黒柳朝子の2歳上のダンナ様、黒柳守綱は、東京、墨田区本所生まれの江戸っ子。
父親は、長崎で蘭学を学んで医者となり、かつ熱心なクリスチャンでもあり、本所教会の長老までなった。
本を乗せた見台の前に正座し、片手はキチンと膝の上、もう一方の手でページをめくって読む人物で、往診から帰ってくると、車夫が
「お帰りぃ~」
と叫び、妻、子供、書生、お手伝いさんまで全員が玄関に集合。
板の間に手をついて
「お帰りなさい」
とお出迎え。
黒柳守綱は母親は、黒柳朝子いわく
「女優の沢口貞子さんと山本陽子さんを合わせたような、とても美しい人」
いつも着物で
「なにがあるかわからない」
と財布に必ず使わないお札を1枚入れておく人だった。
黒柳守綱には、櫻村(松竹蒲田撮影所の初代所長)、修治(ジャーナリスト・カメラマン)という兄がいたが、2人は静かでおとなしいのに1人だけヤンチャ。
小学校は遅刻の常習犯で、1時間目の授業は、いつも後ろに立たされながら受けた。
古着屋の子供がイジメっ子だったことに腹を立て、水を口に含んで並んでいる商品に吐きかけたり、兄がイジメられて帰ってくると、タンコブをつくりながら報復した。
8歳のときに父親が亡くなり、12歳から三越呉服店で働き始めた。
三越にはクラシック音楽を演奏する「三越少年音楽隊」があり、バイオンリンを学び始めた。
一方、黒柳朝子は、北海道空知郡滝川町生まれのエゾっ子。
父親は、仙台医学専門学校(東北大学医学部)卒の開業医だが、黒柳守綱の父親よりも25歳若かった。
母親は、子供のお古の洋服を着たり、寒ければ長いスカートの上に短いスカートをはいたり、長袖の上に半袖を着たり、着るものにまったく無頓着。
洗濯機のない時代、寒い北海道で手を赤くしながらゴシゴシ、ジャブジャブ洗濯するのは大変で、こまめに洗濯することはできず、2、3日に1度着替えないこともあった。
「いいことをしようとしていることに神様が力を貸してくださらないはずはない」
という信念を持ち、余ったお金があれば教会に寄付をしてしまうので、母親の財布はいつも空だった。
狭い町なので町中みんな顔見知りで、父親はほとんど全員を診ていたが、治療費は盆と暮れのまとめ払いのため、買い物をするときは、ほとんどツケ。
黒柳朝子も学用品や本などを
「これちょうだい」
といってもらって帰り、買ってもらうとか買うという感覚はなかった。
長女である黒柳朝は、母親がミッションスクール(キリスト教の教えを教育理念に掲げる学校)、宮城女学校)に再入学したとき、一緒に仙台へ転居。
2年間、仙台東二番町小学校に通った後、北海道に戻って岩見沢高等女学校に進学し、4年間、寄宿舎生活。
音楽教師の勧めで北海道の実家を出て、東京都千代田区麹町の親類の家に住みながら、東洋音楽学校((現:東京音楽大学)に通った。
声楽科3年生のとき、日本のオーケストラの礎を築いた作曲家、山田耕筰のもとでアルバイトを開始。
オーケストラの演奏に加え、豪華な衣装を着た俳優が芝居をしながら歌い、コーラスやバレエまで入るオペラは、音楽の勉強になる上、舞台衣装を着けて歌うこともあるのがうれしく、声楽科の生徒として学びと実益を兼ねた楽しいアルバイトだった。
山田耕筰は、東京音楽学校卒業後、三菱財閥総帥、岩崎小弥太の援助を受け、ドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、日本人初の交響曲「かちどきと平和」を作曲。
帰国後、日本初の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を創設したが、不倫問題で岩崎小弥太の逆鱗に触れて支援を打ち切られ、たった1年で解散。
その後、「日本演劇協会」を創立し、オペラを上演。
さらに「日本交響楽協会」を設立するも不明瞭な経理を理由に大部分の楽員が離れ、黒柳守綱ら4名が残って「新交響楽団」を結団。
山田耕筰は、数々の失敗で40歳にして多額の借金を抱えながら、日本語による歌曲を追求し「赤とんぼ」などの名曲をつくった。
黒柳朝は、そんな破天荒な作曲家が主催するオペラ「椿姫」「お蝶夫人」「カルメン」でコーラスガールを務めた。
オペラ「堕ちた天女」は、歌舞伎座で練習1ヵ月した後、本番2ヵ月というスケジュールだったが、その間、黒柳守綱は、黒柳朝を
「ずっと狙っていた」
22歳の黒柳守綱は、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスター。
「第2の指揮者」ともいわれる楽員のリーダーだった。
オペラ「堕ちた天女」の最終日、黒柳守綱は黒柳朝をお茶に誘った。
19歳の黒柳朝は、バイオリンを下げている黒柳守綱をみてオーケストラのメンバーだと認識し、友人もよくオーケストラの人たちと遊んでいたので
「1回くらいいいか」
と思い、ついていった。
「これがどんな大変なことになるか、一生まで変えてしまうことになろうとは・・・」
連れていかれたのは最新式のアパート「乃木坂倶楽部」の1階の喫茶店。
山盛りのサクランボを出され、
「サクランボ、好き?」
と聞かれた黒柳朝は、
(こんなおいしいもの、誰でも好きだろ)
と思いながら
「大好き」
と答えた。
そして喫茶店で話し込んだ後、
「ちょっと僕の部屋に行ってみない?
すぐ上だから」
といわれ、
(この建物全体が彼のものなのかしら?
ずいぶん大きな家を持っている人なのだなあ)
と思った。
そして断るのも悪く2階の部屋へ。
コンクリートづくりの6畳くらいの部屋は、ベッドと机とソファーがあるだけ。
ソファーに座ると机に上にきれいな女性が猫を抱いて藤イスに腰掛ける写真が飾ってあり、コップに入れた水が供えられていた。
その後、アルバムなどをみせてもらったが話は盛り上がらず、落ち着かない朝は、
「もう帰ります」
すると黒柳守綱は
「何時かなあ」
といって時計をみて、
「アッ、もう電車ないよ。
泊っていかなきゃダメだよ」
黒柳朝にとって、それは思いもかけない事態だった。
まず思ったのは
(伯母に怒られる!)
だった。
麹町の伯父の家、豊島区雑司が谷の音楽学校、兄に連れていってもらった銀座、友人たちといった新宿しか知らない黒柳朝には、ここが何というところで伯父の家までどのくらい離れているかわからない。
一般庶民は電車やバスで出かけるのが当たり前、タクシーなど使えば「ぜいたく」といわれた時代にタクシー代などあるはずもなく、
(人さらいにさらわれた)
(人買いに売られてしまう)
と体がガタガタ震える思いで、
(よく知らない男の人についてきてしまって私はなんて馬鹿なんだろう)
と悲しみでいっぱいになった。
電車がないといわれたとき、
(もう帰れない。
絶体絶命だ)
と思ったが、帰った後のことを考えても
(ああ、男の人の部屋に無断で泊ってしまうなんて、なんていい訳したらいいんだろう)
と伯母や母に怒れることが怖かった。
黒柳朝は、
「もちろんそう思うように彼(黒柳守綱)に強く説得された」
「ですから、もうほんとに略奪愛なのです」
というが略奪に成功した黒柳守綱は、出かけるとき、逃げ出さないように、部屋の外からもカギをかけた。
熱心なクリスチャンである黒柳朝の母親は、音楽学校に行っていた娘が突然いなくなってしまい消息がわからなくなった数日間、
「娘を返して下さい。
無事で元気でいてくれるようにしてください」
とただひたすら祈った。
しかし娘は、家出同然のまま同棲生活に突入した。
そんなプレイボーイな黒柳守綱だが、仕事にはとても厳しかった。
若い頃、天才ヴァイオリニストと呼ばれ、21歳でNHK交響楽団のコンサートマスターとなったた黒柳守綱は、団員がミスをするとにらみつけ
「みんな死に物狂いで弾いているのに、なんで間違えるんだ」
と怒り、
「怖い」
と恐れられた。
「特にヴァイオリンに関しては鬼だった」
という黒柳徹子は、家でのヴァイオリンのレッスンで自ら美しい音で演奏し
「景色がみえるように・・・・」
と指導していた黒柳守綱が、レッスンが終わった後、帰りの玄関で生徒が
「先生、今日は天気がいいですね」
というと急に怒り出し、
「今、君が考えなければならないのはヴァイオリンのことであって天気のことじゃない。
そんなことどうだっていいじゃないか」
というのを目撃した。
また黒柳守綱は結婚後、1度も浮気をせず、仕事以外はいつも黒柳朝と一緒にいた。
70歳で黒柳守綱が他界したとき、黒柳朝は、
「いつもママきれい、ママきれいっていってくれてたけど、そういってくれるパパがいなくなったら、私なんてただのおばあちゃんじゃない。
せめてもうちょっと早く死んでくれれば私だってまだ次のチャンスがあったのに」
といい、その後、アメリカに住んだり、公演活動をしながら95歳まで生きた。
黒柳守綱は、山田耕筰のオーケストラに所属していたが月給などなく、生活とのことや黒柳朝が音楽学校に在学中であることなどはあまり深刻に考えずに、自分の伯父に北海道まで結婚させてくれるよう頼みに行ってもらった。
しかし北海道の黒柳朝の父親は
「音楽なんてやっている男はロクなものではない」
と烈火のごとく怒り、許さなかった。
「結局、私たちの結婚は、黒柳徹子が生まれるまで許してはくれませんでした。
子供ができてからは、もう孫にメロメロで、若いときに狂ったように私を叱ったことなど想像もできませんでしたけれど、終わりよければみんなよしということでしょうか」
ある夜、犬が吠えると黒柳守綱が石や灰皿を投げつけた。
黒柳朝が、
「やめてよ。
パパも昼間はバイオリンを弾いているんだから、犬が吠えるといっても怒れないわよ」
と注意すると
「僕のバイオリンは商売で生活がかかってるんだ。
夜はみんな寝るんだから犬がうるさくすれば文句をいうのは当然だ」
といって黒柳朝にも投石した。
「パパは実生活に疎く、うれしければ飛び上がって喜び、腹が立てば、私を傷つけないようにというような思いやりなどまったくなく怒鳴りまくりました。
優しさと激しさを両端に持っている、天才となにかは紙一重という感じでした。
音楽家としては大切な部分かもしれませんが、予期できない振幅につき合わされるのはたまったものではありません」
黒柳守綱は、怒ると顔が蒼白になり、こめかみに血管が浮き出てくる。
一方でどんな小さなことでも黒柳朝に話さずにはいられず、よく
「愛してるよ」
とか
「好きだよ」
となどいいながらさわり、スキンシップ。
人に触れられるのが嫌いな黒柳朝は
「今度生まれ変わってもママと結婚したいよ」
といわれ、
「悪いけど別の人と結婚したいと思います。
だってせっかく生まれ変わるのなら、違った人と違った体験をした方が面白いと思いますもの」
と答えた。
また黒柳朝は最小労力で最大成果を上げようとして、手を抜いたり、ズルすることもあるが、黒柳守綱は、すべてのことに手抜きをしない完璧主義者。
バイオリンを愛し、毎日練習し、弾いていないときもバイオリンに話しかけながら手入れ。
演奏することはもちろん、バイオリンという楽器そのものも好きだった。
乃木坂倶楽部での生活を、
「インド人でシイナさんという、とても日本語の上手な人がいて会うといつも面白い話をしてくれました」
「1階上には佐伯祐三未亡人の佐伯米子さんがいらして、よくアトリエに遊びに行き、モデルになったりしました」
という黒柳朝だが、長女の黒柳徹子が生まれると近くの小さな一軒家を借りて引っ越し。
幼い黒柳徹子は舌足らずなために自分の名前を
「徹子」
ではなく
「トット」
と発音するため、黒柳守綱と黒柳朝は
「トットちゃん」
と呼ぶようになった。
長女出産から2年後、黒柳朝は、2番目の子供、長男の明児を出産。
明治節(明治天皇の誕生日、11月3日)に生まれたので最初は
「明治」
という名前にしようと思ったが、区役所で天皇陛下の諡(おくりな)になるので使えないといわれ、
「お菓子や牛乳の名前に使われているじゃないですか」
といったが
「その頃は、まだ陛下は元気でいらしたからできた」
そんないきさつがあって
「明児」
となった。
黒柳守綱は
「明ちゃん」
と呼んで、夢中で、いつも膝の上に乗せていた。
いつもお金がなく、あるとき黒柳朝が
「お金もお米もなくなっちゃったけどどうしましょう」
と聞くと黒柳守綱は
「じゃあ、食べなきゃいいじゃないか」
それを聞いて
(この人にはバイオリンの演奏さえしてもらえばいい。
2度とお金のことでわずわらしい思いをさせないことにしよう)
と決意した黒柳朝は、どうやってお金をつくればいいか考えた挙句、質屋へ行くことにした。
初めはよかったが質草がなくなってしまうと、演奏会の予定を聞き、
「どうして?」
と不思議がられると
「洗濯屋さんに出さなきゃね」
といってごまかして演奏会用の燕尾服を質屋へ。
長女である黒柳徹子の手を引き、2歳下、まだ赤ん坊だった明ちゃん(長男、明児)をオンブして質屋の暖簾をくぐるとカウンターに持ってきた品を広げて交渉開始。
黒柳徹子はのぞきたくて一生懸命背伸びするが台が高くてみえなかった。
「燕尾服で1円50銭貸してくれました。
それだけあればお米も10㎏くらいは買えたと思います」
お金をもらって黒柳徹子の手を引いて外へ。
「さっき行ったの何屋さん?」
と聞かれ、
「洗濯屋さんよ」
「洗濯屋さんに行くとお金もらえるのね」
いつもニコニコしている黒柳徹子との帰り道、ミカンや魚を帰った。
黒柳守綱は、オーケストラだけではなく、カルテット「東京弦楽四重奏団」を組んで活動したり、レコード会社と契約し、流行歌の伴奏を行うなどやいろいろな仕事を行った。
しかし「ただ食うため」の仕事やイヤな仕事は断り、それを黒柳朝は、
(受ければいいのに・・・)
と思いながらみていた。
「パパと私は相変わらずお金持ちにならず、それほどお金に困るわけでもなく過ごしました。
それで十分に幸せなのでした」
黒柳徹子が3歳のとき、足で漕ぐ自動車を買うために3人でデパートへ
売り場にはたくさん並んでいて、黒柳朝はなるべく安く、友達が持っているのと同じようなものを選び、買ってもらえればなんでも喜ぶ3歳児に
「トットちゃん、これでいいでしょ?」
しかし黒柳守綱は、
「いや、これがいいよ」
といって1番高いものをチョイス。
「これに決めよう。
乗ってごらん」
黒柳徹子を乗せると足が届かなかったが、
「すぐに大きくなるから」
どうしてもそれを買ってやりたいというより、まるで自分が欲しいような黒柳守綱に黒柳朝は反対。
すると黒柳守綱は
「君が上等なのを買わないのは、自分の着物を買いたいと思っているからに違いない」
というとサッサといってしまい、やがて反物の包みを持って帰ってくると
「さあ、これで気が済んだだろう」
そしてお気に入りの自動車を買い、デパートの配達が待ち切れないので、自分で持って帰った。
家に着くとご機嫌で徹子を乗せたが、足が届かないのでうまくペダルが漕げず、それをみて腹を立てた。
黒柳朝も
「あの中には生活費も入っていたのに・・・」
と出がけにお金を全部預けたことを後悔し、
「着物となれば好みも気に入らない柄なら、どんな高価でも着れないのに・・・」
と腹を立てた。
あるとき4歳の黒柳徹子が台から飛び降り、黒柳守綱が受け止めるという遊びをしていて、キャッキャッとはしゃぐ2人に黒柳朝は、
「いい加減にやめないと危ないわよ」
と注意。
その瞬間、黒柳徹子が黒柳守綱の手をスリ抜けて落下。
ホホとおでこをスリむき、出血する黒柳徹子をみて、顔色を失い、どうしていいかわからない黒柳守綱。
黒柳朝は、すぐに薬を取りにいき、消毒して手当をしながら
「だからいわんこっちゃない。
いつもこうなんだから」
と腹立たしげにつぶやくと小声のつもりだったが、黒柳守綱に聞こえてしまった。、
すぐに灰皿が飛んできたが、それが黒柳朝の膝の上の黒柳徹子のおでこに命中。
大きなタンコブができて
「ギャーッ」
と泣き出した。
共に自己主張が強く、ガマンすることが苦手な黒柳守綱と黒柳朝は、よくいい争いをし、ときに物が飛び交うこともあった。
「パパは怒鳴り、私は泣きながら負けずに口答えをしました」
という黒柳朝は、
「夫婦喧嘩ノート」
をつくり、日付、原因を記し、程度を
「ボヤ・大火事・あわや」
の3段階で記録。
原因は、お金や物質的なことは皆無。
子供のことは、いい子のときは
「自分に似ている」
悪い子のときは
「お前の責任」
といわれるが、たいてい「ボヤ」で済んだ。
1番多かったのは、愛情問題。
「パパは若くて私に具体的な愛情のつながりを求めているのに、私は子供の世話で疲れすぎているためにパパに協力的じゃないということだった」
あるとき2人で映画を観にいくと夜中、奥さんがベッドを抜け出して、召使のところに忍んでいき、浮気をするシーンをあり、
(とても魅力的な男優さん!)
と思っていると、黒柳守綱は、
「あんな男がいいのかな」
それに黒柳朝が
「いいんじゃない」
と答えたのが最後だった。
「いいんなら行けよ」
というが早いか、席からつまみ出され、暗い映画館の中でスクリーンの方に押し出されながら
「好きなら行けばいいじゃないか」
と怒鳴られた。
「行けって映画の中の人じゃない!」
黒柳朝はいい返したが、周りからも
「シーッ」
と注意され、腹が立ったので1人で帰宅。
後で帰ってきた黒柳守綱は、
「ごめんよ」
しかし黒柳朝は
「ごめんよで済んだら警察いらずよ」
といって蒸し返してしまい、再び大ケンカ。
怒鳴りまくった次の日、黒柳守綱は、
「僕はママを奥さんにすることができて本当に幸福だ。
ママさえいれば僕はもう何もいらないよ」
黒柳朝は
「今度こそ子供を連れて出ていこう」
と思っていたが、そういわれると
「私も心からパパを愛してみたい
と思い直し、嵐が過ぎ去った後の美しい朝を迎えた。
しかしすぐにまた絶望的な嵐が吹きまくるのであった。
黒柳朝は、
「もうイヤだからね」
「もうヤメるからね」
と別れをチラつかせて脅し続けたが、ケンカの後はケロリと忘れ、一緒に遊びに出かけ
「本当にたわいがなかった」
近所には、北海道の岩見沢高等女学校の同級生の米ちゃんがいた。
黒柳朝は音楽学校に入るため、米ちゃんは絵の修業のために一緒に上京。
黒柳朝は、実践女子学校の英文科に通いながら岡田三郎に絵を習う米ちゃんと毎日のように会って慰め合った。
独身の頃は絵の博覧会や音楽会にいき、本もよく読み、米ちゃんはヘルマン・ヘッセの「車輪の下」に、黒柳朝はジョルジョ・サンドの「アンデアナ」に感激。
黒柳朝が結婚すると米ちゃんは村田さんという銀行員と結婚。
米ちゃんの家は数駅離れた自由が丘だったので交流は続き、毎日おしゃべり。
2人は、少しピントが外れているところ、天然なところ、あまり物事にこだわらないところが似ていたが、米ちゃんは感情的にみえて慎重で理性的、黒柳朝は理性的にみえて感情的で直情的。
ある日、米ちゃんが
「いい映画がやっているから観にいこう」
というので
「なんという映画なの?」
と聞くと
「ホルモン物語」
「・・・・・・」
「ほらほら、海か湖でゴンドラに乗って、ロマンチックな映画よ。
歌もあるじゃない」
よくよく聞くと、それは「ホフマン物語」だった。
黒柳朝は長女、徹子を、米ちゃんは長男、太郎を同じ年に出産。
おむすびやおやつを持って、それぞれ子供をオンブして出かけ、ピアノが聞こえる家のそばの空き地に腰を下ろし
「田園調布の音楽会よ」
といっておしゃべり。
少女の頃、ロミオとジュリエット、白雪姫、ハムレット、トスカ、椿姫などを読んで、大きなお城に住んで美しい衣装を着ているお姫様になりたなかった黒柳朝は、建ち並ぶ家々の中から
「私、あの白い洋館」
米ちゃんは、
「私はこっちがいいわ」
と好みの家を選び、
「あの部屋が私たちの寝室で、あの窓は子供部屋・・・」
「花壇には・・・を植えて」
などと語り合い、最後は
「あんなに大きな家は経費がかさむし、掃除だって大変。
やっぱりお返しすることにしましょう」
といってサバサバした気持ちで帰宅。
太郎がおとなしくて素直なのに対し、徹子は活発で賑やか。
イジメて泣かすのは、いつも徹子だった。
お父さん・お母さんごっこで、徹子は葉っぱや草花をつんで食事の用意をし、太郎は
「じゃあ、いってきます」
といって会社へ。
しかしすぐに戻ってきて
「お母さん、出かけるときは窓をキチンと閉めて、火の元をちゃんと消して、カギをかけて出かけなさいよ」
「うん、わかった」
「いってきます」
黒柳朝と米ちゃんは、子供が本当の親そっくりなのをみて
「恐ろしい」
と思った。
徹子と太郎が6歳になって小学校に入ると、黒柳朝と米ちゃんも忙しくなって毎日おしゃべりすることはできなくなった。
6歳になった黒柳徹子が日曜学校(教会)の演劇でキリスト役に抜擢された。
3人の賢者が天使に導かれてキリストが生まれた馬小屋にたどり着いて3つの贈り物をするという場面で、マリア様に抱かれた黒柳徹子は、羊役の子供に顔の前にティッシュペーパーを突きつけ
「アナタ、羊でしょ。
食べなさい」
「イエス様はそんなことなさいません!」
牧師にキリスト役を降ろされ、羊役になると
「チリ紙ちょうだい」
といいながらキリストの足をくすぐり、羊役からも降ろされた。
そして大田区の公立小学校に入学したが、3ヵ月後、黒柳朝は学校に呼び出され
「お嬢さんがいるとクラス中の迷惑になります」
といわれ、退学。
日本初のリトミック教育(音楽、演劇、ダンスなどを多用して楽しく学ぶ教育)を導入した自由が丘のトモエ学園に転校。
黒柳徹子は、初めて会った小林宗作校長に
「君は本当はいい子なんだよ」
といわれたことや、教室が廃車になった電車だったことが気に入った。
トモエ学園の授業は、子どもたちの興味や個性を尊重し、席も時間割も自由。
その日の気分で好きな席に座り、各自のペースで勉強し、校外学習も多かった。
この斬新で自由なスタイルの下、徹子はノビノビと育っていった。
義経と弁慶の演劇をすることになたとき、自称、
「私、かわいかったので」
主役の義経に抜擢され、関所で
「義経と弁慶ではないか」
と疑われ、そうでないことを証明するために弁慶が義経を殴るシーンで、弁慶役にブタれた徹子は反射的に足にかみつき、山伏役に降格。
5人の山伏が
「お山は晴天♪」
と歌いながら山を登るシーンで金剛杖で指揮をとってしまい、山伏役も降ろされた。