猿岩石は、1995年2月、事務所(太田プロ)に入り。
1年後、
「半年間スケジュールが白紙であること」
という募集条件で内容は明かされないまま、「進め!電波少年」のオーディションを受けた。
そして広島からバスで上京した後、東京ドームで野宿をした経験があったことが決め手になって合格。
まだ外国に行ったことがない2人は、アイマスクと大音量のヘッドホンをつけられ
「だまされて」
香港島に連れていかれた。
まだTVに2回しか出たことがない2人は、すぐに特設スタジオに放り込まれ、
「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」
という企画名と
「これから香港からロンドンまでヒッチハイクで行ってもらいます」
「現在いる場所から西へ西へと直線距離にして、だいたい 2、3万km(実際は3万5000km)」
「期限は無期限なんですが、3ヵ月くらいかなぁということで・・(実際は6ヵ月かかった)」
と超アバウトな説明を聞かされた。
ルールは
・予算は10万円(番組から支給、それ以外のお金は持っていけない)
・移動は徒歩かヒッチハイクのみ(お金を払って乗り物を利用するのは禁止)
・旅の道中、猿岩石の2人に1人のスタッフが同行し撮影するので3名で移動するが、スタッフは一切、手助けはしない。
さっそくヒッチハイクの旅はスタートし、スタジオを出てショッピングモールであるタイムズスクエア前の道の端に立って
「To LONDON」
と書いた紙を掲げ、そのまんま東に
「こんなモンで(車が)捕まるか」
と強めにツッコまれた。
そして白いワンボックスカーをGET。
運転手のポールは工事現場から自宅に帰る途中だというが、車に押し込まれるように乗る2人はヒッチハイカーというより拉致される日本人観光客だった。
1996年4月13日、香港をスタートした猿岩石は、6日目、4月18日に2ヵ国目、中国へ突入した。
「サンキュー」
国境からヒッチハイクで車に乗せてもらった有吉弘行と森脇和成が、20㎞北、深センの駅前で降ろしてもらったのは夕方に近い時刻だった。
「どうしよう、マジで」
(有吉)
「今日、一晩こして、とりあえず明日、深センから離れよう」
(森脇)
駅前で野宿の準備をしていると中国の人が集まってきて話しかけられたが、
「わかんない」
どうすることもなくとまどっていると
『日本人?』
と日本語で話しかけられた。
「日本人です」
『こんなところいたら危ないですよ』
「危ないですか、ここ?」
「僕ら、ここで野宿しようと思ってるんですけど」
『えっ?!
絶対に危ないッスよ』
その日本人の男性は、猿岩石があまりお金が使えないことを知ると一緒に安いホテルを探してくれた。
そしてフロントと交渉し、1泊1人60元(720円)に値切ってくれた。
猿岩石は男性に感謝して別れたが、通された部屋はなんと10人くらいの相部屋でみず知らずの男たちと一緒に寝た。
中国の正式国名は「中華人民共和国」
人口は、14億人以上で世界最大。
国土の広さは、ロシア、カナダ、アメリカ合衆国に続いて4位。
それでも日本の約26倍もあって、首都である北京市の大きさは四国に匹敵。
北京市の中心には天安門広場があり、毛沢東の肖像画が掲げられた天安門やかつて皇族が生活した宮殿の紫禁城、日本の国会議事堂にあたる人民大会堂などがある。
猿岩石が訪れる7年前、この天安門広場で大事件があった。
1989年6月4日、民主化を求める学生や市民が終結。
警察と軍が、それを包囲して撤退するよう説得したが、数で優るデモ隊は動こうとしない。
やがて中国政府は戒厳令を発動。
突如、発砲し始めた軍隊にデモ隊は抵抗。
軍から数名の死者、デモ隊側から数百人が死亡者と多数が逮捕者が出たといわれている。
翌6月5日、天安門に続く大通りを戦車が縦1列になって走行していると、その先頭車両の前に1人の男が飛び出してきて、行く手を阻んだ。
戦車は何度も回避しようとしたが、、その度に男は前に回り込んで前進を阻止。
心配した数名の男(私服警官という説もある)によって、男は現場から引き離されて群衆の中に消えた。
この様子は外国の記者に撮影され、映像は世界に配信された。
人々は男を
「無名の反逆者」
「中国の自由の象徴」
と称えた。
一連の騒動は、絶対的だった中国共産党に民衆の抵抗を示した画期的な事件として扱われた。
しかし中国では報道が規制され、多くの中国の人は事件のことを知らなかった。
中国政府は、男についても情報を秘匿。
公式の場で海外メディアから
「あの男はどうなったのか?」
と聞かれても、1990年には
「死んではいないと思うが・・・」
2019年には
「把握していない」
「いえることは、あの政治騒動について中華人民共和国政府はすでに明確な結論を出したということだけだ」
と明確に答えない。
そのため
「その場にたまたま居合わせた普通の若者」
「刑務所の中にいる」
「すぐに処刑された」
「出所して台湾で暮らしている」
など様々な情報や憶測が飛び交ったが、男が誰なのか未だ不明。
ただ「Tank Man」と呼ばれている。
中国の存在感は大きい。
日本では、インスタント麺のテレビCMで使われたフレーズ
「中国4千年の歴史」
が有名だが、決してそれは大袈裟ではない。
世界最古の文明の1つ、「黄河文明」に始まる中国は、永らくアジアの中心的存在で日本も多くの影響を受けた先進国だった。
しかし1840年のイギリスにアヘン戦争で負けると、莫大な賠償金と香港を奪われた上、欧米諸国と不平等条約を結ばされるという屈辱を味わった。
こうして一時、植民地となった中国だが、数十年後には改革開放路線を打ち出し、人類史上初のスピードと規模で発展。
1980年、3030億ドルだった名目GDPは、2021年には17兆4580億ドルと、40年間で50倍以上。
核拡散防止条約で核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つになるなど軍備も増強。
2021年の中国の国防予算は2073億ドルでアジアでは最大、世界ではアメリカ合衆国に次ぐ2位。
経済、軍事、共に大国となった中国は、日本の尖閣諸島周辺を含め、東シナ海や南シナ海でも強引な活動を行い、他国を侵略し領土を拡大しようとしている。
猿岩石は、旅7日目となる4月19日、相部屋を出てヒッチハイクを始めようとしたが、ホテルの外は暴風雨。
入り口の前の屋根の下で雨宿りしていると、中国人男性が近づいてきて、たどたどしい日本語で
『私の家に日本の友達((がいる)』
といった。
「これは行ってみる価値あるぞ」
と2人は男性についていった。
そして家に入ると
『(友達は)明日、来る。
今日は泊っていきなさい』
といわれ、喜んで案内された部屋に荷物を置いた途端、
『300元です』
と要求された。
「ノーマネー」
と断ったが、向こうも粘り、最終的に2人で150元(1840円)まで値切れたので宿泊することにした。
「今日だけゆっくりして明日から・・・
山下さんに会って情報、手に入れて」
寝る前、有吉は森脇にいった。
9日目、4月20日、結局、山下さんは現れず、道端で
「広州」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク開始。
車が停まり、男性ドライバーが降りてきた。
『広州、行きたいの?』
「広州」
「OK?」
『いいよ』
非常に気前がよかったが、
「無銭」
と書いてみせると
『金ないのか!』
と怒って去っていった。
その後も車は時々停まってくれるが「無銭」をみせると去っていかれて、森脇は
「急変するな、しかし」
2時間が経過した頃、男性が現れた。
『広州まで行くんですか?』
「はい、広州」
「OK』
うなずいて歩き出す男性に、
「なんかOKらしいぞ」
「何がOKなんだよ?」
といいながらも、とりあえずついていくことに。
すると着いたのは駅だった。
男性はお金を差し出し、電車で行けといって去っていった。
「いい人だ」
130元(1560円)の臨時収入を得たものの、運賃を払って乗り物に乗るとルール違反になるので、道に戻った。
さらに3時間が経過したが車は捕まらず、時刻は19時。
「いいよ、もう」
とあきらめた。
結局2人は3日間、深センから動けず、車なら1時間、高速鉄道なら30分の広州に着いたのは、香港をスタートしてから12日目。
深センと広州は、共に多く集まる大都市だったが、少し個性が違っていた。
広い中国では多くの民族がいて、両都市には少なくとも56民族、56種類の言語(方言)が存在していたが、深センは急速に成長した新しい都市で、住民に特別な帰属意識はなく、他の文化も
受け止め取り込んでしまう寛容さがあった。
一方、広州は、紀元前214年頃から1000年以上の歴史と独自の文化を持ち、広州に生まれ育った人も多かった。
そんな古都で猿岩石は、西方向に向かう長距離トラックを狙った。
森脇は紙に、有吉はTシャツに目的地である
「南庁」
と大きく書いたが、それでも4日間、カーハントできなかった。
「僕ら英語が出来ないんで、笑顔しかないんですよ。
それなのに笑顔がないんですよ、中国人、まったく」
(有吉)
「全然,もう、返ってこないですね。
笑顔が」
(森脇)
「ヤバいなあ」
広州の道端で絶望してへたり込んで頭を抱える2人に、同行スタッフは
「ギブアップする?」
有吉は、
「いや、しません。
頑張ります」
「やめてもいいんだよ」
「いや頑張ります」
有吉はそう答えながら、心の中では森脇がギブアップするのを期待していた。
しかし森脇もあきらめず、2人は重い腰を上げてヒッチハイク再開.
2時間後、サングラスをかけた男が現れ
『こっち来て』
という。
ついていくとトラックの荷台を扉を開いて『どうぞ』とジェスチャー。
「南宁?」
『そうだよ』
「やったー」
しかし荷台に乗るとたくさんの蛇が入った四角いカゴが数個あり、蛇を輸送中のトラックであることが判明。
「蛇と一緒かよ」
「怖いよ」
しかしついにヒッチハイクに成功し
「広州、さらば」
「イエーイ」
と荷台の中で2人はバンザイ。
南宁までは600㎞の長旅だったが、街を出ると驚くほど悪路が続いた。
「スッゲーな、おい!
なんだこりゃ?
スッゲえ揺れるよ」
(有吉)
「痛ッー、ケツ痛いね」
(森脇)
「中国が道が悪すぎる」
(有吉)
「中国、道くらいちゃんとつくれ」
(森脇)
ちなみに2人は、このヒッチハイク旅で座席に乗せてもらえることもあったが、圧倒的に多かったのはトラックの荷台だった。
そこで数時間過ごすわけだが、最長記録は21時間。
最初は痛くて仕方なかったが、いつの間にかケツが鍛えられ、慣れてしまった。
18時、暗くなると寒さが襲ってきた。
21時、完全に闇になると森脇は
「ヘビ逃げてもわかんないもん、これ。
大丈夫かな。
出てこないかな」
とカゴにライトを当ててチェック。
蛇の恐怖、振動、寒さで寝ることができない。
4月20日、朝5時、トラックは広州を出てから13時間走り通しだったが、猿岩石も一睡もできないまま夜が明けた。
10時、荷台に乗って19時間後、トラックは600km離れた南寧に到着。
「シェイシェイ」
とお礼をいって降車。
「着いたなあ!
何時間たった、車?」
「19時間くらい?
「あー長すぎるよ」
「メシも食えなかったっしょ」
「メシなんて、もう40時間くらい食ってないよ」
一睡もできなかった2人は食堂へ入った。
番組から渡された旅の予算は10万円。
食費 24000円
宿泊 38000円
ビザ 21500円
地図 2000円
と合計85500円を使っており、残りは14500円だった。
16日目、2人は国境手前20㎞の位置にある凭詳という街までやってきた。
目指すはベトナム入国。
朝8時、
「越南(かんなん、漢字でベトナムという意味)」
と書いた紙を掲げヒッチハイク開始。
すると30分後、トラクターが停まってくれた。
「OK?」
と聞くと運転手はうなずいてくれたので荷台に乗り込んだ。
そして荷台の上に立って
「サヨナラ、中国」
(森脇)
「アリガトウ、中国」
(有吉)
と手を振った。
1時間後、トラクターが国境に到着。
まず中国出入国事務所で出国の手続き。
続いて隣の建物、ベトナム出入国事務所で入国手続き。
そして検問所へ向かい、パスポートをみせて、大陸ならでは、日本では絶対にあり得ない陸路国境越えを行った。
徒歩で3ヵ国目、ベトナムに入国した猿岩石は、
「よし、やった」
とガッツポーズ。
車がいなかったので、とりあえず1番近い街に向かって、そのまま歩くことにした。
ベトナムは、中国と同じ社会主義共和国。
南北に細長い国土は、北に中国、西にラオス、カンボジア、東に南シナ海に面し、その広さは32万9241km²で日本(37万8000 km²)より少し小さい。
人口も、約1億人で日本(1億2500万人)より少し少ない。
首都のハノイやホーチミンなどの都市部は急激に経済成長したが、電気や水道がない発展から取り残された地域も多数あった。
しかしそういった地域では素朴で親切な人が多いという。
車どころか人すら歩いていない道をひたすら歩いて3時間。
やっと道を行く人が出てきて、猿岩石は道端に建つ家から声をかけられた。
有吉はコップで飲むしぐさをしながら
「コレッ?マジか」
どうやら飲み物がもらえそうな雰囲気。
ノドがカッラカラの猿岩石は
「売店だったら怒るぞ」
といいながら少し上のほうに建っている家に向かって坂道を歩き出した。
家にはたくさんの人が集まっていて
「コーラがある、コーラ」
と喜んで家の中に入って、荷物を置いて座らせてもらうとコップを差し出された。
「水?」
森脇は、それを飲むと思わず吐き出してしまった。
それは水ではなくお酒。
しかもアルコール度70%の地酒。
有吉はそれを一気に飲み干し
「うまいねえー」
といってコップを返し、おかわりを要求。
「ウワッ、コレ、キツい」
と顔をしかめる森脇を
「なにやってんだ、オイ」
とにらみ、2杯目も一気飲みし、おかわり。
3杯目も一気に飲んで、空けたコップを下に向けて
「ウエーイ」
と雄たけび。
その後も
「もっと酒持って来いよ」
「楽しいじゃんよ」
と調子に乗って飲みまくる有吉。
森脇は
「コイツ、いつもそうだよ」
「何で普通に酔えるんだよ」
「行きつけの飲み屋じゃねえんだぞ」
と小声でツッコんだ。
1時間後、やっと席を立った有吉は
「また来るよ」
「よし、帰るぞ」
といって家を出て
「あはははは、楽しいなあ」
と笑いながら歩いた。
「どこが楽しいんだよ」
冷たい目でみている森脇。
「なんかもうねえ、なんかもうねえ、ワァー」
有吉は、通りすがりの人や自転車に乗った女性と握手。
道ですれ違った老女には
「OK、最高」
と同郷のスター、矢沢永吉風にいいながら握手、そしてハグ。
そんな超ゴキゲンだった有吉だったが、しばらくするとなぜか急にグチグチとグチり始めた。
「どうすんだよー、帰ってよおー。
自分の家ねえんだぜぇ。
東京にいったって自分の家ねえの恥ずかしいよ。
金払わねえからだろ、お前がよお」
実際、有吉は東京で家賃が払えずに追い出された後、事務所の先輩、ノンキーズの山崎晋の部屋に居候していた。
「俺、払ってるよ」
ちゃんと家賃を払って自分の部屋がある森脇が答えると
「払ってねえよ。
俺が払ってねえんだよ」
「どっちだよ」
森脇が冷たく返すと有吉は急に泣き始め、
「ごめん。
また迷惑かけたよ、俺よぉー」
オロオロとしながら森脇にスリ寄っていった。
「そんなに迷惑かけてないって」
「いつも迷惑かけてるよぉー
だってさあぁー」
「いいよ!」
路上で2人のカラミは続いた。
国境から7時間、25kmを徒歩で移動し、やっと街がみえてきた。
「あれが街か」
森脇がいうと、アルコールが抜け、体の力も抜けてゾンビのように歩く有吉は
「ふぁ?」
と返事。
「みえたぞ」
「がんばる」
「みえるか、あの街が」
「はい」
しかし死にそうな顔で歩いていた有吉は、街の手前でダウン。
白目をむいて死人のような顔で道端で眠る有吉に人々が集まってきて取り囲んだ。
時間は17時。
森脇は苦笑いするしかなかった。
21日目、5月3日、、ハノイに到着。
漢字で「河内」と書くハノイは首都であり、ベトナム第2の都市。
第1の都市、ホーチミンが経済の中心なのに対し、ハノイは政治・文化の中心。
美味しいベトナム料理や果物、スイーツ、安くて可愛いベトナム雑貨や陶器などが素朴なスタイルで売られていた。
しかしそんなおシャレな観光とは無縁の猿岩石は、すぐにラオス領事館へいき
「アイ・ワン・トゥー・ビザ。
トゥー・ラオス」
とビザを申請。
すると
『1人、36ドルです』
といわれ
「はい?!」
と日本語で驚いた。
なんと2人で7800円。
昨日までに旅の予算10万円から、
食費 29000円
宿泊 38000円
ビザ 21500円
地図 3000円
と合計91500円を使い、残金は8500円。
ラオスのビザ代を払うと700円になってしまった。
しかも
『今日は金曜日ですから、月曜日に取りに来てください』
とビザ発行は3日後といわれてしまい、森脇は
「あ~」
といって床に膝をつき、有吉も
「もう何も食えないよ」
と呆然となった。
領事館を出た2人は歩きながら相談。
「いよいよだな」
「どうしよう」
「水とるか、メシとるかだな」
「水だろう」
結局、断食&野宿でビザの発行を待つことを決めた。
そして公園に移動。
「腹減った」
「昨日の昼から何も食ってねえから、もう」
といいながら芝生の上にリュックを置いて、それを枕に寝転んだ。
すると頭上、数mをカゴを担いだ行商の女性が通過。
カゴの中にはフルーツ。
「何か買おうよ」
森脇の誘惑を有吉は黙殺。
動けば腹が減る。
腹が減っても金はない。
少しでも体力を温存するため、ジッと時間が過ぎるのを待った。
夕方になると雨が降り出し、屋根のある駐輪場に移動し、そのまま1泊。
翌日、雨はやんだが、何もせずに空腹を忘れるためにひたすら寝て、2日目の夜も静かにふけていった。
3日目は、雲1つない晴天。
ギラギラと照りつける太陽の下、1日中、寝た。
一見、楽だが、実はジッと耐えていた。
「助けてー。
1 腹減った
2 水をくれ
3 かゆい
4 泣きたい
5 恐るべし「進め電波少年」
(森脇)
「オバさんを襲うか、万引きするか」
(有吉)
いけないことも頭によぎらせながら断食&野宿3連泊。
こうして有吉と森脇は、ベトナムで人生初の無一文と断食を体験したわけだが、心の中では、
「所詮はTV企画」
「最悪、スタッフが助けてくれる」
と思っていた。
しかし同行スタッフが、飲まず食わずの自分たちの前で、缶コーラをおいしそうに飲んで、余りを捨てるのをみて考えを改めた。
旅の間、同行スタッフは、2人がどんなに貧乏になって飢餓状態になっても肉やメシをバンバン食べ、酒を飲み、余ると足で踏んで食べられないようにした。
2人は同行スタッフを
「悪魔の大王」
と呼んだ。
同行スタッフがペットボトルの水を飲みながら
「あんまり水(水道水)は飲むなよ」
とアドバイスすると、有吉は、
「じゃあ、くれよ。
それっ」
「ダメ。
買えよ、自分で」
「金ねぇんだよ!」
結局、有吉と森脇は、香港からロンドンまで水問題、つまり下痢に苦しみ続けた。
特に胃腸が弱い有吉は、頻繁に腹を壊した。
「水って結構大変だなって思って。
ヒッチハイクで海外に190日いたけど、100日以上下痢。
水飲んでないのに何でお腹を壊すんだよっていったら、(現地の水で)サラダを洗っているでしょ。
それだけで壊す。
その国の水が汚いとかじゃなくて、合わないんだよね、体に」
旅の間、基本的に野宿生活の2人は、自然と「野グソ慣れ」した。
出した後は手で拭くことが多いが、森脇が左手で拭いて右手で食べるようにしたのに比べ、有吉は右手で拭いて右手で食べた。
ありとあらゆる場所でできるようになった2人だが、それでもお腹が弱い有吉は、よく下痢になり
「寝てる間も起きてる間も」
漏らすことがあり、やがて「野グソ慣れ」に続き「漏らし慣れ」もしてしまい、
「ウンコがでるだけマシ」
と屁でもなくなった。
またタバコが大好きな有吉は、旅の道中、密かに「しけもく」を集め、大切に隠し持ち、そして夜、同行スタッフがいなくなると速攻で吸った。
「ゴールする前までしけもくをパンパンに持っていたから。
あの旅でタバコやめないってなかなか根性ある」
(有吉)
一方、同行スタッフも、ある意味、猿岩石よりも苦労していた。
3人で旅をしていて、もし襲わるなら、いかにもお金がない猿岩石より、ちゃんとした身なりをしてカメラを持っている自分。
ヒッチハイクで新しい車に乗る度に緊張し、走行中も、ちゃんと目的地に向かっているかなど常に警戒。
夜は、電気がとれる場所に泊まって充電。
そしてその日撮った数時間の映像から、必要な部分を抜き出す編集作業。
編集したテープは、どこからでも送れるわけではなく、ある程度、貯めて大きな街から発送。
日本に着くのには数日かかり、さらにそこから編集して収録して放送されると 7~10日間くらいのタイムラグがあった。
「進め!電波少年」の放送時間は、日曜 22時30分 ~22時55分。
毎週、25分の間に数本のVTRが放送され、「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」は、その中の1コーナーとして
5月24日、30日
6月3日、6日、14日、24日、30日
7月3日、18日、19日、25日、31日
8月5日、7日、9日、15日、19日、22日、29日
9月2日、10日、17日、25日
10月1日、11日、18日
と26回、放送されたが、最初の頃は、3~4分。
それが人気が出てくると10分、15分と増えていき、名物コーナー化。
さらにヒットすると丸々25分放送されることになった。
ハノイ4日目の朝、数日ぶりにまともに立ち上がった2人は、ラオス領事館へいってビザを取得。
「ありがとう」
「やった」
すぐに地図を広げ、次のヒッチハイクの目的地を検討。
結果、ベトナムからラオスに入国する旅行者用の検問所がある、はるか南の街、ドンハを目指すことにした。
「初めてだったんですよ、絶食するの。
日本でダラダラした生送ってたんで、かなりキツかったですね」
そういう森脇は、暑さと空腹でフラフラになりながら
「DONGHA」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク開始。
しかし通るのは乗用車やバイクで長距離トラックがいない。
トラックを求め、あてもなくさまよっていると何かの市場なのか、何十台もトラックが集まっている場所を発見。
「おお、トラック、たくさんいるよ」
「これ、チャンスだぞ。
「これ、全部に当たっていけば・・・」
2人は中に入り、
「誰か、ドンハいく人いませんか?」
「ドンハ」
と聞いて回った。
やっとトラックの運転席から
『いいよ』
といってくれる運転手を発見。
ちょうどそのとき腕に赤い腕章を巻いた男がやってきて
「ここは政府機関だから外に出て」
といわれ、カメラを叩き落された。
それでもなんとか粘って運転手と交渉を続け、ギリギリでヒッチハイク成功。
「あー、よかったあ」
有吉は泣きながらトラックの荷台に上がり、森脇も
「うれしいよ」
と泣いた。
地獄のハノイを脱出して2時間後、疲れ切った2人は狭い荷台で眠りこけた。
23時、トラックがドライブインに立ち寄り、ドライバーにオゴってもらい、4日ぶりの食事。
「ベトナムのハノイで3日間絶食。
これが初めての絶食で、あれを救ってくれた運転手にオゴっていただいて・・・
あの普通のほうれん草のおひたしみたいなやつと、あと卵焼きとご飯と水ですか。
あれが忘れられないですね、もう。
おいしかった。
そら何つうのかな、今食べるとどうかわかんないよ。
でも嬉しかったのよすっごい」
(森脇)
「泣いて食べてたもんね」
(有吉)
翌朝、ハノイを出てから13時間たったが、先はまだまだ長いらしく、強い日差しを受けながら眠る2人をみて、ドライバーはトラックを停めて、荷台にビニールシートを張ってくれた。
猿岩石は、ビニールシートの屋根とドライバーの優しさと守られながら、再び眠りについた。
昼12時、700㎞を20時間かかって移動し、ついに国境手前の街、ドンハに到着。
親切にしてもらったドライバーにお礼をいって握手してお別れした。
ちなみに有吉は、このヒッチハイク旅で
「人間、食べないでいられる限界は3日」
「野宿は慣れて全然大丈夫になるが、腹減るのはツラい。
1番ツラい」
ということを学んだという。
1日目 断食している自分に酔う
2日目 まだ「メシ食いてえ」と叫べる
3日目 腹が減りすぎて死にそうになる
4日目 狂気で目が血走り、食い逃げや人を襲って食べ物を奪うことも考えるが体は動かない
といい、3日目まではなんとかなるが4日目からは頭に食べ物のことばかり浮かんで胃散が出てお腹が痛くなる「空腹地獄」が続くという。
こうして24日目、5月6日、トラックに20時間揺られ、ハノイから約700kmのドンハに到着した2人は、
「お前汚ねーよ」
(有吉)
「お前もだよ」
(森脇)
と互いに相手の汚れた服や体を笑いながら歩ていると川に遭遇。
「これ、体、洗うには十分だな」
と濁っている川に入って10日ぶりの入浴。
「気持ちイイッ」
川の中から眺める夕日は最高で、そのまま川にかかる橋の下で野宿した。
25日目、起きて橋の上に出るとそこはマーケットだった。
目の前にたくさん食べ物があるのに無一文で
「腹減ったよ」
と嘆く有吉。
「金があったらなあ」
森脇はそういった後、ダルそうに歩く有吉のリュックをみて閃いた。
リュックに丸めてはさんであった、野宿のときにかけ布団代わりにしていた赤と白の2枚のジャケットを引っ張って
「売れよ、コレ!
けっこういいモンにみえるんじゃないの」
「やってみるだけやってみようか」
「当たってみよう」
そしてマーケットで服を売っていた女性に
「お姉さん、どう?みて」
といって赤いジャケットを渡した。
愛想のいい女性は
『オオッ』
と喜んで自分で着てみたが、すぐに
『オムツのようなニオイがする』
と笑いながら脱いだ。
そして有吉が
「これもつけよう」
と白いジャケットを示すと
『そっちは、もっと臭そうだわ』
といって笑った。
そして女性が示した買取価格は、5(US)ドルだった。
「ちょっと待ってください」
有吉はそういって他店と交渉することに。
2店目は、ジャケットに触れもせずに
『NO』
3店目の女性店員が赤いジャケットを羽織ると
「オオ、ビューティフル」
「ホント、キレイ」
とヨイショし、
『7ドル』
4店目、同じように女性店員がジャケットを着ると、有吉は
「アララ、似合うわ」
森脇は
「キレイ、カシャカシャカシャ」
とカメラで撮るジェスチャーし
『10ドル』
5店目の女性店員はジャケットを広げ、タグや縫い方など隅々までチェック。
2人は
「専門家みたい」
「見るねえ」
とヨイショ。
すると女性店員は
『日本製ね』
といって紙に数字を書いた。
「3万ドン?
3ドルくらい?
ダメだな」
有吉がいうと同行スタッフが
『3万ドン?
30万ドンじゃない?』
2人の目は紙に吸い込まれた。
「あ、30万ドンだ」
「あ、ホンマや」
なんと30万ドン=30ドル。
「いいの?」
「OK?」
『OK』
お金をもらうと2人は
「たしかにいただきました。
ありがとうございました」
と日本人らしく丁寧にお辞儀。
マーケットの外に出ると、
「やった」
「すごいぞ」
と喜んで走り出し、少し離れた場所でお金を確認。
「ギャハハハハ」
「札束だよ。
あれ、2つでいくらだったの?」
「1つはもらったのね。
で、赤いのは2千円で買ったの」
無一文から復活した2人は、40時間ぶりの食事。
空腹が満たされると徒歩で国境へ向かった。
まずはベトナムの出国手続きをして、それが終わると
「苦しかった、ベトナムは」
と笑いながらラオスの入国手続きへ。
そして香港、中国、ベトナムに続き、4ヵ国目、ラオスに歩いて入国し、
「ウエーイ!」
とバンザイ。
さっそく地図を広げて、次なるヒッチハイクの目的地を検討。
「コレ、一気に行っちゃうか」
「ウン、一気にタイ行こう」
といきなりラオスとタイの国境を目指すことにした。
ラオスの正式国名は、「ラオス人民民主共和国」
国土面積は、日本の本州と同じくらい(約24万㎞²)で、ほとんどが山岳地帯。
メコン川を挟んでタイとの国境に面した首都、ビエンチャン特別市の他に17の県があり、どの県も独特の風土、文化が残っている。
ラオスでの主な移動手段はバスだが、メコン川を移動する「スローボート」もある。
日本とラオスは江戸時代から交易を行い、象牙、毛皮、香料などが輸入され、煙管(キセル)の吸い口と火皿を接続する竹管を「羅宇(ラオ)」というのはラオスから渡来した竹を用いたからだといわれている。
穏やかでどこか懐かしさを感じるのんびりとした少数民族の村。
ワット・シェンクワン寺院やルアンパバン、ワット・プーなど貴重な仏教遺跡。
母なる大河、メコン川、そのメコン川に浮かぶたくさんの島々「シーパンドン」
標高1000m、不思議な巨石群が静かに佇む「ジャール平原」
石灰石でできた珍しい形の山々に囲まれた「バンビエン」
ラオスは「東南アジア最後の秘境」と呼ばれ、ニューヨーク・タイムズの「世界で1番行きたい国ランキング」で第1位に選ばれたこともある。
「エクスキュズ・ミー」
猿岩石は、カーハントを開始。
するとすぐにトラックをGET。
ベトナムのマーケット以来、今日はツキまくりの2人は荷台で握手。
トラックで揺られること5時間、サワンナゲートに到着し、入国したその日にラオスの出国手続きを済ませた。
と、ここまでは超スムーズだったが、問題発生。
タイはメコン川の向こう側にみえているのに橋が見当たらない。
「橋とかねえの?」
「でもアレがタイだよ」
渡船所があるので、有料のボートで渡るシステムらしい。
今回は金はあるが、船賃を払うとヒッチハイクにならずルール違反。
「どうすんの?」
「船と交渉するしかないんじゃない?
だって泳げないだろ。
荷物あるし・・・」
2人は船着き場に近づいて
「運転手さん、ノー・マネー」
「乗せて」
と身振り手振りで頼んだが
『上で切符を買ってきて』
「えっ?」
そうこうしている間にボートは出てしまった。
誰もいなくなった船着き場で小さくなる船をみながら
「いいなあ」
「速いなあ」
と子供のようにいい合う2人。
その後、川沿いを歩いて、船に乗った人に
「タイ」
「ノー・マネー」
といいながら当たっていったが結局、乗せてくれる船はなかった。
メコン川に夕日が落ち、タイを目の前にして、その日は川土手で野宿した。
翌日、29日目、5月11日、なす術もなく、ただ川を見つめる2人。
すると船がやってきて、昨日、交渉した船頭さんがが手招きしている。
「えっ」
「ちょっと待って」
あわてて荷物を持って土手をかけ下りた。
「お金ない、OK?」
船頭は
『乗って来い』
とジェスチャー。
川岸でずっと動けないでいる2人をみかね、無料で乗せてくれるという。
こうして2人は快調に川を渡る船に乗ってラオスを出国し、10分後、タイ側の川岸の到着した。
「長かったなあ、この距離がよお」