セルジオ越後のプロフィール
まずはセルジオ越後さんのプロフィールからご紹介します。
本名:Sergio Echigo
生年月日:1945年7月28日
国籍:ブラジル
出身地:ブラジル・サンパウロ
身長:173センチ
体重:68キロ
両親が日本からブラジルに移民したため、セルジオさんはサンパウロ州サンパウロで生まれ、日系二世として育ちました。
サッカー選手としては、17歳のときにサンパウロの名門コリンチャンスのジュニオール(ユース)のテストに合格し、右ウイングとしてプレーすることになります。
ただ1年で契約を解除されてしまい、その後は鉄骨関係のセールスマンとして2年働きました。
その後はブラジルの2部チームを渡り歩いたのち、日本の社会人チームからアマチュア選手としてのオファーが届き、来日を決意したのです。
日本での活躍
Jリーグが発足したのは1993年。
セルジオ越後さんが来日した1972年は、それよりも20年以上も前です。
プロ化は夢のまた夢の時代に、本場ブラジルから藤和不動産サッカー部(現・湘南ベルマーレ)にプロ選手が来たということで、相当な話題になりました。
1972年の開幕戦(対三菱重工)では、国立競技場に通常の4倍にもなる2万人もの観客を動員するなど、かなりの話題となったようです。
そこで2年間プレーし、40試合に出場し6得点をあげました。
日本サッカー界を盛り上げた功績は大きいですが、ただ選手としての成績はずば抜けていた訳ではなさそうです。
現役引退後は、一旦ブラジルに帰国しています。
その後再来日し、1975年に永大産業コーチに就任しました。
その指導力でチームの5位躍進に貢献します!
しかし、永大産業は本業の不振の煽りで1977年シーズンを前に活動を停止してしまったのでした。
せっかく指導者として来日したのに不運ですね…。
1978年からはコカ・コーラの後援のもと、日本サッカー協会公認の「FIFAさわやかサッカー教室」(後の「アクエリアス・サッカークリニック」)を開きます。
その後は少年サッカーの指導と普及に努め、セルジオ越後杯を開催しました。
全国を回って延べ50万人以上の少年少女を直接指導しています。
少年少女のサッカー育成に努めたことが評価を受け、数々の賞を受賞するに至りました。
(2006年に文部科学省の2006年生涯スポーツ功労者表彰、2013年には外務大臣表彰、2017年4月、旭日双光章を受章。)
指導者としては優秀で、また次代を担う少年少女の育成に携わったことなど、日本サッカー界への貢献が大きく評価されています。
日本代表に厳しい?
辛口の批評で知られるセルジオ越後さんは、サッカーファンや選手から反発されることも少なくないです。
過去に日本人選手の海外移籍が相次ぐ現状に批判コメントを連発した際には、乾貴士さんや岡崎慎司さんからの反論もありました。
日本サッカー界の育成に携わってきたセルジオ越後さんの憂いもわかりますが、選手の気持ちもわかりますね。
セルジオ越後に現役選手から批判続出…「自分で監督してみろ」「批判ばかりで具体案ない」
今回のカタール大会で強豪ひしめく死の組からグループステージを勝ち上がり、敗れたとはいえ強豪クロアチアにPK戦まで持ち込む快進撃を見せた日本代表です。
感動を貰った人も多かったでしょう。
そう考えると、セルジオ越後さんの意見は厳し過ぎるようにも感じてしまいますね。
ただみんなが賛辞を贈るよりも、あえて苦言を呈して悪役を引き受けてくれているのかもしれません。
カタール大会で、ABEMAで解説を担当し視聴者から面白いと好評だった本田圭佑さんは、セルジオ越後さんに対して代表選手が怒る理由を「内容がなくて具体案が提示されないこと」と語っています。
この本田圭佑さんの意見は、とてもわかりやすかったです。
確かにダメならどうすれば良いか?まで語ってくれれば、納得がいくかもしれません。
言いっぱなしだと無責任のように感じられてしまうこともあります。
それぞれ立場が違いますので、批評や解説は難しいですね。
本田圭佑さん、セルジオ越後さんの批判に代表選手が怒る理由を推測「内容がない。どうやったらいいのかは全然提言されていない。具体性がない。」 - Togetter
まとめ
今回は「炎上することも多いサッカー評論家のセルジオ越後さんは何者?若い頃の活躍は?」についてご紹介しました。
セルジオ越後さんは、ブラジルの元プロ選手で日本の社会人チームで活躍しています。
指導者としても日本サッカー界に貢献してくれました。
炎上することも多いですが、日本サッカー界を盛り上げたいという気持ちは大きいように感じます。
これからの活躍にも期待したいですね。