の目指すところに早くたどり着くということがわかったのは随分後になってからね。
転々とする暮らしの中で人生を悲観したこともあったけど、知り合いや友人に愚痴ったことはない。
やり切れないときはカフェで隣りに座った見知らぬ人に愚痴っていたわ」
やがてウィーン から600km離れたルートヴィヒスハーフェンのアパートで暮らすようになったフジ子は、それから15年間、ピアノを教えながらひっそりと暮らした。
隣人によると
「フジ子はとても人見知りで閉じこもりがちでした。
電話をしても出ず、訪ねてドアをノックしても開けることはありませんでした」
というが、フジ子いわく、
「コワかったですね。
人とつき合うのが、人にバカにされるのは、もう、ごめんだったから。
世の中をあきらめてて、天国にいったら、きっと私の出番があるだろうと思って、それの用意をしていましたからね」
人に会うのを避け、部屋にこもり、ただただピアノを弾き続けた。
そのときの聴き手は猫。
ピアノを弾く力も湧いてこないときは好きな音楽を聴き、フジ子の心は猫と音楽によって救われた。
「人生なんて人に相談しても仕方ないことがたくさんあるでしょう。
口を利かない猫や犬のほうが好き」
赤ちゃんを育てたいと思い、牧師に養子縁組を申し込めるか相談したこともあったが、
「あなたは独身だから、おそらく許可は下りないと思います」
といわれ、音楽と見捨てられた動物に愛情を注ぐことに決めた。
「長いこと無名だったけど、そんなことちっとも気にならなかった。
なぜならいつも猫がそばにいて、その世話に明け暮れていたから。
テーブルクロスを爪でひっかく、花瓶を倒す、ピアノの上が毛だらけになる、猫中心の暮らしは、それはそれで大変だったけど、愛情を注ぎ面倒を見る存在がいるのはとても幸せなことでした。
安い月謝でピアノを教え、生活が楽ではなかったときも自分の食費を切り詰めて猫にご飯をあげていた」