美少女ブルック・シールズがアメリカの恋人になるまで
1965年5月31日にアメリカ合衆国ニューヨーク出身のブルック・シールズは女優の母親とイタリアのメディチ家の血を引く実業家でレブロンの役員を努める父親の間に生まれた。
一見華やかそうに見えるファミリーの現実を見てみるとブルックはシングルマザーの母親に育てられていた。

母のテリー・シールズは、ブルックのマネージャーもつとめており、ステージママとして娘を成功に導いた。そしてブルック・シールズのアイドルとしてのキャリは生後11ヶ月から始まっている。
ニューヨーク市でチャイルドモデルとして活動を始めたブルックは1966年にアイボリーソープのキャンペーンモデルに抜擢された。彼女は1歳に満たない年齢のときから稼いでいた。

1977年にウディ・アレン監督の映画アニーホールで映画初出演、子役として女優人生の幕を開けた。1978年の映画『プリティ・ベビー』で最初の主役を演じ注目を浴びることになるが…。
ルイ・マル監督が手がけた『プリティ・ベビー』で、ブルック・シールズは、ニューオーリンズで児童買春の相手をする12歳の娼婦という役柄を演じた。今では違法になる未成年のヌードを披露して一躍スターへの階段を登っていく。『プリティ・ベビー』はカンヌ国際映画祭にも参加している。
![Pretty Baby [Import anglais]
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Pretty Baby - Trailer - YouTube
1980年の映画『青い珊瑚礁』では、腰布を一枚付けただけのみずみずしくセクシーな姿態を披露。船の難破によって孤島に漂着した少女と少年が性に目覚めていく過程を演じた。ブルックの美しさは たちまち話題を呼びハリウッドを代表するアイドル女優となった。
The Blue Lagoon (1980) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p] - YouTube
そして翌1981年に公開された映画『エンドレス・ラブ』が大ヒット世界中が美少女ぶりに注目した。ブルックは80年代を代表するスターとなった。
![エンドレス・ラブ ニューマスター版 [Blu-ray]
ジェイド:ブルック・シールズ (出演), デヴィッド:マーティン・ヒューイット (出演), & 1 その他 形式: Blu-ray](/assets/loading-white-036a89e74d12e2370818d8c3c529c859a6fee8fc9cdb71ed2771bae412866e0b.png)
Diana Ross & Lionel Richie Endless Love 1981 - YouTube
1980年には、史上最年少の14歳の若さで誌ファッション誌『ヴォーグ』の表紙を飾り、15歳になると「カルバン・クライン」のジーンズのCMに起用された。TVCMで「私とカルバンの間を邪魔するものなんてないわ」というキャッチコピーを囁き、下着をつけていないかのように見えることでセンセーションを巻き起こした。このCMは米TV局ABCやCBSなどにより、放送禁止になった。
1980 Calvin Klein Jeans Commercial feat. Brooke Shields - YouTube
母親との関係・ステージママだったテリーのアルコール依存症
ブルック・シールズと母親の関係は、ステージママという点では18歳の時にふんどし姿を披露して注目を浴びた宮沢リエの母親、通称りえママと交差する。リエの母は常に付添い娘の体調が不調のときは海外移住までして支え女優としての再起を果たした。
いっぽうブルックの母は、現在では児童虐待にな11歳のブルックがヌードになり娼婦を演じることを同意。テリーは、ブルックの仕事現場には常に同行していたもののアルコールの問題を抱えており、娘を家において酒場へ飲みに行くこともあったという。現在アメリカでは一般的に13歳未満の子どもを一人で留守番させることは違法となる。ブルックは29歳の時に母を解雇して大手芸能事務所にマネジメントを依頼した。
母テリーの生涯は飲酒との戦いであり、長い間認知症を患い2012年10月にブルックに見守られながら亡くなった。
ブルック・シールズの交友関係と失恋
ブルック・シールズは、マイケル・ジャクソンと若い頃から交友関係が有り、一緒に出かける二人が目撃された。当時のグラミー賞の授賞式に、マイケルと共に出席する姿がキャッチされている。
「第11回アメリカン・ミュージック・アワード」で撮影されたふたり。
恋愛について、ブルック・シールズは歌手のジョージ・マイケルに夢中だったと告白している。
シカゴでのホテルディナーやパーティ、数回のデートや買い物行ったあとマイケル氏に振られしまったらしい。失恋したブルックは何週間も寝る前に泣いていたという。
2016年に他界したジョージ・マイケルはゲイであったが、80年代のアイドル時代は女性と浮名を流し関係を持っていた。
大学生活と初体験
1983年に名門プリンストン大学に入学したブルック・シールズは学業に専念していた。
同年にモナコを訪れ赤いポロシャツと白のスコート姿で、テニスを楽しむ姿が目撃された。
芸能活動を控えていたブルックは1987年にプリンストン大学を卒業。その後女優業に本復帰を果たした。その後多くの映画やドラマ、舞台などに出演している。
自叙伝『There Was a Little Girl 』 の中で、ブルック・シールズプリンストン大学在学中に同じ大学に通う俳優ディーン・ケインと恋に落ち22歳で初体験をした。「彼が初めての相手だった」と処女喪失を告白した。
ブルック・シールズ結婚と子供
アンドレ・アガシと交際、結婚、離婚
1993年にプロテニス選手のアンドレ・アガシ交際を始めて1997年4月19日に結婚したが、残念ながら1999年4月9日に離婚した。
アガシは、当時「覚醒剤中毒」であったと告白している。まだガールフレンドだったブルック・シールズがフレンズの撮影でゲスト出演していたブルックがマット・ルブランクが演じるジョーイの指をなめるシーンを見たアガシが激昂。
嫉妬に狂ったアガシは彼が獲得したウィンブルドンカップと持っていたすべてのテニストロフィーを壊してしまったとか。その後、離婚した二人はお互いに結婚は間違いだったと回想している。
2001年に脚本家のクリス・ヘンチーと再婚。
その前に1999年に2人目の妻で女優のマーラ・メイプルズと離婚したトランプ元大統領がブルック・シールズを誘ったことを暴露。彼女は恋人がいたため、トランプ氏の申し出を断ったそうだ。
再婚したブルックは2003年に長女のローワンを出産するが、2005年に産後うつ病と診断される。投薬を受けるが、抗うつ薬を服用していることをトム・クルーズに批判され「ビタミンと運動」でうつ病を克服して、2006年には次女グライアーを出産した。
現在のブルック・シールズは、生命保険関係のLife Happensのスポークスパーソンを勤める傍ら母として、妻として充実した日々を送っているようだ。
80年代と90年代に最も美しい女性としてその名を馳せたブルック・シールズは、アメリカの恋人としても知られている。1歳になる前から世間の注目を集め、ヌードなどの仕事をこなしお金を稼いできた。母親がアルコールに依存して行くなかでも、他のセレブとは異なりドラッグに溺れていない。離婚再婚うつ病を体験した56歳のブルックは未来に向かい今も進化し続けている。

ブルック・シールズ
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