フィールド上では先輩も後輩も関係なく、実力さえあればレギュラーになれるという環境に、必死に練習を重ねた丸山桂里奈は、日本代表に初召集された。
丸山桂里奈は、日本代表に呼ばれたといわれ、最初は信じられず、
「マジっすか?」
「マジっすか?」
「マジっすか?」
と何度も聞き、本当だとわかると、まず思ったのは
「うわっ、超ヤダ」
それまで
「日本代表にいったらボコボコにされる」
と聞いていたので
「日本代表=超コワいところ」
と思っていた。
そして日本代表に入ったことを周りの同級生に
「めっちゃスゲーじゃん」
「マジで選ばれたの?」
と驚かれながら、1番最初に報告したのは彼氏。
続いて家族に報告すると大喜びされてうれしかったが、
「本当に?」
「本当に?」
「本当に?」
と何度も何度も聞く母親に、少しイラついた。
このとき大学生で日本代表になったのは、神奈川大学の矢野喬子(現:帝京平成大学女子サッカー部)と丸山桂里奈だけだった。
「私たちが1番年下で・・・
結構黄金世代っていうか、フォワードは澤(穂希)さんとか荒川(恵理子)さんとか井坂(美都)さんとか大谷(未央)さんとか、むっちゃうまい人ばっかりで。
エッ、こんな中で本当に入れるのかって。
それまでアンダー18とか選ばれてましたけど、やっぱりA代表って全然違うから。
ほんと子供が大人に入ったみたいなイメージだったから。
メチャクチャうれしいんだけど、あの中でできるかなって、怖ェーッてのはあった」
実際、日本代表の練習はハードだったが、それ以上に
「めっちゃコワかった。
イヤッ、コワかったっス」
というほど雰囲気に緊張しすぎてほとんど記憶がない。
「年下はサッカーやってるだけじゃねえぞみたいな、お前運べよみたいなのはあって、そういうものに気を遣いすぎて疲れてしまって、正直いってサッカーはちゃんとできなかったです」
しかし日本代表で得た刺激は大きかった。
全員が例外なくサッカーが大好きで、勝ちたい、もっとうまくなりたいと努力する人間ばかり。
試合に出られない選手もいるがフテ腐れたり、集中力も切らしていい加減に過ごす選手は1人もおらず、悔しいはずだが文句ひとついわずに練習やミーティングだけでなく準備や片づけにも主体的に参加し、チームのプラスになることを見つけて貢献しようとしていた。
日本女子サッカー代表は、試合後のユニフォーム交換は
「もったいないからダメ」
と禁止令が出たり
「代表チームに入ると1日あたり1万円の日当が支払われるので、『サッカーしてお金がもらえるなんて夢のようだね』と選手たちはみんな話していました」
というように男子に比べて金銭的には恵まれていなかったが、
「サッカーが好き」
「サッカーを続けたい」
「サッカーで夢を叶えることはお金で買えるものではない」
という思いであふれていた。
そのためプレーの迫力で劣るかもしれないが、逆境にも決して明るさを失わない精神的逞しさは男子を凌いだ。
日本代表から大学に帰ると1年生だったので同じように下働きをしたが、代表に選ばれたことで先輩に
「浮ついている」
「あなた5年生ですか?」
などとイヤミいわれることが増えた。
丸山桂里奈は、それに年下として対応しながら、
「そういうことをいう人はヘタな人が多い」
「試合に出てナンボ。
ピッチで結果を残す!」
と燃えた。
2年生のとき、韓国で第14回アジア大会があり、日本代表は出国前に成田で宿泊したが、丸山桂里奈は、そこで澤穂希と同部屋になった。
緊張はピークに達し、まず澤の荷物を部屋まで運び、澤が来ると直立不動。
そして
「何か失礼なことをいってしまったら大変」
と無言。
澤穂希に、
「私は体のケアがまだだから、桂里奈先に入って」
とお風呂を勧められても
「尊敬する先輩より先にシャワーを使うなんてとてもできません」
その後、何度もルームメイトになって
「桂里奈、シャンプー持ってきて。
私、リンス持っていくから。
同じもの使っているからいいでしょ」
と貸し借りをしたり、サッカーに関することやそれ以外のことでも、なんでも話せるほど親しくなった。
「夜、しゃべり足りなくて電気を消してもしゃべっていたこともあります。
私が澤さんをとてもすてきだと思っていることは、いつ誰に対してもフランクで親切なところ。
そしてちょっと天然なところもいいなと思います」
丸山桂里奈は、北朝鮮戦で日本代表デビュー。
日本代表は下着を自分で洗濯しなくてはならなかったが、丸山桂里奈は、下着を置きっぱなしの上、溜め込み、干し方も他の選手いわく
「いっちゃえば絞ってそのまんま」
だった。
大学3年生のとき、第4回FIFA女子ワールドカップが開催。
当初、中国で行われるはずだったがSARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに変更。
日本は4大会連続参加となったが、
アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3
と2大会連続予選リーグ敗退。
大学3年生の丸山桂里奈は、この大会で初めて「ジョーカー」となった。
それは「切り札」という意味で、後に「スーパーサブ」と呼ばれるようになった。
日本代表は個の力より組織力を重視するサッカーだったが、後半、相手ディフェンダーが疲れた時間帯にドリブルで仕掛けて点をとる、最悪、倒されてもフリーキックを得るような選手が「ジョーカー」だった。
チームメイトいわく
「味方も読めないんで相手も読めない」
というドリブルとシュート力を兼ね備えた丸山桂里奈は、これまでずっとスタメン、フォワードとして90分戦ってきたが、出番までベンチから相手ディフェンダーを観察し、自分が裏に回るイメージを繰り返した。
「本音をいえばスタメンで初めから出て、前半からドンドン得点を狙っていきたいという気持ちはあります。
でも代表で私に求められているのは、バテている相手にドリブルでゴール目指してひたすら突っ込んでいくこと。
そして得点につなげることです」
2004年、4年生の丸山桂里奈は、アテネオリンピック日本代表に選ばれ、あまり日体大の練習には出られなかったが、1年生の川澄奈穂美は、そのプレーをみて、
「ウウッとなった」
「衝撃の存在だった」
という。
そして話してみて、
(全っ然、人の名前覚えない!)
と驚いた。
例えば丸山桂里奈に、
「〇〇高校出身の、あの子いるじゃん」
といわれ、
「えっ、誰?
〇〇ですか?」
と聞き返すと
「そうそうそうそう」
というので、
(出身校わかるなら名前覚えろよ)
と思った。
さらに
「ウチさあ、こうやってサナホとさあ、超しゃべってんじゃん。
あんまりさ、なんていうの、下の子にちゃんとしてよってさ、タメから怒られるんだけど、ヤバくない?」
といわれ、
(私にそれいう?)
と思いながら
「そうですね」
と答えた。
あまりにフランクな丸山桂里奈に、本当は『・・・先輩』といわなくてはならないのに、すぐに
「桂里奈さん」
と呼ぶようになり、最終的には
「かりちゃん」
になった。
とにかく丸山桂里奈に笑わせてもらい、地獄の大学1年生時代を救われた川澄奈穂美は、
「ホント、まんま。
ホント、いいと思う」
といっている。
アテネオリンピック出場を決めた後、日本では女子サッカーブームが起こり、日本代表は取材やテレビ出演のオファーが殺到。
日本サッカー協会は、
「もっと親しみを感じるような名前があるといい」
と愛称を募集。
7月7日、七夕の日に日本女子代表チームの新しい愛称の発表イベントを開催。
丸山桂里奈を含む浴衣姿の5人の日本女子代表選手が持つ大きな紙には、地獄のリハビリを経て復活したキャプテン、澤穂希の筆で
「なでしこジャパン」
と書いてあった。
逆境に強い、凛々しく清々しい女性を表すネーミングだった。
「それまで「A代表」と呼ばれていた私たちのチームの愛称が「なでしこジャパン」となりました。
正直、最初はしっくりこなかったのですが、徐々に好きになり、いまではこれ以外にないと思うくらい好きです」
1ヵ月後、なでしこジャパンは、ギリシアに移動。
男子代表がビジネスクラスなのに比べ、女子はエコノミーで、積める荷物も限られ、ボールやウェア、トレーニング用具を優先し、個人の荷物は最小限にとどめ、男女格差を感じながら港町ボロスへ。
丸山桂里奈は、日本代表キャプテン、大部由美と同部屋になった。
上田栄治監督以下、代表スタッフがライバルを徹底的に研究した結果、陣形は3バックから右サイドハーフを置かない変則的な4バックに変わったため、レギュラーだった大部由美は控えに回っていたが、
「サブが強いチームは強く、サブが弱いチームは弱い」
と声をかけ、
「メンバー全員で五輪の切符をとる」
という一体感につなげていた。
そんな大部由美を
「大変規則正しい方」
「練習以外にも厳しい方」
と思っていた丸山桂里奈は、絵葉書を書いたり本を読んで静かに過ごした。
8月11日、予選リーグ第1戦、スウェーデン戦に1対0で勝利。
翌12日、アテネの選手村に移動し、男子のパラグアイ戦を応援し、世界の有名アスリートを目の当たりにして盛り上がった。
14日、予選リーグ第2戦、ナイジェリア戦。
アフリカのチームと対戦経験がないなでしこジャパンは、独特の身体能力の高さと何をやってくるかわからないプレーに翻弄され、0対1。
その上、攻守の要、ボランチの宮本ともみが負傷。
なでしこジャパンは予選リーグ3位だったが、内容でなんとか決勝トーナメントに進出し、予選で敗退し帰国する男子代表をカップラーメンなどをもらった後、お見送り。
20日、決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、世界ランキング2位のアメリカと対戦。
上田栄治監督は、ナイジェリア戦で負傷した宮本ともみが強行出場させ、丸山桂里奈は、小林弥生、柳田美幸、安藤梢、山岸靖代らとベンチで途中出場に備えた。
前半43分、ゴール前に上がったボールを捕りに出たゴールキーパー、山郷のぞみが、アメリカの選手と交錯してファンブルし、こぼれたボールを押し込まれ、0対1。
後半3分、日本は山本絵美のフリーキックで1対1。
後半14分、ゴール前にロングボールが飛んできた日本は、思い切ってオフサイドトラップを仕掛けたが、副審のフラッグは上がらず、4人のフリーな選手を相手に山郷のぞみがゴールを奪われ、1対2。
交代で入った丸山桂里奈は、得点を目指してボールを追いかけたが、アメリカの巧みなゲームコントロールの前にタイムアップ。
1対2で敗れ、アテネオリンピックが終わった。
大学4年間で、
・全日本大学女子サッカー選手権大会を4年連続優勝(日体大は5連覇)
・日本代表(なでしこジャパン)として、FIFA女子ワールドカップ、アテネオリンピックに出場
という華々しい活躍をした丸山桂里奈は、当初、ベレーザ入団が決まりかけていたが、東京電力へ就職し、「東京電力女子サッカー部マリーゼ」に入団した。
マリーゼは、非鉄金属メーカーであるYKKの東北工場で創設され、日本女子サッカーリーグでも好成績を残した「YKK東北女子サッカー部フラッパーズ」が東京電力が移管されてできたチームで、丸山桂里奈が入ったとき、まだ創部7ヵ月だった。
「中学を卒業するときもベレーザに上がれたんですけど、自分が高校サッカーがいいなと思ったんです。
メニーナから高校にいった人にもいろいろ話を聞いて、高校サッカーっていいなと思って。
それにあんまり上手くはないけど、そういう高校サッカーを強くしたいという気持ちもありました。
いつもそういう感じなんです。
マリーゼに入ったときも、本当はベレーザに行く予定だったんですが、それをやめてマリーゼに行ったので。
YKK東北女子サッカー部フラッパーズが移管してきてマリーゼになるというタイミングで、だからそのときもすごく弱かったけど、新しいチームになるから強くしたいという気持ちが出てきて。
自分にはそういうのが合っているというか、信念みたいなものなんですかね」
マリーゼの由来は、
「海(マリーン)のように力強く、風(ブリーズ)のように颯爽と」
選手、スタッフは全員、東京電力の社員で、午前は福島第一原子力発電所で働き、午後は双葉郡楢葉町にあるJヴィレッジスタジアムで練習するというリーグ唯一の実業団チームだった。
マリーゼの選手は、全員、社員寮に入り、1人1部屋、8畳ほどの個室がもらえ、風呂、トイレは共同。
毎朝、一緒に「マリーゼバス」に乗って福島第一原子力発電所へ向かい、それぞれ部署で仕事。
丸山桂里奈の仕事は「管理職付」だったが、上司は2年後に起こる震災で原子炉の暴走をギリギリで回避させる吉田昌郎だった。
基本的に午前中で仕事は終わり、午後、マリーゼバスで移動し、Jヴィレッジスタジアムで練習。
そして練習後、一緒にマリーゼバスで寮に戻った。
「1番戸惑ったのは仕事でも練習でも寮でもずっと同じメンバーと行動を共にしなくてはいけなかったこと。
いつも一緒なのでさみしくはなかったけど、どんなに仲が良くても仕事でもプライベートでもずっと顔を合わせていると、さすがに息が詰まる。
それにずっと一緒にいることで緊張感がなくなってプレーに影響が出てしまうことが心配でした」
マリーゼには、アテネオリンピックのとき日本代表キャプテンだった大部由美がいて、丸山桂里奈ら新人は練習以外に寮生活でもよく注意を受けた。
あるとき練習が19時から始まる日があり、いつも軽く食べてから練習に行く丸山桂里奈だが、この日は用事があってそれができない。
そうなると夕食は寮に帰ってから22時くらいになってしまうため、仲の良かったチームメイトとパンを買いに行って、練習後、寮に帰る前に食べた。
そしてチームが食堂で食事しているとき、2人だけで風呂に入っていると、大部由美が入ってきて、
「あなたたち何考えてるの!」
と怒られ、その場で正座。
寮ではみんなで一緒に食事をとるというルールがあることをコンコンと説教された。