猿岩石は、1995年2月、事務所(太田プロ)に入って、1年後には
「半年間スケジュールが白紙であること」
という募集条件で内容は明かされないまま、「進め!電波少年」のオーディションを受けた。
そして広島からバスで上京した後、東京ドームで野宿をした経験があったことが決め手になって合格。
まだ外国に行ったことがない2人は、アイマスクと大音量のヘッドホンをつけられ
「だまされて」
香港島に連れていかれた。
まだTVに2回しか出たことがない2人は、すぐに特設スタジオに放り込まれ、
「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」
という企画名と
「これから香港からロンドンまでヒッチハイクで行ってもらいます」
「現在いる場所から西へ西へと直線距離にして、だいたい 2、3万km(実際は3万5000km)」
「期限は無期限なんですが、3ヵ月くらいかなぁということで・・(実際は6ヵ月かかった)」
と超アバウトな説明を聞かされた。
ルールは
・予算は10万円(番組から支給、それ以外のお金は持っていけない)
・移動は徒歩かヒッチハイクのみ(お金を払って乗り物を利用するのは禁止)
・旅の道中、猿岩石の2人に1人のスタッフが同行し撮影するので3名で移動するが、スタッフは一切、手助けはしない。
さっそくヒッチハイクの旅はスタートし、スタジオを出てショッピングモールであるタイムズスクエア前の道の端に立って
「To LONDON」
と書いた紙を掲げ、そのまんま東に
「こんなモンで(車が)捕まるか」
と強めにツッコまれた。
そして白いワンボックスカーをGET。
運転手のポールは工事現場から自宅に帰る途中だというが、車に押し込まれるように乗る2人はヒッチハイカーというより拉致される日本人観光客だった。
香港をスタートしてから29日目、5月11日、ラオスから親切な船頭さんにタダで船に乗せてもらってメコン川を渡って、5ヵ国目、タイに入国。
正式名称は「タイ王国」で、国王を元首とする立憲君主制の国。
面積は日本の1.4倍(51万4000km²)
東南アジアの中間に位置し、いつも暑い、
1年中、日本の夏のような気候で、年間平均気温は29度、夏は35度、冬でも17度。
国民のおよそ95%が仏教徒で、男性は人生で1度は短期出家する習慣があり、有名寺院も多い。
子供の頃から相手に対して怒らないように教えられ、笑顔を絶やさない優しい人、細かいことを気にせず、穏やかでのんびりで大らかで楽観思考な人が多い。
だからタイは「微笑みの国」と呼ばれている。
タイ人がよく使う言葉に
「マイペンライ」
がある。
これは「何でもない」」「大丈夫」、「気にしないで」「なんとかなるよ」「どういたしまして」といった意味で、さまざまな状況で笑顔とセットで使われる。
失敗した人に「マイペンライ」
落ち込んでいる人に「マイペンライ」
相手に感謝されたとき、「マイペンライ」
自分の気持ちを落ち着かせるために「マイペンライ」
足を踏んでしまったとき、「マイペンライ」
車をぶつけて「マイペンライ」
超マジメで物事を深刻に考える傾向がある日本人にとって「マイペンライ」は、非常によいイメージを与えてくれる。
「ありがとうございます。
サンキュー」
日本人らしくお礼をいって船頭と別れた猿岩石は、すぐにヒッチハイク開始。
すると30分後、男性が近づいてきた。
『2人、3人?』
「3人」
『OK』
ついていくと2人の男が乗るワゴン車が停まっていた。
ドライバーに
「ノー・マネー、OK」
と確認すると
『OK』
「なんで!なんで!」
といいながら、2人は大喜びで紹介してくれた男性に握手し、車に乗り込んだ。
車の中はエアコンがきいていて、その上、助手席の男から冷たい飲み物までもらった。
「いい人もいるもんだ」
(森脇)
「やっぱり人は信じなくちゃいけない」
(有吉)
船のタダ乗りから超快適な車と幸せ続き2人だったが、1時間後、ナコンプーチャシーマーの街に入ると停車すると優しかった助手席の男が振り返って
『マネー、マネー』
「えっ、マネー?」
『ノー・ビデオ』
男はカメラに手を伸ばし撮影を妨害し
『持ってる金を全部出してみろ』
といい、2人は、所持金すべてをとられて車を降ろされた。
「怖ぇー」
「アー、どうすんだよ」
「バカみたいだな、また」
また無一文になって傷心の2人は、駅の待合室のベンチで寝た。
「ヒッチハイクをやってて乗せてくれる人ってのは、女の人が乗せてくれたってことほとんどないじゃん。
大体乗せてくれたのは男の人。
ヒッチハイクで乗せてくれる人ってのはね、たぶん、自分にすっごい自信があんのよ。
『こいつら2人がかりでかかってきても俺ならやっつけれるよ』っていうような人ばっかりだったじゃない。
だからね、けっこう常に怖かったよね」
(有吉)
「そう」
(森脇)
「あと英語しゃべれないってのはキツかったね。
英語をしゃべれない地域ってのは苦労しました、いろいろな面で。
だってどこで降ろされるか分かんないじゃない気分次第で」
(有吉)
「そう。
だからちょっと車のスピードが落ちたりすると」
(森脇)
「ドキッ!」
(有吉)
「っとするよね」
(森脇)
「それがたいてい山の中だったりするでしょ。
そうすっともうすっごい怖かった」
(有吉)
「だからね、運転手さんの様子ってのがホント気になんのよ。
だからけっこう気まずいムードが漂ったりしなかった?、車内は?
なんかこう」
(森脇)
「だってさ、俺ら会話ってさ、最初の『サンキュー』と『どこどこへ行くんだ』『日本から』『ジャパン』」
(有吉)
「ウィーアージャパニーズ」
(森脇)
「サンキュー」
(有吉)
「それをいい切ったら俺達何も話すことないから」
(森脇)
「シーン」
(有吉)
「と沈黙は続くんだよね。
向こうの人ってね、怖い人とね、悪くない人と悪くない人の差がね、わかるのよ」
(森脇)
「簡単!見た目!」
(有吉)
「怖そうな人は」
(森脇)
「怖い」
(有吉)
「良さそうな人は」
(森脇)
「いい」
(有吉)
「なんかそういうところを見抜く力が自然と。
でもあのタイで出会った白タク。
あれはわかんなかったでしょ」
(森脇)
「わかんなかったな~
初めてだったし。
今まで、だってけっこう順調にいってて」
(有吉)
「だって冷房が効いててさ、コーラとかも出してくれてさ。
すごい優しいなーと思ってたらいきなりだもん
ね、着いて」
(森脇)
「マニーマニー」
(有吉)
翌日、34日目、5月16日、2人は気を取り直して、駅の前の芝生に地図を広げて、次なる目的地を検討。
「バンコク狙うか」
ミャンマー入国にはビザが必要なので、それを申請するために首都、バンコクを目指すことにした。
猛暑の中、無一文で飲み物も買えない状態で
「BANGKOK」
と書いた紙を掲げてヒッチハイクしていると、1時間後、車が停車。
しかしかけよっていくと発車。
思わせぶりなStop&Goに有吉は
「なんだよ、もう」
次の瞬間、サイレンが鳴って、パトカーが至近距離で停車。
降車してきた数人の警官に取り囲まれた。
警官は、カメラも手で抑え
『動くな』
『後ろを向け』
『手をつけ』
『お前ら、日本人だろう』
といって猿岩石を拘束。
「なんで?」
と驚いたが、市民の通報で電化製品を押し売りする日本人グループに間違えられていた。
そんなことは知らず「何いってるか全然わかんない」まま、「だからイエスイエスっていってた」2人は連行され、檻のついた留置所に入れられた。
「犯罪者になった」
(森脇)
「なんでブタ箱は入ってんだよ。
腹減った。
もうダメだ」
(有吉)
と嘆いていると隣の留置所の人が鉄格子の隙間からペットボトルを渡してくれた。
「OK?
サンキュー」
20時間ぶりのノドの渇きを癒すと、さらにサンドウィッチまで差し入れしてもらい
「悪い人じゃねえよ」
「いい人だよな」
と囚われの身でありながら善人と判断。
不安の中、留置所で一泊したが、翌日、パスポートで身元が確認されると晴れて釈放された。
「ただメシ食わせてもらっただけじゃん、俺たち」
(森脇)
2人は、気持ちを新たにしてヒッチハイク開始。
2時間後、車が停まってくれた。
『バンコクに行きたいの?』
「バンコク!」
『OK、OK』
車はトラックの形をしているが4人乗りで後部座席に乗せてもらった。
助手席の男性は、日本に興味があって日本語学校に通っているといい
『バンコク行きます』
と日本語を披露。
3時間後、タイの首都、バンコクに到着。
日本びいきの男性は、2人を高層ビルが立ち並び、高架鉄道、地下鉄などの公共交通機関も発達した大都市の中にある日本そば屋に連れていった。
そしてタイ人の店長に2人を
『この子たち日本人なんだけどお金がないんだって。
働かせてあげてよ』
と紹介。
店長は
『かわいそうだね。
雇ってあげるよ。
でも汚いから、まずお風呂に入ってもらおう』
といった。
アルバイトの世話をしてもらった2人は、14日ぶりに風呂に入り
「生き返った!」
その後、早速、アルバイト開始。
仕事は皿洗い。
ホールから運ばれてくる食器をひたすら洗う。
22時に閉店し、掃除をした後は、うれしい食事つき。
さらに住込み用の部屋まで用意してもらった。
アルバイト2日目は、9時半から開店準備から働き、店が開いた後はひたすら皿洗い。
3日目になると皿洗い以外にも簡単な調理補助の仕事も任され始めた。
そして7日経つといろいろな仕事をできるようになっていた。
厨房の男性従業員やホールの女子従業員とスッカリ打ち解け、太田プロの先輩、ダチョウ倶楽部ではないが和気あいあい!
「みんないい人だ」
「ずっとここにいてもいいと思う。
本当、ここで一生終えてもいい」
と思うほど幸せだった。
しかしはるか彼方のロンドンに行くためには、このままずっとタイにいるわけにはいかない。
「明日の夜、いうか」
「本当にいい人たちばっかりだからなあ」
7日目の夜、2人はアルバイトをやめることを決めた。
8日目もいつものように仕事をこなしたが、みんなに別れを告げなければいけないと思うと2人の気持ちは重かった。
そして22時、閉店後、店長に話を切り出した。
「ソーリー。
トゥディ、ラストワーク」
『辞めて、どこ行くの?』
「トゥー・ミャンマー」
それを聞いて従業員たちも口を開いた。
『店長、どうしたの?
2人はどこに行くの?』
『ミャンマーに行くんだって』
『さみしいね、心配ね』
「ありがとう」
『心配、あなたね』
日本語でそういいながら涙を流す女性従業員もいた。
涙を流す女性従業員もいた。
最後に店長はいった。
『みんな、明日の朝、見送ってあげて』
9日目、リュックを背負って開店前の店を訪問。
「ありがとうございました」
店長は
『サラリー』
といって給料袋を渡した。
さらに厨房の男性従業員たち、ホールの女性従業員たちから、それぞれ餞別もあった。
猿岩石で店先まで出てきてくれたみんなと
「バイバイ」
といってお別れ。
それはつらく悲しい経験だった。
「チャイさん、ダムさん、モアさん、ジャーさん、トゥーさん、テンさん、店長さん、一生忘れそうにない」
(有吉)
「この旅が始まって初めて感じた。
時よ、止まれ」
(森脇)
店を離れるともらった給料を確認。
袋の中には2人合わせて3800バーツ(15000円)が入っていた。
「従業員の女の子達が泣いてくれて、僕たちも涙止まらなかったですよ」
(有吉)
「涙流してなかっただろお前。
すぐお金みてた」
(森脇)
2人は給料を持ってビザ取得へ向かった。
ミャンマーのビザは、2人で1000バーツ(4000円)で、即日発行してもらった。
ヒッチハイク開始。
2時間後、赤い乗用車が停まってくれた。
「オッ」
森脇はかけよって
「ノー・マネー、OKですか?」
運転手は親指を立ててくれた。
こうして国境近くの実家に里帰りする途中という夫婦と一緒にバンコクを離れた。
41日目、5月23日、6ヵ国目、ミャンマー入国。
42日目にはヤンゴンに到着。
(放送時は明かされなかったが、猿岩石が帰国後、ミャンマーでのヒッチハイクは危険と判断し、バンコク(タイ) - ヤンゴン(ミャンマー)間を飛行機で移動したことが明かされた)
ミャンマーは、強力な軍事政権が国内の民主運動を抑圧し、政情不安が続いていたが、民主化の旗手、アウン・サン・スー・チーの側近187人も拘束されると政局は一気に緊迫。
何が起こっても不思議ではない状態だった。
そんな騒乱に国に飛び込んだ2人だったが、ヤンゴンには意外と平和な空気が流れていて一安心。
次なる国はインドは、入国にビザが必要な国なので、インド大使館へ。
『ビザの申請ですね?』
「イエス、テイク、ア、ビザ」
『OK』
2人で100ドルを払い、発行は明日といわれた。
バンコクで得た3800バーツ(15000円)は、
ミャンマーのビザ代 4000円
インドのビザ代 10000円
食費 1000円
で残金0円。
無一文になった2人に、同行スタッフから朗報が知らせた。
以前、東京の「進め!電波少年」のスタジオと電話中継でつながったとき、松本明子に
『日本からね、救援物資を送ります』
といわれていたが、それがDHL(国際貨物宅配便)ヤンゴン支局に届いているという。
早速、2人が荷物を受け取りに行くと、奥から出されてきたのは大きな段ボール箱。
まず
「デッケ」
と喜び、さらに箱に
『ガンバレ、猿岩石!!
松本明子♡』
『これを役立ててください。
私の気持ちだです・・・』
と書かれてあるのをみて
「優しいなあ」
と癒された。
しかしそれも束の間だった。
「開けようよ、早く。
腹減ったんだから」
2人がすぐに封を開けると、まず1番上には、杉板がビッシリ。
その下には、缶詰の空き缶。
そして1番下に、黒帯と空手着。
それは日本の武道、空手でショーをして稼いでほしいという松本明子の粋な心遣いだった。
しかし2人は空手経験ナッシング。
「なんだコレ」
「こんなの割れるか」
2人は愕然となり、
「生まれて初めて人を殺そうと思った」
(有吉)
「電波少年関係者は人間のクズだ」
(森脇)
と思った。
しかしとりあえず他に資金を得る手段はない。
試しに板を割ってみることにした。
空手着を着て帯を締め、森脇が両腕を伸ばして杉板を持ち、有吉が
「マツモトッアキコォー!」
と憎しみと気合を入れながら拳を放つと板はキレイに割れた。
周りにいたミャンマー人は拍手。
空き缶にお金を入れてくれる人もいた。
「うわあー」
2人は驚き、思わず叫んだ。
これはイケるかもしれないと思った2人は、空手着のままリュックを背負い、もっと人が多い場所に移動。
道端に特設ステージをつくっていると、それだけで人が集まり出した。
「よしっ、じゃあやるか!」
「ジャパニーズ、カラテ!」
といって腰を落として立ち、両肘を後ろに引いて構え
「ヨイショ」
と気合を入れながら正拳突き。
左右数発を突いた後は、
「押忍」
と礼。
続いて
「ジャパニーズ、板。
固い」
といって杉板を客に触らせた後、森脇がそれを持ち、有吉が割った。
そして
「押忍」
と礼。
すると拍手が起こり、空き缶にお金が入れられていった。
「サンキュー、ありがとう」
調子づいた有吉は、2枚割りに挑戦し、見事、成功。
空き缶はお札でいっぱいになった。
場所を変えて、もう1ステージ行い、今度は森脇が板を割って、ここでも大盛況。
結局、ヤンゴンの5カ所で空手ショーを開催。
すごい数のお札をGETし、喜んで数えてみると526チャット。
日本円で526円と知ると少しガッカリしながら、皮がすりむけた手をさすった。
夕食は、ジュースとトウモロコシとバナナ。
合計100チャットの食事の後は、もちろん野宿した。
翌日、インド大使館でビザ取得。
森脇は、パスポートをめくりながら
「どんどんハンコが押されていくってうれしいな」
と喜び、地図をみながら
「To INDIA(インド)」
と紙に大きく書いた。
そして2人は長距離を移動するトラックを狙うためにトラックターミナルへいき
「もう全部聞こう」
と片っ端に当っていった。
「ソーリー、トゥー、インディア?」
『No』
「サンキュー」
2時間後、輸送を終えてインド国境付近まで帰るというトラックをGET。
いよいよインドへ向かった。
(放送ではそういうことにされたが、猿岩石が帰国後、ミャンマーでのヒッチハイクは危険と判断し、ヤンゴン(ミャンマー) - コルカッタ(インド)間を飛行機で移動したことが判明)
46日目、5月28日、7ヵ国目となるインド国境近くの街、コルカッタに到着。
インドは、
「国というより大陸である」
といわれる。
12億人という人口は、中国に次いで世界第2位。
日本の約8.8倍という広大な国土を有し、州によって、法律、民族、言語、宗教が大きく異なる。
首都は、ニューデリー。
インドの北部にあり、イギリス植民地時代に都市計画に則って造られ、イギリス様式の建物も多くみられる世界第 5位の都市。
最大の都市は、ムンバイ。
インド西部にあって、その多くを海に囲まれている都市で、2016年、アメリカのシンクタンク A.T. Kearneyのビジネス・政治・人的本・文化を総合的に判断する「世界都市調査(The Global Cities)」で世界 44 位を獲得。
ちなみにそのとき大阪は 52 位だった。
インド南部の標高1000mの高原にあるバンガロールは、1年を通して比較的過ごしやすい地域だが、世界各地から多くの IT 企業が進出し「インドのシリコンバレー」と呼ばれている。
インド人は
「教育水準が高い」
「数学が賢い」
「英語を話す」
というイメージがある。
英語については、イギリスの支配下にあったときに英語の使用が強要され、独立後もヒンディー語が公用語、準公用語が英語となった。
インドには、このほかに22の指定言語があるので、インド人は、ヒンディー語、英語、生まれた地域の言葉と最低3種類の言葉を覚えることになる。
またインドは世界で最初に「0(ゼロ)」の概念を生み出した。
人類は最初、棒の記号を使って1〜9を数えていた。
古代バビロニアでは「Δ」というび形文字が用い、「1203」は「12Δ3」と書いた。
2000年後の古代エジプト、ギリシア、ローマでも「0(ゼロ)」を用いないローマ数字数字が使われた。
1は「I」、2は「 II」、3は「III」
4以上は「IV」「 V」 「VI」 「VII」「 VIII」 「IX」「 X 」と表記する。
「V」は5、「 X」は10、「L」は50、「C」は100、「 D」は500、「 M」 は1000。
だから98は「LXXXXVⅢ」、1203は「MCCⅢ」となる。
最初に「0(ゼロ)を1〜9と同じ数字の値として扱れたのは、7世紀の数学者、ブラーマグプタ。
仏教の祖、仏陀が生まれたインドの学者だった。
ブラーマグプタは著書の中で「0(ゼロ)」を「シューニャ」と名づけた。
「シューニャ」とは、サンスクリット(古代インド語)で「空」という意味。
仏教において「空」とは、「何もない」ということではなく「無いものが在る」という意味。
「色即是空
(しきそくぜくう)」
という有名な仏教の言葉がある。
「色(しき)」は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象。
「空(くう)」は、実体をもたない不変のもの。
だから「色、即是、空」は、
「この世のすべての物や現象には実体がない」
「この世は実体がないもので成り立っている」
という意味となる。
「0(ゼロ)」の発見には、こういった仏教の概念があった。
現在、人口の8割以上がヒンドゥー教というインドだが、仏教発祥の国でもある。
紀元前5、6世紀にインドで仏陀(シャーキャムニ・ブッダ)により興され、日本を含めアジア各地に伝わった。
仏陀は、欲望にまみれた世俗の人間に真理は到底理解できないと考え、弟子となる者には家族、財産を棄てさせ、出家させた。
いわゆる出家僧だが、彼らは彼らは経済活動を禁止され、托鉢と布施のみで糧を得ながら、ひたすら「目覚め」に向けて努力した。
このスタイルは、現在でも残っており、インドではお坊さんは非常に大切にされている。
仏陀の死後、仏教は衰退していったが、現在でも
生誕の地、ルンビニー
悟りの地、ブッダガヤ
初めて説教をした、サルナート
布教の地、ラージギル
教団本部がある、サヘート・マヘート
最後の旅の地、ヴァイシャリ
入滅の地、クシナガル
昇天の地、サンカーシャ
はインド仏教の8大聖地として世界中から人々が訪れている。
中でも仏陀が大きな菩提樹の木の下で深い瞑想の後、悪魔の誘惑を退けて悟りを開いたブッダガヤのマハーボディー寺院は、最強の聖地で、世界遺産にも登録されている。
また仏陀が山にこもって苦行を続けた末に体がひどく弱って下山し、村でスジャータという名前の娘から乳粥をもらい疲労が回復したというエピソードが残っているが、実際、当地にスジャータ村という村が存在する。
日本でもこれに因んだ商品が
「褐色の恋人に、白く、さわやかに、やさしく広がる」
でお馴染みのコーヒークリ-ム、スジャータである。
インドはヒンドゥー教徒が約80%を占めているといわれるが、そのヒンドゥーの教えに基づいてできたのが「カースト制(Caste)」である。
その語源は、ポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ(Casta)」とラテン語で「純粋なもの、混ざってはならないもの」を表す「カストゥス(Castus)」
紀元前、アーリア人は、
純血アーリア人
混血アーリア人
原住民
に分類。
さらに混血アーリア人を混血度によって分け、 4階層を設定し制度として確立させた。
カーストは、身分や職業を規定する。
カーストは、親から受け継がれ、誕生後にカーストの変更はできない。
仏陀は、カーストに強く反対したが、根絶することはできなかった。
インド政府は、1950年に憲法に
・カーストによる差別の禁止
と明記したが禁止しているのは、カーストを理由にした「差別行為」で、カーストそのものは禁止していない。
だから現在でもカースト制度は受け継がれ、社会に深く根づいている。
下位カーストは社会的上昇を目指し、上位カーストはそれを防ごうとする。
カーストが原因と考えられる憎悪犯罪が年間数万件起こっているが、被害者となるのは圧倒的に下位カーストが多い。
例えば、酒場で1人の男の携帯電話が鳴ったとき、その着信メロディーがカースト絶滅活動を行った政治家、ビームラーオ・アンベードカル博士を称える歌だったので8人の男が変えるように求めた。
男性が拒否したため、口論となり、男たちは暴行を加えた後、バイクで連れ去った。
数時間後、警察が男の遺体を野原で発見。
検死の結果、何度もバイクにひかれたためとみられる多発性骨折を負っていたが、容疑者たちは保釈金を払い釈放された。
カースト上層民が多く住む西部の都市プネでアンベードカル博士の誕生日を祝う大々的なイベントを計画した男性が、家に押しかけてきた男4人に家族の前で連れ去られ、2日後、石切り場で遺体となって発見された。
学校でカースト上層地区の住む女の子と話しているのを目撃されていた17歳の男性は、女の子の兄弟を含む3人の男から学校で暴行を受け、自殺にみせかけるために木に吊るした状態で発見された。
19歳の男性が帰宅しないため、家族が捜索すると数時間後、頭を切り落とされて体を焼かれた状態で発見。
5人のカースト上層の男たちが容疑者として逮捕され、彼らは自分たちの姉妹が男性と恋愛関係にあると思い込んでいたという。
これらは近年に起こった事件である。
仏教徒は1%弱といわれるインドだが、実はカースト最下層と呼ばれる人たちの多くが政府に無届けで「自由、平等、博愛」の仏教を信仰しており、実際は1億5千万人以上いるともいわれている。
そしてインドに来た猿岩石も、仏教の恩恵を受けるのである。
49日目、5月31日、インド入国3日目、猿岩石はカルカッタへ向かうトラックをGET。
有吉は、22歳の誕生日を、このトラックの荷台の上で迎えた。
空手ショーで稼いだお金は食費で消えて、所持金0円。
一緒に荷台に乗っていたインド人男性に
「ノーマネー、ノーホテル(お金も泊まるところもない)」
と相談すると、
『ティンペンに泊ればいい』
「ティンペン?」
『ティンペンだったらお金は要らないし、食事もできる』
といわれた。
「ティンペンホテル?」
「みたいな?」
そのときはよくわからなかった。
国境から900㎞、トラックが、ついにカルカッタに到着。
猿岩石はワラをもつかむ気持ちで男についていきティンペンに向かった。『待ってて。
交渉してくるから』
男性が建物の中に入って、15分後、どうやら話はまとまったようで中に案内された。
キレイなベッドがあるキレイな部屋に通され
「こわいくらいに親切だな」
と少し警戒。
すると白髪の老人が現れ
『こちらに来てください』
ついていくと3人のお坊さんがいた。
ここで
「ティンペン」
と聞こえていたのが
「テンプル」
つまりお寺だったことに気づいた。
『ようこそいらっしゃいました』
そういう真ん中がお坊さんは住職、サイドの2人は弟子。
空手着の2人は、まず正座させられた。
弟子は、その頭を洗髪し、続いてカミソリを持って剃り始めた。
日本なら、まず短く刈ってから、クリームなどをつけて剃ったりするが、長髪のままいきなり水だけで剃られ、
「血が、ダラーって出るんですよ」
(有吉)
頭が青く丸まった後、有吉は
「ニッポンノスモノディッサ」
森脇は
「ニッポンノピアティッサ」
という名前をもらった。
そして手を合わせながら、住職に続いて読み上げ、お経の練習。
修行僧、第1日目は終了した。
2日目早朝、2人は先輩たちと一緒に読経。
続いて本堂の掃除。
そして待ちに待った朝食。
「インドのお坊さんは何を食べるのだろう?」
と思っていたが、カレーだった。
その後、仕事となるが、やることは1日3度お経をあげることと近所に托鉢に出るくらい。
タダ寝タダメシの上、豊富な自由時間。
「最高にうれしいよ。
何もしないでご飯が食える」
(有吉)
「托鉢で回ると各家庭からカレーをもらって、混ざっちゃって、味が。
それでもすごいウマイ」
(森脇)
何不自由のない幸せな生活を満喫したが、5日目になると焦り始めた。
「とりあえず毎日、腹は一杯になるんだよな」
(有吉)
「ここにいればな!」
(森脇)
「金がないんだよ、金」
(有吉)
「もうそろそろロンドン目指さないと、いつまでたっても終わんないよ」
(森脇)
このまま3食昼寝つきの生活を続けていても、ロンドンにはたどり着けないことに気づいた2人は、最初に世話をしてくれた白髪の老人に
「トゥデイ、ラストワーク」
と今日のお勤めで最後にして、ここを出たいと告げた。
そして老人に住職に引き合わせてもらい
『仕方ないですね。
あなたたちと出会えてうれしかったです』
といって許しをもらった。
6日目、いつものように朝のお経と掃除を終えると、旅立ちの支度。
袈裟を脱ごうとする2人に住職は
『着替えなくていいです』
といい
『仏の心を忘れないように』
とプレゼントしてくれた。
先輩僧たちに別れを告げ、寺を後にしようとしたとき、白髪の老人に
『持っていきなさい』
といわれ餞別をもらった。
『インドではルピーがとても大切な意味を持っています』
老人はルピーの大切さをわかってもらおうと、それぞれに50ルピー札1枚、1ルピー札1枚を渡したのだった。
51ルピーは、日本円で200円くらい。
しかし2人は
「ありがとうございます」
と何度も頭を下げた。
2人は、次なる目的地をインドの首都、デリーと決め
「DELHI」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク開始。
30分後、停車していたトラックと交渉し、成功。
荷台で一緒に乗っていた男性に
『デリーに巡礼ですか?
ご苦労様です』
と労われると、袈裟の力に驚きながら、僧侶らしく手を合わせてお辞儀。
トラックは、ガンジス川を渡って一路、デリーへ。
夜、ドライブインに入り、食事をオゴッてもらったときも僧侶らしく手を合わせてお辞儀。
その後、一行はトラックで過眠し、翌朝、再び出発。
この時点で2人の心配事はお金がないことだった。
所持金は白髪の老人にもらった102ルピーのみ。
先を急ぐよりも旅の資金を得る必要があり、荷台で一緒に乗っていた男性に
「ウイ・ア・ノー・マネー。
アイ・ホープ・ジョブ」
「ゲット・マネー」
とお金がないこと、仕事が欲しいことを打ち明けた。
すると男性は
『お坊さんは仕事しなくていいんですよ』
といった。
このままウソをつき通すわけにはいかず、実は僧侶でないと告白。
インドはお坊さんに対して親切であると同時に非常に厳格で
『お坊さんじゃないなら今すぐ着替えなさい』
と怒られてしまい
「すみません」
「ソーリー」
と荷台で正座して頭を下げて謝った。
すると男性は
『私の友人が工場をいくつか経営している。
彼にあたなたたちの仕事を頼んであげるよ』
といい、2人は
「なんていい人なんだ」
と感動しながら、元の空手着に着替えた。
55日目、6月6日、トラックは、荷台の男性の友人が経営する工場があるというカルカッタから300kmのダンバードへ到着。
さっそく荷台の男性と一緒に経営者の男性を訪ねると、見事に雇ってもらえることになり、車に乗せられ15分、カレーの中に入れる各種の豆を精製する工場「ドルガ・ブランド・ビーンズ・ファクトリー」に到着。
工場長は
『明日からにしましょう』
といい、工場内に寝床を確保してくれた。
こうして住み込みで働くこととなった2人は
「よかった」
「ある程度金が貯まったらいこう」
と喜び、日も暮れぬうちから爆睡。
翌朝、7時に起床。
従業員が出勤してきて8時に仕事開始。
まず倉庫にある1袋50kg以上もある豆袋を引っ張り出して所定の場所に移動。
次にそれを1袋ずつ天秤に乗せていく。
計量カップを持った人が、豆を減らしたり足したりして、一定の重さになった袋を別の所定の場所に持っていき並べていった。
午前中は、この袋詰めの作業で終了。
午後は、その袋をトラックに積み込む作業。
それが終わると粉状になった違う種類の豆の袋詰め作業。
17時、屋上に上がって丸一日干してあった豆をスコップで集める作業。
18時、集めて山になった豆にシートをかけて1日の仕事終了。
かなりの重労働に
「オオッ、1日の仕事が終えたって感じ」
と充実感を味わう森脇の横で、有吉は
「ハアッハアッ」
と汗まみれで息を切らしていた。
2人は工場内の井戸で水をくみ上げて、頭からかぶってきれいさっぱり。
「ああ、気持ちイイ!」
給料は日払いで、2人で工場長から120ルピー(420円)をもらい、さらにまかないつきでタダでカレーを食べさせてもらった。
「明日も頑張ろう」
2日目、仕事の流れがわかった2人は黙々と作業をこなしていった。
夕方、仕事が終わると工場長がやってきて日当を渡してくれた。
「ありがとうございます。
120ルピー、たしかに・・・」
お礼をいう森脇に工場長は、もう120ルピーを差し出した。
「これは?」
『土日は倍払うよ』
なんと休日出勤手当。
「すっげえ、いい仕事だ」
2人はハイタッチを交わし、満面の笑顔。
アルバイト5日目、夕方に屋上の豆を集め終える作業を終了し、5度目の日当を受け取ると
金曜日 120ルピー
土曜日 240ルピー
日曜日 240ルピー
月曜日 120ルピー
火曜日 120ルピー
と840ルピー貯まった。
「大金だ」
と喜んでいるところに工場長がやってきた。
『ここからどこに行くんだったっけ?』
2人が旅の途中であることを知っている工場長は、西の方角へ荷物を受け取りに行くトラックが出発すると教えてくれた。
『それに乗っていったらどう?』
これを逃す手はない。
急遽、旅立つことにした2人は、世話になった従業員仲間にあいさつして回った。
『ちょっと待って』
工場長はトラックの荷台に乗り込もうとする2人に100ルピーずつ餞別を渡した。
「サンキュー、ベリマッチ」
夕方、工場を出てダンバードを後にしたトラックは、夜通し走り続け、翌朝9時、400km離れたムジャハプールという街に到着した。
14時間、荷台で寝ていた2人は、降車するとすぐに首都の
「 DELHI(デリー)」
と書いた紙を掲げたが車は見つからない。
そこで少し手前の
「GORAKHPUR(ゴラクプール)」
に変更したが、2時間経っても車は停まってくれない。
そこで奥の手、袈裟に着替えて僧侶に化け、行き先もさらに手前の
「MOTIHRI(モテハリ)」
にした。
するとすぐに1台の乗用車が停まった。
『お坊さん、巡礼ですか?』
「イエス、ノー・マネー」
『いいですよ!』
袈裟の効果てきめんでヒッチハイク成功。
3時間後、停車し、どうやら到着した様子。
助手席の男性は後ろを向いて
『ネパールとの国境まで来ましたよ』
後部座席の有吉は驚いて
「ネパール?」
『Yes』
「ネパールって・・・
オイッ」
有吉は後ろを向いて荷物の準備をしている森脇を肘で突いた。
「うん?」
「ネパールだって」
「ウソッ?
ネパー・・・
ウソン!」
車はモテハリを北に通り過ぎ、ネパールとの国境の街、ラクサウルまで来てしまっていた。
運転手によると、インドのお坊さんはモテハリを経緯して、このラクサウルからネパールに入り、カトマンズに巡礼に行くので、気を利かせて連れてきてくれたという。
しかしこれは猿岩石にとっては有難迷惑。
イギリスまでユーラシア大陸を横断するなら、真っすぐに西に、デリーからパキスタンに抜けたほうが近道。
袈裟が仇となった形だが、これも仏の導きか。
有吉は
「じゃ、もう行こう」
と半ばヤケでネパール入国を決定。
まずインド出入国管理事務所で出国の手続き。
『モンク(お坊さんですか)?』
「ノー・モンク」
「モンクマニア」
『・・・?』
続いてネパール出入国管理事務所で入国手続き。
『15ドルです』
とビザ料金が1人、15ドルといわれ、所持金1000ルピーのうち、2人で930ルピーを払って、残金は70ルピーになった。
森脇は
「あの財布の金、全部なくなるんだ」
と嘆いたが 、係員に
『ヨウコソ』
と日本語で歓迎され、苦笑い。
こうして64日目、6月15日、8ヵ国目、ネパールに入国し、国境から3㎞離れたネパール南東部最大の都市、ビルガンジへ。
翌6月16日、首都、カトマンズ入り。
カトマンズまでのヒッチハイクでトラブルが起こった。
「あんときは俺達は無一文で」
(有吉)
「そう!
ちゃんと『ノーマニー』『OK』つって乗って、まあ、ネパールに着いたら、『マニーマニー』」
(森脇)
「『僕たちはないよ』っていったら
『わかってる、お前達はいいよ。
カメラ持ってるアンタ、金持ってるでしょ。
君、払いなさい。
あなたはタダで乗せるとはいってません』って」
同行スタッフが、お金を巻き上げられるのを2人は大笑いしてみた。
カトマンズのダルバール広場(ダルバール・スクエア)は、チベット仏教の寺院が集中し、芸術家が製作した作品も数多くあった。
2人は1つのお寺の境内に入り、
「ここ大丈夫そうだな」
と寝床を決定。
寺の近くにデュンゲ・ダロという公共の井戸を発見すると、インドの豆工場以来、4日ぶりに体を洗い、衣類も自然と覚えた「踏み洗い」
その後、寺で眠った。
翌朝、起きたものの無一文で飲み物さえ買えず、ただ境内に座ってたたずんでいると
『オイ、猿岩石!』
と日本語で呼ばれ、段ボール箱を持った番組スタッフが現れた。
『なんでお前らネパール行くんだよ』
このお怒り気味のスタッフは3人目の同行スタッフとなり、2人目は帰国していった。
『ネパールから持ってきたよ』
といって3人目の同行スタッフに渡された段ボール箱は、松本明子からの救援物資第2弾だった。
「やったー」
「なんだろ」
2人が喜んで受け取って開けると、中身は大量の「ひっつきダコ」
正式商品名「マジックオクトパス」
お祭りの出店や駄菓子屋で売っている日本おもちゃ界のの隠れたヒット作だった。
「コレ、売れってことなの?」
「コレは前(空手ショーセット)よりいいよ」
2人は早速、街の広場にいき、店を構えた。
Aタイプに15ルピー、Bタイプに10ルピーの値段をつけた。
すぐに人が集まり、商売開始。
「ジャパニーズ、タコペッタンショー」
1人がガラス板を立てて持ち、1人がタコをひっつける。
そして
「オートトトトッ」
タコがガラスから離れずにペタペタと回転しながら落ちる様を実況。
最後に
「どうですかぁー」
日本のひっつきダコは、ガラスだけでなくネパールの人々の心もしっかりキャッチ。
順調に売れた。
「サンキュー、ありがとう」
「どっち?
2つとも!
センスあるねえ」
買ってもらうとお礼とヨイショを忘れない。
ある程度売れると店じまいし、売り上げを手にメシ屋へ。
代金20ルピーを払い、寺の境内に戻り、残金を計算すると425ルピー(810円)
「これは結構な金だぞ」
「明日も全部売る感じでいこう」
味をしめた2人は、翌朝、昨日と同じ広場へ。
捨ててあるのか置いてあるのかわからない板を
「借りちゃおう」
といって持っていき、昨日でAタイプは売れてしまったのでBタイプをその上に陳列。
「これも役に立つだろう」
と有吉はリュックに大切にしまっていた襟巻を板の上に置いて装飾を施した。
その上、2人は空手着に着替えて気合を入れた。
人が集まると昨日同様、実演販売を開始。
しかし今日は客の反応が悪くサッパリ売れない。
「なんかヤバイな」
「妥協する?」
日本語で相談し値下げを決定。
「OK。
1ピース、5ルピー」
一気に半額になったひっつきダコBタイプは勢いよく売れ出し、15分で完売。
寺の境内でこの日の売り上げを計算すると220ルピー。
2日間トータルで665ルピーの現金を得た。
太っ腹な2人はステーキレストランへ。
「アッコさん、いただきます」
と一礼してから豪華な晩餐をとった。
会計が213ルピー(430円)と知っても
「今日の売り上げ、全部飛んじゃったな」
「まあいいんじゃない」
と余裕のヨッちゃん。
寝床である寺の境内に戻り
「落ち着くわ、ここ」
と寝ころんだ有吉だったが、30分後には異変が。
「マジでモラすよ。
このままだと」
タコを売った金で牛を食った祟りか、どうやら食当たり。
チベット仏教の寺院が集中するルバール広場で、ゲリの野グソはマズい。
2人は野宿をあきらめ、トイレのあるホテルへ急いだ。
「ハァー、ファー、遠いよ」
有吉は泣きそうな顔をしながら歩き、なんとか安宿「MUSTANG COTTAGE」に到着
森脇がフロントで手続きをしているとき、有吉は有吉は、トイレにかけ込んでギリギリセーフ。
1泊、125ルピー(250円)だったが、有吉は、その後もひどい下痢と吐き気が続き、1日中寝た切り。
それが3日続いた後、4日目、ようやく出発したが
ホテル代 375ルピー
食費 260ルピー
合計635ルピーの支払い、残金は30ルピーとなった。
「森脇に悪いなと思った」
(有吉)
「相方には悪いが久々のホテルがちょっとうれしかった」
(森脇)
通りに出た2人は、たくましくヒッチハイク再開。
「せっかくネパールまで来たんだから・・・」
「世界一の山をみておきたい」
と目的地をエベレストに設定。
森脇は
「WE WANT LOOK EVEREST」
と書いた紙を両手で持って掲げ、有吉は親指を立てた手をあげて乗せてくださいアピール。
1時間後、1台のジープが停まってくれた。
「ノー・マネー、ノー・プロブレム?」
運転手は
『どうぞ』
とジェスチャー。
そして走り出すと
『エベレストをみるなら、そのふもとまで行かずに、ずっと手前のナガルコットという街からみるのがベスト』
と教えてくれた。
1時間後、そのナガルコットに到着。
ヒマラヤ山脈を一望できるという展望台に上がったが、この日は雲によって標高8848m、エベレストの姿をみることはできなかった。
それでも2人は目前にある世界最高峰に、しばらく見とれた。
「しょうがねえな」
(有吉)
「本当に良い心の洗濯ができた」」
(森脇)
名残惜しいが展望台を下り、親切な運転手さんに1番近い街まで運んでもらった。
そしてロンドンを目指し、インドへ再入国するために
「To INDIA」
と書いた紙を掲げた。
2時間後、小型トラックが停まってくれた。
「3パーソン。
ノーマネー、OK?」
『OK』
トラックの荷台にいくとゴミだらけで一瞬、戸惑ったが、乗ってみるとこれが案外いいクッションとなってノリ心地は思いのほかグッド。
イイ感じで6時間揺られ、ナダルコットから230㎞し、国境に到着。
「国境ですか?」
『そう、バイラワです』
運転手にいわれて降車。
お礼をいって別れると近くでバス停を発見し、そのまま一泊。
翌朝、起きると知らないうちに知らない男が寝ていて、ベンチに3人並んで寝ていた。
ネパール出入国管理事務所で出国手続き、インド出入国管理事務所で入国手続きを済ませ、無事、インド入国。
その後、1台のトラックをGETし、約3時間揺られて、ゴラクプールへ到着。
すんなりインド再入国を果たした。