全球団からホームランを達成した選手は3人
セ・パ交流戦がなかった頃、公式戦でセ・パ全12球団からホームランを打つのは至難の業でした。交流戦があれば最低2球団に所属すれば可能ですが、交流戦がないと少なくともセ・パ各2球団(計4球団)に所属しないと達成できません。ロッテ→中日→巨人→日本ハムの4球団に在籍した、あの落合博満でさえも達成できなかった大記録。12球団になった1958年から交流戦が始まった前年2004年までで、全球団からホームランを達成した選手は以下の3人です。
江藤慎一(1975年に達成)
富田勝(1981年に達成)
加藤秀司(加藤英司)(1986年に達成)
3人の記録を達成順に見てみましょう。
江藤慎一
中日時代
江藤慎一は、1959年に中日ドラゴンズに入団。初年度から全130試合に出場します。新人ながら、打率.281(リーグ6位)、84打点(リーグ2位)、ホームラン15本と好成績で、新人王こそ逃しますが、一年目からチームのAクラス入りに貢献しました。
一年目に打った、各球団初ホームランの内訳は次の通りです。一年目にして、敵チーム全球団からホームランを記録しました。初ホームランは、同じく新人の伊藤芳明投手(巨人)から。因みに、この年、王貞治選手も巨人に入団していますが、活躍するのはもう少し後のことです。
1959年4月15日 読売ジャイアンツ
1959年4月26日 広島カープ
1959年4月29日 大阪タイガース
1959年6月23日 国鉄スワローズ
1959年7月7日 大洋ホエールズ
その後の活躍も凄まじく、ON全盛の時代ながら、1964年、1965年には2年連続首位打者の快挙を果たしています。

中日時代(1959年)の江藤慎一
ロッテ時代
その後も活躍を続けますが、1969年に就任した水原茂監督との確執で、トレードが決定。社会人時代の恩師、濃人渉監督が就任したロッテオリオンズに移籍します。
初年はホームラン11本に終わりますが、4球団からホームランを記録しました。初ホームランの内訳は次の通りです。
1970年6月28日 近鉄バファローズ
1970年8月6日 南海ホークス
1970年8月15日 西鉄ライオンズ
1970年10月10日 東映フライヤーズ
翌1971年は、打率.337と大活躍。史上初めてセ・パ両リーグで首位打者を獲得します。ホームランも25本を放ち、残る阪急からもホームランを記録しました。
1971年5月15日 阪急ブレーブス
大洋時代
濃人監督の退任に伴い、江藤もトレードに出されます。移籍先は大洋ホエールズ。セ・リーグに復帰です。
移籍初年の1972年には、18ホームランを記録。セ・リーグの残る1球団だった中日からホームランを記録し、セ・リーグ全球団ホームランを達成しました。
1972年8月16日 中日ドラゴンズ
江藤慎一 | 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
太平洋時代
1975年には、太平洋クラブライオンズに移籍。プレイングマネージャーとしての移籍で、監督を兼任することになります。
監督兼任の立場ながら、残る1球団のロッテからホームランを打ち、史上初めて全球団ホームラン記録を達成しました。
1975年6月1日 ロッテオリオンズ
9月には2000本安打も達成。また、自分だけでなく、監督としても個人タイトルの獲得に注力し、東尾修が最多勝、土井正博が本塁打王、白仁天が首位打者のタイトルを獲得します。球団も通算3位の好成績でしたが、経営陣からは評価されず、翌年ロッテに移籍。その年、現役生活を終えました。

太平洋クラブ時代の江藤慎一
富田勝
南海時代
富田勝は、法政大学時代、同期の田淵幸一、山本浩二と「法政三羽ガラス」と呼ばれた一人で、1968年ドラフト1位で南海ホークスに入団します。
一年目から一軍の試合に出場し、75試合に登場。初ホームランは近鉄からで、8月と遅めだったものの、その年は6ホームランを記録します。翌1970年は正三塁手に定着。23ホームランを放ち、敵チームの全球団からホームランを記録しました。初ホームランの内訳は次の通りです。
1969年8月10日 近鉄バファローズ
1969年8月17日 西鉄ライオンズ
1969年10月3日 東映フライヤーズ
1970年4月12日 ロッテオリオンズ
1970年5月10日 阪急ブレーブス
1970年が現役時代唯一130試合フル出場した年で、その後は出場機会が減っていきます。
富田勝 | 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
巨人時代
1973年、長嶋茂雄三塁手の後継者候補として、読売ジャイアンツに移籍。ホームランはわずか3本に終わったものの、同年の日本シリーズは、怪我の長嶋に変わってフル出場し、古巣南海と戦いました。巨人時代は、4球団からホームランを記録しています。初ホームランの内訳は次の通り。
1973年8月11日 中日ドラゴンズ
1973年9月14日 ヤクルトスワローズ
1973年10月11日 阪神タイガース
1974年8月9日 広島東洋カープ
日本ハム時代
1976年に日本ハムファイターズに移籍。この時のトレード相手はあの張本勲で、張本 vs. 富田、高橋一三の1対2トレードでした。初年の4月に、いきなり古巣南海からホームランを記録。パ・リーグ全球団ホームランを達成します。
1976年4月24日 南海ホークス
日本ハム時代がキャリアのピークで、打率は、1976年8位、1977年6位、1978年8位とトップ10の常連でした。
中日時代
1981年に中日ドラゴンズに移籍。現役最後の球団です。
全球団ホームラン達成まであと2球団。この年は、わずか3ホームランに終わりますが、うち2本が残る2球団からで、最後の巨人で見事、史上2人目の全球団ホームランを達成しました。
1981年5月22日 大洋ホエールズ
1981年8月26日 読売ジャイアンツ
因みに、全球団ホームランを達成した1981年8月26日はプロ野球史で最も記憶に残る1日の一つです。まず、チームメイトの宇野勝が起こした「宇野ヘディング事件」が正に同日でした。また、チームは異なりますが、江本孟紀の「ベンチがアホやから野球がでけへん」発言もこの日だったと言われています。

法政三羽ガラス
加藤秀司(加藤英司)
阪急時代
加藤秀司(加藤英司)は、1968年ドラフト2位で阪急ブレーブスに入団。1969年、1970年は出場試合数は少なかったものの、1971年には、西本幸雄監督が3番打者に大抜擢します。期待に応え、リーグ2位の打率.321、25ホームランを記録。その年は見事、2年ぶりのリーグ優勝を果たします。また、敵チーム全球団からのホームランも達成しました。
1970年9月27日 南海ホークス
1970年10月7日 東映フライヤーズ
1971年5月3日 西鉄ライオンズ
1971年5月11日 近鉄バファローズ
1971年6月11日 ロッテオリオンズ
その後の阪急での活躍は言うまでもなく、1973年に首位打者、1975年はMVPと打点王、1976年も打点王を獲得。タイトル争いの常連となります。中でも、1979年の記録は凄まじく、打率.364で首位打者、104打点で打点王を獲得。ホームランは自己最多の35本を記録するも、トップのマニエルにわずか2本及ばず、三冠王は逃しています。

阪急時代の加藤秀司
広島時代
1983年に、14年間在籍した阪急を離れ、広島東洋カープに移籍。シーズン半ばで病気療養したものの、4月〜5月だけで、敵チーム5球団からホームランを記録します。残るは、自身が所属した阪急と広島だけです。
1983年4月17日 中日ドラゴンズ
1983年4月23日 大洋ホエールズ
1983年5月14日 ヤクルトスワローズ
1983年5月22日 阪神タイガース
1983年5月26日 読売ジャイアンツ
加藤秀司 | 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
近鉄時代
翌1984年に近鉄バファローズに移籍すると、4月早々、古巣の阪急からホームランを記録。パ・リーグ全チームからのホームランを達成しました。
1984年4月28日 阪急ブレーブス
巨人時代
近鉄には2年在籍したのみで、再びセ・リーグに移籍。今度は、読売ジャイアンツです。出場機会に恵まれず、ホームランは3本に終わりますが、5月に最後の1球団、広島からホームランを放ち、全球団ホームランを達成しました。
1986年5月10日 広島東洋カープ
翌年は南海ホークスに移籍し、その年に引退。現役最後の数年は移籍ばかりでしたが、阪急黄金時代の強打者として今も必ず名前が挙がる名選手です。

2011年5月7日「阪急ブレーブス蘇る黄金の70's」より