中村泰士のプロフィール
経歴・経緯
中村泰士さんの音楽人生の始まりは中学生の時にブラスバンド部でトロンボーンを担当したことから始まりますが興味を持ったのは行進曲よりもJAZZだったと言います。
高校生になり興味を持ったのが日本でも1950年代は大流行したロカビリーでした。当時大人気だったアメリカのエルビス・プレスリーやニール・セダカからロックンロールと出会います。
高校へは行かなくなるほど、JAZZ喫茶に通って音楽にハマってしまったようです。そのために高校は一度中退し、編入した学校もやめてしまうという2つの学校中退という学歴になっています。
その後、内田裕也さんと佐川満男さんのバンド「ブルージーン・バップス」のボーカルオーディションに参加しますが佐川満男さんによると「人相が悪くて歌が下手」ということでバンドには参加させてもらえなかったということです。そして「美川鯛二」という名前で芸能界デビューしていますが、大成せず、作詞・作曲の道に進みます。その後、1968年に発表した佐川満男さんの「今は幸せかい」を作詞・作曲し大ヒットとなります。ちなみに佐川さんと中村泰士さんは同じ1939年生まれです。
中村泰士さんが歌手だったというものあまり知られていなかったかもしれません。
ミドル世代が中村泰士さんをよく知る様になったのは1971年10月3日から1983年9月25日まで放送されていたアイドルオーディション番組「スター誕生!」の審査員として出演していた頃ではないでしょうか。
アイドルが次々誕生するこの番組で昭和を代表するアイドルの一人、桜田淳子さんの楽曲を多く手がけたことで当時の若い世代にも中村泰士さんが広く知られるようになっていきました。
中村泰士Best 5は?
ちあきなおみ
桜田淳子
2019年5月、桜田淳子さんが中村泰士さんの傘寿を祝い手紙を届けたと報じられていました。手紙の中にはデビュー当時の秘話が書かれていて、デビュー曲のレッスンの時に『鼻にかける歌い方』を教えられてもすぐに出来なくて泣いた思い出が綴られていたということです。
手紙の最後に「可愛かった淳子より」と締められていたというので長い月日の流れを感じさせるエピソードでした。
淳子はかわいかったけど、特徴がなかった。それで鼻にかけて歌ってみたら、と。それをみんなまねした
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905210001275.html桜田淳子の鼻にかける歌唱法は中村泰士の指導だった - 音楽 : 日刊スポーツ
細川たかし
そして…めぐり逢い
鬱の時期に「いとしのエリー」に何を思ったのか?

自分で明るく振る舞うよう心掛け始めた。39歳のときの作詞・作曲した梓みちよさんの「小心者」は、まさに僕の心情を自覚して表現した歌詞でしたね。
https://hc.nikkan-gendai.com/articles/191194?page=3(3ページ目)作詞・作曲家の中村泰士さん 「嫌な性格」はうつ病が原因|日刊ゲンダイヘルスケア
うつ病と診断され、今度は自分と向き合ったり、客観的に自分を見つめなおした時期がきたのかもしれません。その頃、梓みちよさんに提供した「小心者」を作詞・作曲し、自身の心情を表した曲になったということです。
余談ですが、「スター誕生!」で審査員をしていた都倉俊一さんも桑田佳祐さんの名前を挙げ、「羨ましい」と語っています。
90歳までにやりたかったこと
80代に入って歌に向き合おうとあらためて思った中村泰士さんはちゃんと体調を整えることを意識していたようです。ウォーキングもして、ボイストレーニングをしたり、体幹を鍛えたり呼吸の仕方を見直したりもされていたということです。
そんな中村泰士さんが90歳までの目標を持っていました。
ヒットメーカー・中村泰士が80歳になって分かったこと(中西正男) - 個人 - Yahoo!ニュース
まとめ
昭和のヒットメーカー中村泰士さんが手がけた楽曲を今聞いても素直に耳に入ってくるメロディに癒されます。中村泰士さんのメロディをもっと聞いていたかったですね。
あらためてご冥福をお祈りします。