50年前に市川崑監督の子を中絶した、有馬稲子
2010年4月に女優の有馬稲子さんが「私の履歴書」で、50年以上まえの市川崑監督との不倫と中絶を告白した。
2017年放送のドラマ『やすらぎの郷』で、シャンソン歌手の役を演じた有馬稲子は、宝塚歌劇団出身。1951年に映画デビューした。
1953年、映画『愛人』に出演した、21歳の時に17歳年上の市川監督と出会い不倫関係は7年間続いた。市川崑には、1948年に結婚した妻の和田夏十がいた。

1961年に有馬稲子は不倫を精算し、故萬屋錦之介と結婚。1965年に離婚、子供はいない。
有馬さんは、市川との子供を堕胎したことで妊娠できなくなったと語り、今も映画監督としては尊敬するものの市川崑の人間性に怒りを感じている。
市川崑監督は、2008年92歳で亡くなった。
AVデビューそして妊娠、中絶していた。飯島愛
飯島愛さんは、1992年にAVデビュー、「Tバックの女王」としてブレイクした後、タレントに転身した。2000年10月、飯島愛は、28歳の誕生日に自伝的エッセイ『プラトニック・セックス』出版。AVAデビュー後の1992年6月ににつきあっていた、恋人との子を妊娠、中絶していたことを告白した。若いふたりは愛し合っていたが、すれ違うの生活の中で別れ訪れる。
飯島愛の成功の陰に妊娠中絶、恋人との別れがある。悲しい。
飯島は、人気絶頂だった時期に中絶の体験や美容整形、豊胸手術してAVに出演したことを公表した。

2007年3月31日に飯島さんは、芸能界を引退。
2008年12月17日頃、自宅マンションで死去。遺体は、死の1週間後に発見された。
飯島愛は、36歳の若さで亡くなった。
今となっては、飯島がなぜ、中絶を告白したのか。
そして、何を伝えたかったのか。
答えは見つからない。
不倫、妊娠、中絶した、夏目雅子
女優の夏目雅子は、1976年にデビュー。1977年にカネボウ化粧品のCMでブレイクした。
当時CMディレクターだった伊集院静氏と不倫関係になる。1984年に26歳で、作家の伊集院氏と結婚。1985年2月に急性骨髄性白血病と診断され、9月11日に27歳の若さで亡くなった。

2006年に実母の小達スエさんが、「ふたりの「雅子」母だから語れる夏目雅子の27年」を発表。夏目雅子が、伊集院静の子供を妊娠。堕胎したことが綴られていた。
「子供はいらない」という、伊集院の考えのもと中絶した。
高倉健の子供を中絶した、江利チエミ
江利チエミは、1952年にデビュー。美空ひばり、雪村いづみとともに「3人娘」と呼ばれていた。1965年から1967年にTBS系列で放映されたドラマ「サザエさん」では、主役を演じ、1966年1月7日放送で瞬間最高視聴率37.1%を記録した。
高倉健は、まだ無名の役者で、大学生のころから江利チエミのファンだった。
ふたりは1956年の映画「恐怖の空中殺人」の共演で出会い、高倉健が28歳の誕生日となる1959年2月16日に結婚した。江利チエミは22歳だった。
江利の親族にまつわるトラブルが原因で、結婚13年目の1971年9月3日に離婚した。
1962年、結婚3年目に江利チエミは妊娠、妊娠高血圧症が発覚した。仕事を優先させるために中絶した。

1982年2月、江利チエミは45歳の若さで亡くなった。
チエミの墓のある法徳寺は、世田谷の高倉家の近い。毎年、命日前後に高倉健が訪れ、花を手向けているという。不器用な、健さんがが愛した唯一女性だったのだろう。
そして、2014年11月10日に高倉健が亡くなり、高倉が入るはずだった鎌倉霊園の墓地の墓石と水子地蔵が養女により撤去された。
あの時の健さんとの子供が、生まれていたら、現在60歳。
それにしても、若い頃の高倉健が甘いマスクだったことにびっくりした。
森進一との子供を中絶した、大原麗子
2009年8月6日に東京・世田谷区内の自宅で遺体となって発見された、女優の大原麗子さん不整脈による脳内出血で死去。死後3日経過しており「孤独死」と言われた。
それから、10年後。
2019年06月20日放送のフジテレビ系番組『直撃!シンソウ坂上』内で、女優・大原麗子さんが歌手・森進一さんと婚姻中に妊娠、中絶していたことが報じられた。
大原の実弟・大原政光氏の証言によると森と結婚した2年後、大原さんは、妊娠した。このまま、お腹が大きくなると撮り直しになる。女優業への支障を心配し、堕胎した。中絶したことは大原が「姉」と慕っていた親友の浅丘ルリ子さえ知らなかった。
子供を欲しがっていた夫の森進一は、中絶の事実を知っているのだろうか?
1973年9月に当時大人気だった女優・大原麗子は、歌手の森進一と結婚。
1984年、結婚4年半で離婚した。

大原麗子は、離婚会見で、その理由を「家の中に男が2人いた」と言い、話題になった。
実際婚姻中の大原は、それまでの映画からテレビドラマへの出演にシフトしていた時期であり、森も「冬のリビエラ」がヒットし、新境地を切り開いていた。
森は、後日「男が2人いるわけがない」と発言していたが。歌手・森進一と女優・大原麗子。芸能人であるふたりは、家庭の中でも、お互いの絶頂期をめざし、せめぎ合っていたことであろう。出産、子育てどころではなかったのかもしれない。
大原と森との出会いは明らかにされていない。昔からの知り合いということだが、二人の接点は同時期に渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属していたこと。森進一は、デビュー当時の1965年から、1979年までナベプロに所属していた。大原麗子も、1971年に東映との契約が切れた歳にナベプロに移籍していた。

大原麗子は、森進一とは、再婚。1970年に公開された主演映画『三匹の牝蜂』で下積み役者だった渡瀬恒彦と知り合い、1973年に結婚。この時に大原は、妊娠するが、子宮外妊娠だったため、やむを得ず中絶手術を受けている。それから、仕事柄すれ違うことが多くなり5年後に離婚した。
大原さんの孤独死が報道されたとき。ネットの掲示板では、「子供を生んでおけばよかった」「離婚しても、もし、子供がいたら…」などの意見が飛び交った。
それは、精神的に不安定になった彼女の晩年、不安を抱えて生きた大原さんの孤独を思い量る言葉だったと思う。
阪神内野手の子供を3回中絶した、島倉千代子
島倉千代子さんは、1955年に歌手デビュー。約60年に渡る芸能生活で、約2,000曲の楽曲を発表している。2013年11月8日に肝臓がんで亡くなった(享年75)。
島倉千代子は生涯で、一度だけ結婚したことがある。相手は野球選手の藤本勝巳さん。
藤本勝巳は、阪神の内野手、4番打者で、背番号は5だった。
島倉をテレビで見て気に入った藤本が、電話番号を入手、ファンとして電話をかけたことが始まりだった。1962年10月25日、阪神藤本勝巳内野手が、歌手の島倉千代子との婚約を発表。東京・新橋の第一ホテル新館で記者会見が開かれた。1963年12月、島倉は家族の反対を押しきり結婚した。
1967年ごろから、藤本の事業のために島倉は借金をかかえるようになり、1968年に島倉は藤本と協議離婚した。

5年の結婚期間中に島倉は、子供を持つことを希望していたのか、何度も妊娠した。
しかし願いは、叶わず、3回中絶した。
島倉の姉の息子によると家の仏壇には水子の位牌を3つ置かれていたと言う。
中絶した3人の水子に“忍”と名付け、供養した。そして、小さな水子地蔵をいつも持ち歩いていた。
島倉千代子は、生前、東京北品川にある東海寺の大山墓地に墓を建てた。
墓石の正面には「こころ」とが記されており、その横に戒名「寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし)」とある。
背面に「島倉千代子」の俗名と「島倉忍」と3人の水子の名前が記されている。
島倉千代子さんが結婚していたのは1960年代。3年間に紅白歌合戦や歌番組に出演。70枚以上のシングルレコードを発売。B面を含めると約150曲のレコーディングしている。
昭和の時代は、売れっ子歌手の彼女が出産することは難しかったと思われる。
昭和の歌姫、島倉千代子さんの3人の水子は、もし生まれていば、現在はアラ還。
2世代下の平成の歌姫、安室奈美恵さんは、人気絶用であった時期に妊娠。1年間の産休を取り、1998年、21歳で出産後、復帰。2018年9月16日、40歳で引退した
有田焼 お地蔵様
中絶の実態 「胎児に申し訳ない」 受ける女性の思い:朝日新聞デジタル