渡哲也さんと吉永小百合さんは、1966年公開の映画『愛と死の記録』で意気投合し、続いて共演した1967年公開の映画『青春の海』の時には、すでに交際し、順調に交際が続いた1969年公開の映画『嵐の勇者たち』の共演のころには、結婚を考えるほどの真剣交際に発展していたということです。
このころの二人の交際エピソードとして有名なのが、すでに渡哲也さんは親しい仲間の中では、吉永小百合さんのことを『うちのカミさん』と呼び、芸能界では広く「公然の秘密」という感じだったそうです。
渡哲也さんは、すでに実家に吉永小百合さんを紹介していたといわれています。ただ、渡哲也さんの希望としては、結婚後は吉永小百合さんに芸能界引退を望み、家庭に入ってほしかったということです。
もうここまでくれば、多くの人が大物俳優同士の二人の結婚に期待を寄せていたのではないでしょうか。
実際には、渡哲也さんと吉永小百合さんは、結婚することはなく、破局を迎え、その後はそれぞれ別の方と結婚をしています。
二人が別れた理由とは、何だったのでしょうか。
渡哲也と吉永小百合が別れた理由
渡哲也さんと吉永小百合さんが交際していたとき、吉永小百合さんは、大スターとして、家族を支える立場にありました。
そして、父親が吉永小百合さんのマネージャーも務めています。マネージャーであった父親は、交際は認めるものの、結婚には大反対。
母親は「結婚したら相手を絶対に許さない」とまで言うほど大反対だったといわれています。やはり、ここまで反対には、渡哲也が結婚後は家庭に入ってほしいと願ったことも関係しているのではないでしょうか。
芸能界から引退してしまうと、一家の大黒柱として稼いでいた吉永小百合さんの収入がなくなり、吉永小百合さんの実家はそれを望まなかったということが結婚反対の理由だということです。
吉永小百合が「あなたとは結婚できません」と告げた別れ
1966年に出会い、交際に発展した渡地哲也さんと吉永小百合さんは、1969年の暮れに破局してしまいます。両親を説得できなかった吉永小百合さんが「あなたとは結婚できません」と、渡哲也さんに伝えたといわれています。
吉永小百合さんは傷心旅行でパリへ旅立ったそうです。
大活躍している芸能界で結婚というのは、所属事務所が反対するということがあると思いましたが、親がかかわってくるとなかなか難しい問題になりますね。
それでも結婚に進まなかったのは最終的に吉永小百合さんが、渡哲也さんよりも両親をとったということになります。親の反対を押し切ってとまではいかなかった様ですね。
渡哲也、吉永小百合のそれぞれの結婚
1969年に破局した渡地哲也さんと吉永小百合さんですが、お二人はその後、それぞれ別の方と結婚しています。
先に1971年渡哲也さんが青山学院大学の1年後輩だった俊子さんと結婚し、吉永小百合さんは1973年に15歳年上の当時テレビディレクターだった岡田太郎さんと
渡哲也と吉永小百合の共演作品
渡哲也と吉永小百合の相思相愛ぶり
渡哲也さんの最後の願い叶わず
もし渡哲也さんと吉永小百合さんの最後の映画の共演が実現していたら、きっと大人の大恋愛、純愛、本当の男女の愛がテーマになっていたのではないかと、個人的に思ってしまいます。
なにより、ファンは二人の公私ともに素敵な人生を、または素敵な関りを持ったお二人をスクリーンの中で、もう一度、映してほしかったという思いもあります。
 
     
     
          




