Thinking 野球
1988年11月1日、兵庫県伊丹市出身。
小学校1年生のとき、校庭で野球をする上級生に目が釘づけになり、軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」に入った。
「野球をやりたいといい始めて・・・
あまり体も強くなかったし体も鍛えられて友達もできていいかなという感じで・・・」
(父:田中博)
練習は1日も休まず通った。
よいプレーをするとニコニコ笑って、ますます野球に夢中になっていった。
「一に野球、二に野球。
野球ばっかりやったもんね。
野球の話がまずあって、勉強ももうちょっとがんばりよくらい・・・」
(母:田中和美)
右投げ右打ち。
ポジションはキャッチャー。
小学2年で2塁への盗塁をさすほど肩が強かった。
打順は4番。
本塁打を連発し、何度も校舎の窓を直撃しかけた。
6年生で県大会で準優勝。
とにかく野球。
田中将大は野球が大好きだった。
「これだけは変えられない。
これだけはずっと持っていないといけないというものを大事に。
ブレてはいけない。
絶対に軸がないとダメです」
中学になるとボーイズリーグの宝塚ボーイズに入団し硬式野球を始めた。
奥村幸治監督は20代の頃、3年間、バッティングピッチャーとしてプロ野球の世界を経験した。
そして自分のバッティングについて考え続けるイチローをみた。
「イチロー選手は、毎日、野球をやりながらどうしたら野球が上達する考え方ができるかということを求め続けているんです。
こういう考え方でやれば自分の技術は絶対よくなるよねっていうことを常に求めているので、それはすごく勉強になりました」
(奥村幸治)
そして超一流の選手が持つ高い意識や考え方を子供たちに伝えようとした。
練習で同じミスを繰り返すと声を荒げ、その場で子供たちに話し合わせた。
子供たちは輪になって意見をいい合ったが、田中将大も率先して発言した。
キャッチャーだった田中将大は守備練習で奥村幸治の隣にいることが多く、何かあると監督がいう前に指示を出した。
「僕が指示する前に将大がいうんです。
もう『監督にいわれるな』っていう意識が強かったと思います。
私にいわれて嫌な雰囲気になるのが嫌いだったと思うんですよ。
やっぱり自分たちでいい雰囲気をつくって自分たちでいろんなことを考えてやろうとしていたと思います」
(奥村幸治)
また田中将大は強肩を買われキャッチャーだけでなくピッチャーも兼任するようになった。
そして3年生のとき関西南選抜チームに選出された。
田中将大かハンカチ王子か
駒澤大学附属苫小牧高校に進学。
「高校に進学するとき北海道にいくことには何の迷いもありませんでした。
どこで野球をしたいかということだけを考え自分で選んで進んだ道です」
1年生の秋、明治神宮野球大会1回戦の新田高戦ではキャッチャーとして、準々決勝の羽黒高校戦ではピッチャーで出場。
チームは準々決勝で敗退した。
2年生の夏の甲子園では25回2/3を投げ優勝。
決勝戦の最後の1球は150㎞/hのストレートだった。
チームは2連覇を果たした。
3年生が引退後、エースで主将となり、秋季北海道大会では5試合中4試合で本塁打を放ち、決勝戦は13点差のブッチギリで優勝。
明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出し優勝。
春の甲子園でも優勝候補に挙げられたが、部員の不祥事により出場辞退となった
駒澤大学附属苫小牧高校にとって第88回高校野球選手権大会は夏の甲子園3連覇がかかっていた。
そして決勝戦で、ハンカチ王子:斎藤佑樹を擁する早稲田実業高等学校と対戦。
田中将大は3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。
両チーム8回に1点ずつ取り合い、その後は共に得点することができず、延長15回で大会規定により引き分け再試合となった。
斎藤佑樹は、西東京大会決勝で日大三を相手に延長11回を投げ、5対4でサヨナラ勝ち。
甲子園初日第2試合、鶴崎工(大分)との1回戦では9回でマウンドを譲ったが、2番手ピッチャーが1アウトも取れず、再登板し13対1。
「西東京大会の決勝が7月30日。
その1週間後に開幕日の試合だったので、正直にいえば回復していなかったですね。
調子は良くなかった」
2回戦で同年の春の選抜で優勝した横浜を11対6で圧勝した大阪桐蔭と対戦。
大阪桐蔭の4番、2年生の中田翔は、その試合でバックスクリーン左に特大の1発を見舞った。
しかし斎藤佑樹は中田翔から3奪三振。
チームも11対2で大勝した。
ポケットから青いハンカチを取り出して汗を拭い、涼しい顔で強敵をなぎ倒していく王子様に人々は酔いしれた。
「大会中は特に感じなかったんです。
終わってからですね。
大変なことになっているとわかったのは。
人から『ハンカチだ!』って呼ばれるのはイヤなものでしたよ。
人を呼ぶ言葉じゃないでしょ?
『ハンカチ』って。
使わなきゃ良かったと思ったことだってありますよ、そりゃ」
斎藤佑樹が西東京大会から使用していた青いハンカチタオルは、大阪市中央区に本社を置くニシオ株式会社が製造したもので、大きさは2.5㎝×2.5㎝、「GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)」というロゴが入り、定価は400円。
しかしすでの生産が終了しており、ネットオークションでは10000円の値がついた。
また株式市場でハンカチ関連銘柄が買われるなど、「ハンカチ王子」は1種の社会現象となった。
田中将大か斎藤佑樹か。
大(田中将大は188㎝)か小か
剛速球か技巧派か
剛か柔か
自信か謙虚か
庶民派かハンカチ王子か
好みは分かれ、ファンは反目し合ったが、当の本人たちは
「マー君」
「佑ちゃん」
と呼び合っていた。
再試合で斎藤佑樹は先発し無四球13奪三振で被安打6、3失点。
田中将大は1回2アウトで1点を失ってから登板し7回1/3を投げて3失点。
3対4で迎えた9回2アウト、打席に入った田中将大は斎藤佑樹に空振り三振。
1回の1点が勝負の分かれ目になった。
秋ののじぎく兵庫国体で、1回戦の13奪三振、無失点を含め、3試合24イニング無失点。
決勝戦で早稲田実業高等学校と対戦し斎藤佑樹にヒットを打たれ0対1で敗れた。
高校時代の公式戦通算成績は、57試合(329回2/3)35勝3敗。
防御率1.31。
横浜高等学校の松坂大輔を上回る458奪三振。
打者としても13本塁打。
「怪物」「最強エース」などといわれた。
2006年、田中将大はドラフト会議で、北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスから1位目指名を受けた。
そして抽選の結果、楽天ゴールデンイーグルスが交渉権を獲得。
田中将大は東北楽天イーグルスに入団した。
2年前に創設され、2年連続最下位のチームだった。
2年前に誕生し2年連続最下位中の東北楽天ゴールデンイーグルス へ
田中将大がプロになる3年前、プロ野球は球界再編問題に揺れ、近鉄バッファローズが消滅し、東北楽天ゴールデンイーグルスが創設された。
2004年5月、経営難の近鉄にオリックスが話を持ち掛け、合併が進んでいることが発覚するとファン、特に近鉄ファンは猛反対した。
巨人オーナー:渡邉恒雄、西武ライオンズオーナー:堤義明、オリックスオーナー:宮内義彦などは、問題の背景に不景気があり、財政難で苦しむ球団を救済する意味でも
「12球団2リーグ制」
から球団数を1リーグ制で行うという
「8~10チーム1リーグ制」
というプランを提起した。
オリックス・近鉄に続き、西武・ダイエー、西武・ロッテ、中日・ヤクルト、阪神・広島の合併交渉も水面下で進み「第2の合併」と呼ばれた。
プロ野球選手会は、球団数が減ることで選手がリストラされることを懸念し、2リーグ12球団制の維持を望んだ。
この状況に、IT企業:ライブドアのホリエモンこと堀江貴文社長は、近鉄の買収に名乗りを上げた。
しかしオリックスと近鉄は合併。
ライブドアはプロ野球への新規参集、つまり新チームを立ち上げることを目指した。
選手会も、2リーグ12球団制の存続のため新規球団参入を求め、プロ野球機構と数度、交渉したが確約を得ることができなかった。
9月18日、19日、選手会は2日間にわたって日本プロ野球史上初のストライキを決行した。
その後、両者は交渉を重ね、2リーグ12球団制と新規参入で合意。
またライブドアに続き、楽天がプロ野球新規参入を宣言。
認められるのは1チームのみ。
2つのIT企業は露骨に競い合った。
ライブドアは、かねてから近鉄買収に名乗りを上げ、
「近鉄の救世主」
といわれ、その後も楽天よりも1ヶ月近く早く東北地方で球団を設立することを表明し、準備を進め、地元の支持者が多かったが、プロ野球実行委員会は
「健全な経営が行われている」
「資金力が勝っている」
という理由から楽天を選んだ。
こうして新しいプロ野球チームが宮城県仙台市に誕生した。
本拠地は、宮城県仙台市にある楽天生命パーク宮城(楽天生命パーク)
チーム名は、「東北楽天ゴールデンイーグルス」、通称:「楽天イーグルス」、あるいは「東北楽天」
監督は、田尾安志だった。
「イヌワシ(ゴールデンイーグル)は東北6県に生息し、優雅に飛んで、狙った獲物を外さない。
いい名前だと思う。
長いので『楽天イーグルス』と呼んでもらいたい」
(楽天の創業者で社長の三木谷浩史)
11月8日、オリックスバファローズ(近鉄・オリックスの合併後のチーム)と楽天イーグルスで選手分配ドラフトが行われた。
まずオリックスバファローズがプロテクト枠(旧オリックス、旧近鉄から選抜した主力25人)を確保。
次に楽天が、外国人選手、FAを行使した選手、入団2年目までの選手を除く全選手の中から20人を選抜。
次に入団2年目までの選手を加えた全選手の中からオリックスバファローズが20人を選抜。
次に楽天が20人選抜。
このように分配が進んでいき、最後まで指名されずに残った選手はオリックスバファローズとなり、40選手の楽天イーグルス入りが決まった。
プロテクト枠入りを打診されて拒否する近鉄選手もいた。
オリックスバファローズは基本的にその意志を尊重したが、近鉄のエースだった岩隈久志だけは手放そうとしなかった。
11月17日、楽天イーグルスは、初のドラフト会議に参加し、大学、社会人から6選手を指名した。
また山﨑武司、関川浩一、飯田哲也など、自由契約となった選手、他球団からの無償トレードで選手を獲得。
オリックスバファローズに入団拒否していた岩隈久志も、金銭トレードで楽天イーグルスに入った。
1年目
2005年、楽天イーグルスは沖縄県久米島での春季キャンプで本格始動。
2月26日初のオープン戦となる巨人戦を4対3で勝利。
3月26日、開幕戦で千葉ロッテマリーンズと対戦し、岩隈久志が完投し3対1で勝利。
3月27日、ロッテ第2戦で0対26の大差で敗北し、その後4連敗。
4月1日、本拠地初戦となる西武ライオンズ戦で1回、先頭打者の礒部公一がバックスクリーン直撃の球団初ホームランを放ち、16対5で2勝目。
しかしその後、11連敗。
5月、この年から始まったセ・パ交流戦は11勝25敗で最下位。
7月、10勝9敗1分けで球団初の月間勝ち越し。
8月、シーズン2度目の11連敗。
そして最下位が決まった。
9月25日、最終戦終了後、田尾安志監督解任。
38勝97敗1分。
勝率.281。
大差で負ける試合が多く、5位の日本ハムとは25ゲーム差、1位のソフトバンクとは51.5ゲーム差。
「2軍の寄せ集め」
新監督となった野村克也がいうように他球団との戦力差は明らかだった。
2年目
2006年、野村克也監督は、弱者の戦略として「無形の力を養おう!」をスローガンに掲げた。
西武を自由契約となったホセ・フェルナンデス、横浜からセドリック・バワーズ、台湾からは林英傑、元ロッテのリック・ショートを獲得。
リーグ戦開幕直前には、練習グラウンド、室内練習所、合宿所が完成した
3月25日、開幕戦の日本ハム戦は、岩隈が故障のため前年2勝の一場が先発し、開幕から5連敗。
3月31日、福岡ソフトバンクホークス戦で初勝利。
5月、交流戦では、ヤクルトスワローズでのノーヒットノーラン負けを含め17勝19敗で7位。
8月、オリックスに3連勝。
9月23日、開幕から5位以上となることなく2年連続最下位が決定。
47勝85敗4分。
5位のオリックスとは4.5ゲーム差。
前年は25ゲーム差だった。
9月25日、ドラフトで、日本ハム、オリックス、横浜と共に夏の甲子園で準優勝した駒大苫小牧の田中将大を1位指名。
抽選で交渉権を獲得した。
グローブに「気持ち」と刺繍
2007年、プロになった田中将大は春季キャンプに参加。
フリー打撃、紅白戦、オープン戦での登板がすべて雨で中止か延期となり「雨男」といわれた。
プロは最初から試行錯誤だった。
キャンプ初の紅白戦で4本のホームランを打たれた。
打たれた球はすべてストレート。
「プロは甘くない」
洗礼を浴びた。
2007年3月24日、開幕戦の西武戦に岩隈久志が2年ぶりの開幕投手を務めたが敗戦。
25日の第2戦は勝利するが、その後4連敗。
4月18日、田中将大はソフトバンクホークス戦でプロ初登板初先発。
1回2/3を投げ、打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。
チームも4月17日~19日、ソフトバンクに3連勝。
田中将大はプロ4試合目のソフトバンクホークス戦で、9回2失点13奪三振で初勝利初完投。
6月13日、交流戦で田中将大が中日ドラゴンズ戦で初完封勝利。
7月10日、96回2/3でのシーズン100奪三振(江夏豊と並ぶ最速記録)
7月、オールスターに楽天イーグルスから田中将大、松本輝、福盛和男、嶋基宏、高須洋介、山﨑武司など8選手がファン投票で選出された。
野村克也監督は
「オールスターじゃなく、オールスターダストや」
全パリーグ監督のトレイ・ヒルマンは
「ファンのマナー違反だ」
といった。
7月22日、田中将大はオールスター第2戦に先発し自己最速の153km/hを記録しながら2回6失点
8月31日、チームは15勝、田中将大は2桁勝利(高校卒新人として松坂大輔以来)達成。
9月、チームは初の2カ月連続勝ち越し。
9月29日、チームは初めて最下位脱出を決めた。
67勝75敗2分。
勝率.472。
3位のソフトバンクに7.5ゲーム差の4位。
総得点575(リーグ2位タイ)
総失点676(リーグ6位)
打撃陣がチームを牽引したシーズンだった。
山﨑武司は、43本塁打108打点で二冠王。
野村克也監督は、頑張っている選手を何とかしてやりたいという人で、伸び悩む選手を鍛え、戦力に化けさせた。
「2度と野球なんてやるものか」
野球を大嫌いになっていた山崎武司に
「野球を好きになりなさい」
「お前が小学校で野球を始めたときに大好きだったやろ。
日が暮れるまで野球やって楽しかっただろ」
その気持ちでまた臨みなさい」
とアドバイスした。
田中将大は新人王を獲得。
186回1/3(リーグ4位)11勝196奪三振(リーグ2位)。
グローブに「気持ち」と刺繍。
勝負どころやピンチの場面では1段ギアを上げて投げ、雄たけびを上げた。
「スイッチを入れて、ギアでいえば1番高いところに入っていって、フルスロットルでいくって感じです。
スイッチは自然に入るときもあるし自分で意識して入れることもあります」
近年、スポーツやトレーニングを科学的、合理的に考察し、プレーもクールにクレバーに行う選手が多い。
しかし田中将大は気合いを前面に押し出して勝負した。
力と力の勝負を挑む好戦的な姿勢は、王貞治にはすべて直球で勝負した江夏豊とダブる。
とにかく田中将大のプレーはインパクトがあり、何よりみていて気持ちがよく、モチベーションが上げてくれた。
そのポジティブなイメージは同性からも好感度が高く、当然、異性からも「マー君」と呼ばれモテた。
モテる姿をみて嫌いになる同性もいたが・・・・
「スイッチを入れて、ギアでいえば1番高いところに入っていって、フルスロットルでいくって感じです。
スイッチは自然に入るときもあるし自分で意識して入れることもあります」
「大切なのは、ただ熱くなるだけじゃなくて熱くなっている自分をみているもう1人の自分がいること。
闘争心と冷静さのバランスが重要だと思っています」
楽天では野村克也監督が日々、口にするボヤキがも注目された。
「補強も大事だが教育も大事。
選手をどう教育するか。
選手の考え方が変われば取り組みが変わる」
「東北の人というのはお人好しの人が多いからね。
だからまあ長い目でみてやってください」
「愚痴は不満。
ボヤキは理想と現実の差を表現するもの」
「誰か白い紙と筆ペン買うてきてくれ。
何を書く?
辞表」
「王は私のささやき戦術をちゃんと聞いて会話もしてくれたが、長嶋は何をささやいても見当違いの反応が返ってきてさっぱり心が読めなかった」
「人には理想や欲望がある。
しかし現実はうまくいかず歯がゆい思いばかり。
ボヤキは高いところに上ろうとする意欲の変形だ」
「ボヤキは永遠なり」
ボヤキが聞きたくてプロ野球ニュースをみるファンも多かったが、それはファンへの不器用な愛情表現であり、メディア戦略であり、なにより選手へのメッセージだった。
そんな野村克也監督は田中将大を
「マー君、神の子、不思議な子」
「神様、仏様、田中様」
「だってウチのエースだもん」
といった。
真っすぐ
2008年、野村克也監督が掲げたスローガンは「Smart & Spirit 2008 考えて野球せぃ!」
2月、沖縄県久米島でキャンプで田中将大は大声を出しながら先頭を走った。
そして練習に没頭し自分を追い込んでいった
「どうしても1年目だからとか高校出たてだからとかそういうふうにしかみてもらえなかった。
それが自分の中では悔しくて・・・」
「僕たちは挑戦者。
相手に向かっていく」
プロ2年目、19歳の田中将大の目標は、前年をすべてにおいて上回ることだった。
誰もが認める超一流のピッチャーになるために、カギとなるのはストレートだった。
その理由は前年の最も悔しかった試合にあった。
200年9月26日、負ければチームの4位以下が決定する北海道日本ハムファイターズ戦は、ダルビッシュ有と田中将大の投手戦となった。
田中将大は、8回裏までヒット2本、無得点に抑えた。
そして9回裏、1点リード、1アウト、ランナー1塁で、バッターは首位打者の稲葉篤紀。
田中将大は、ストレートに自信がなかったため、スライダー、カットボール、チェンジアップと変化球を重ねた。
そして6球目のスライダーを完璧に合わされライトの頭上を越えるツーベースヒットを打たれ同点にされた。
なお1アウト2塁。
(ストレートは来ない)
バッターは変化球を待った。
フォークボールをヒット。
ランナーは3塁を駆け抜け、ライトからの返球を受けたキャッチャーを避けるように回り込んでホームへスライディング。
プロに入って初めてのサヨナラ負けだった。
大事な試合の勝負所でストレートが投げられなかったこと、何より勝負から逃げてしまったことが悔しかった。
「いい変化球を持っていても真っすぐ(ストレート)がもっとよければ、真っすぐでも勝負できるし(バッターは)その真っすぐを意識するから変化球にも手が出るし・・・
そういった点で僕のストレートはまだまだだと思う・・・
目指すのは、来るとわかっていても弾き返すことができないキレのあるストレート」
すでに150㎞/hを超えていた田中将大のストレートには何が足りないのか?
埼玉西武ライオンズのエース:涌井秀章は2007年の最多勝投手だった。
そのストレートは140㎞/h前後だが、バッターは「速い」を感じる。
スピードガンで測る速度とバッタの感じる速さはまったく別物だった。
涌井秀章は力みのない流れるようなフォームから左足を踏み出し、体重をスムーズに前に移動させる。
ここで強靱な下半身が体重をしっかり受け止め、体が前に流れない。
そして腰を回転させ、ボールを投げるとき腰が打者に正対している。
下半身で蓄えられた力が、上半身、そして肩-腕-手-指と伝達され、ボールが真っすぐ打者に向かって放たれる。
バッターの手前で伸びるようなキレのあるストレートは、多少甘いコースに入って打ち返されることはない。
これに比べ田中将大の投球フォームは、ボールを放す瞬間、腰が打者に向かって正対せず、横に開いていた。
この違いがストレートの質に決定的な差を生んでいた。
「すべては1つ1つの積み重ね。
チャレンジャーらしく攻めます」
ストレートに磨きをかけるため、まず取り組んだのが「下半身づくり」
前年の秋、シーズン終了後から走り込みを始め、このキャンプでも下半身強化を意識したメニューを行った。
2008年2月11日、紅白戦に初登板し2回無失点。
2月17日、2度目の紅白戦も2回無失点に抑えたが、1回表の先頭バッターを三振をとりにいって球が浮いてヒットを打たれた。
夜、チームメイトが外出する中、田中将大は1人部屋に閉じこもった。
なぜ打たれたのか。
足の運び、腰の回転、ボールの握り、理想のストレートを投げるために何が足りないのか。
考え出すと止まらなかった。
「寮の部屋もやっぱり自分1人なんでふと考えてしまうんです。
野球のことを深く・・
どうしたらいいんだとかこうすればいいんだなとか、いろいろ考えますね。
自分1人の時間っていうのは1番考えられるんじゃないかなって思いますね」
田中将大は、あまり他人に相談したり助けを求めたりしなかった。
勝てなかったり結果が出ないときは、悩み、弱くてネガティブな気持ちになり
「どうしよう?」
となるが周りにはいわなかった。
「自分のことなんで・・・
ほんとに細かいところは人にいっても伝わらないと思う。
やっぱり自分で考えて自分で解決するしかないなって思うんです」
また明日もひたむきに投げ、考える。
それだけだった。
3月、キャンプに入って1ヵ月。
その瞬間は突然きた。
全体練習の後、キャッチボールをしていた田中将大は、しきりに手首の動きを確認していた。
なにかこれまでと違う手応えを感じていた。
「なんか真っすぐがつかめそうな感じがあるんです。
だから野球って面白い!!」
翌日、ストレートが走り始めた。
田中将大は笑みをこぼした。
「いいっスね、今の」
キャッチャー:松比良平太のミットは何度も快音を響かせた。
「あの真っすぐはほんと完璧ですね。
多少甘いところに来ても抑えられる威力を感じました。
自分でも納得していたと思うんですよね。
普段はなかなか納得しないですけど」
(松比良平太)
オープン戦では、確かめるようにストレートを投げ、長打を浴びて点は失ったが自信は奪われなかった。
「球自体の勢いが変わってきているんじゃないかと思います」
3月7日、阪神タイガース戦で北京オリンピック予選で日本代表の4番を打った新井貴浩と対戦。
第1打席は、ストレートで追い込んで最後は変化球を投げて見逃し三振。
第2打席、初球、変化球でストライクをとった後の2球目の145㎞/hのストレートをレフトスタンドに運ばれた。
この日の登板は5回までの予定だったが、田中将大は続投を志願。
6回に3度目の対決。
2ストライクまで追い込んだがセンター前に運ばれた。
結局、この試合は6回2失点。
「勝負って逃げてちゃ負けじゃないですか。
やっぱり打たれたら次は抑えないと。
しっかりともう1回勝負しないといけないかなと思ったんです。
6回までいっても、また新井さんに打たれて点を入れられるかもしれないから、5回2失点のほうが数字的によかったかもしれないですけど、勘違いしたまま結果を残してもしょうがないじゃないですか」
野村克也監督は、開幕投手を田中将大に決めた。
3月22日、シーズン開幕。
福岡ソフトバンクの先頭打者:川崎宗則は、前年、田中将大を14打数7安打と打ち込んでいた。
しかし田中将大は初球から最後までストレートで押し切った。
4回、2アウト満塁のピンチでも田中将大はストレートを選択し抑えた。
しかし気負いがあったか、力みから制球が悪く、8回までにすでに134球を投げていた田中将大を野村克也監督は降板させた。
9回裏に逆転サヨナラ3ラン本塁打を打たれた。
3月29日、地元仙台での開幕戦に田中将大が先発。
1回、北海道日本ハムファイターズの3番:稲葉篤紀にストレートをセンター前に弾き返され、続く4番:ターメル・スレッジにもストレートをライトスタンドに運ばれた。
ストレートが走らずキレもなかった。
「打たれてもしょうがない。
次の打者に気持ちを集中する。
負けてもしょうがない。
次の試合に全力を尽くす」
そういう田中将大は攻め方を変え、三振が狙える場面でも変化球を打たせてとるピッチングをした。
やがて回を負うごとに調子が戻ってきてストレートも走り始めた。
7対2とリードして迎えた最終回に3番:稲葉篤紀との4度目の対決。
田中将大はゆっくりをふりかぶり、気持ちを込めたストレートを投げた。
稲葉篤紀はつまらされてライトフライに倒れた。
4番:ターメル・スレッジに対して初球、150㎞/hのストレート。
その後もストレートで押した。
粘るターメル・スレッジに対し6球目もストレート。
打球はファールとなった。
来るとわかっているストレートを前に飛ばすことができない。
そして7球目のスライダーにまったく動けず三振。
田中将大は9回を投げ切り、7対2で勝利した。
耐え抜いた末にストレートで勝負を挑んで勝利をつかんだ。
「野球をみて勇気づけられる人がたくさんいると思う。
希望とか夢とか勇気とか感動とか、いろいろなものを感じとってもらえる選手でありたいです」
チームは開幕から4連敗した後、7連勝し初の単独首位となった。
(2日後には陥落)
5月、交流戦を13勝11敗で初の勝ち越し。
北京オリンピック
7月23日、田中将大は右肩痛で初めて出場選手登録を抹消された。
3日間のノースロー、2日間のキャッチボールを経て、北京オリンピックへの出場を米田純球団代表に直訴した。
20分間の会談後、
「予定通り参加する方向で決まりました」
と特に「予定通り」強調して話した。
8月、田中将大は24名の侍の1人として北京オリンピックに出場。
19歳とチーム最年少だったが3試合7回無失点の力投をみせた。
1984年のロスアンゼルスオリンピック以来、6大会で野球日本代表がメダルを逃したのは1回(2000年シドニー)だけ。
前年北京で行われたプレ大会では星野仙一監督率いる侍ジャパンはチェコ、フランス、中国を下して優勝していた。
しかし予選リーグで
キューバ戦 2対4
韓国戦 3対5
アメリカ戦 2対4
と3敗し4位で通過。
準決勝の相手は、予選リーグ7戦全勝の韓国。
日本は1回に1点、3回に1点と2点リード。
4回に1点返されると、先発の杉内俊哉が川上憲伸と交代。
その後6回に成瀬善久、7回に藤川球児、8回に岩瀬仁紀と継投したが、韓国に7回に1点、8回に4点を入れられた。
また本来のライトではなくレフトで出たGG佐藤(佐藤隆彦)は失点につながる2度のエラー。
侍ジャパンは2対6で負けた。
3位決定戦では、3回表まで4対1でリード。
しかし3回裏、星野仙一監督に
「名誉挽回のチャンスを与える」
といわれたGG佐藤がフライを落球。
その後同点ホームランを打たれる。
5回裏に4点を入れられ、4対8で敗れた。
通算4勝5敗でメダルはなかった。
10月7日、楽天イーグルスは、シーズン最終戦で延長12回サヨナラ勝ちし最下位を脱出。
65勝76敗3分。
5位。
チーム防御率、リーグ3位、
チーム打率、12球団トップ。
岩隈久志が21勝を挙げ、投手3冠王を獲得し、パリーグMVP、沢村賞、ベストナインにも選ばれた。
シーズン終了後、野村克也監督の契約延長が決定。
オフに中日から中村紀洋をFAで獲得。
第2回WBC 日本2連覇
2009年2月、田中将大は第2回WBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表の一員として選ばれ
「まさお」
と呼ばれ可愛がられた。
合宿で松坂大輔、ダルビッシュ有、涌井秀章、田中将大はいつも一緒にいた。
松坂と涌井は6歳差で横浜高校、西武の先輩後輩。
涌井とダルビッシュは同級生。
田中将大はダルビッシュ有を兄貴分を慕っていた。
4人は全員が甲子園の決勝のマウンドを経験していた。
3月5日、中国戦、4対0
3月7日、韓国戦、14対2
3月9日、韓国戦、0対1
3月15日、キューバ戦、6対0
3月17日、韓国戦、1対4
3月18日、キューバ戦、5対0
3月19日、韓国戦、6対2
3月22日、準決勝、アメリカ戦、9対4
3月23日、決勝、韓国戦、5対3
と日本は2大会連続優勝。
松坂大輔が2大会連続MVP。
イチローは決勝戦まで打率.211、本塁打0、打点3と不調だったが原辰徳監督は1番で起用し続けた。
そして韓国との決勝戦。
3対2でリードして迎えた9回裏、ダルビッシュ有が抑えとしてマウンドに上がったが同点にされてしまう。
そして10回表2アウト2、3塁の場面でイチローが登場。
1塁が空いているため敬遠も予想されたが、韓国は勝負。
イチローは粘りに粘って7球目をあの芸術的なバッティングフォームでセンター前ヒット。
10回裏、試合が終わった瞬間、ダルビッシュ有は雄叫びを上げた。
田中将大は、4試合2.1回、防御率.386、1失点の成績に終わった。
2009年、楽天イーグルスのスローガンは 「Smart & Spirit 2009 「氣」~越えろ!~」
3月23日、24日、楽天イーグルスは初めて本拠地でオープン戦を開催。
4月3日、WBC開催に伴いプロ野球が遅れて開幕。
4月14日、22日、29日、田中将大は4試合連続完投勝利、楽天イーグルスは開幕戦から4連勝。
5月、交流戦では6連敗するなど9勝15敗10位。
6月3日、阪神タイガース戦で敗れ、田中将大の開幕からの連勝記録は7でストップ。
7月20日、田中将大はソフトバンク戦で抑えとして登板し155km/hを投げて自己最速を更新。
しかしこの月に打線の軸として期待された中村紀が2軍に落ち、チームは8連敗。
8月27日、田中将大は自己最多となる12勝目。
8月は4試合に登板して4勝0敗、防御率1.44、30奪三振。
チームも、8、9、10月の3カ月間で38勝21敗と盛り返し、リーグ2位、初のクライマックスシリーズ進出、Aクラス入りを決定した。
チーム戦績、77勝66敗1分、勝率.538。
田中将大は15勝6敗、防御率2.33(リーグ3位)
10月17日、ソフトバンクとのクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦で、田中将大は自身初の無四球完投勝利。
ソフトバンクに2連勝した楽天イーグルスは第2ステージ進出した。
日本ハムとの第2ステージ第1戦では、最終回に4点リードを守り切れず逆転サヨナラ負け。
「あれでシリーズ全体の流れが変わってしまった。
4点差の9回で福盛をクローザーに送り込んだらコンコン打たれて満塁や。
勝負球となる最後の1球というところで福盛がキャッチャーのサインに首を振ったのをみて身の毛がよだつというか全身から血がピャーっと引いていった。
『アカン、コイツストレートを投げるつもりや』
スレッジは直球のみのバッターでフォークだけ投げとけば大丈夫なんよ。
それは試合前に確認してたのにピッチャーっていうのは最後はストレートでカッコよく締めたいんやろうね。
案の定ストレート投げてカーンや。
私は野球は頭でするスポーツだと思ってるんだけど、星野(仙一)監督のは精神野球だね。
気合いが足らんとか、投手出身の監督ってどうしてもそうなるんだよ。
ピッチャーは俺の球を打てるもんなら打ってみろという強靭な精神力が第一条件だから精神性を大事にする指揮になるんだよ」
(野村克也)
結局、楽天は1勝4敗でクライマックスシリーズを敗退した。
野村克也監督が契約期間満了で退任。
後任は広島東洋カープ監督のマーティ・ブラウンとなった。
2010年、スローガンは「Smart & Spirit 2010 Eagle Fire!(強い情熱を持って突き進んでいく鷲)」
3月20日、開幕戦のオリックス戦に1対0で敗れ、4連敗。
5月、交流戦は12チーム中5位
7月、チームトップの8勝を挙げていた田中将大が太腿肉離れで戦線離脱。
6月26日、ソフトバンク戦で単独最下位となり、それ以降、浮上することはなかった。
8月、田中将大が復帰するも、29日の西武戦で投球中に違和感を訴え降板。
右大胸筋部分断裂と診断され、以降の試合は欠場した。
9月19日、4年ぶりのリーグ最下位が確定。
62勝79敗3分。
田中将大の11勝、防御率2.50はチームトップ。
しかし奪三振や投球回は最低の成績だった。
楽天イーグルスのホームゲームの平均観客数は前年より1000人近く減った。
マーティ・ブラウン監督は解任され、新監督には星野仙一が就任した。
11月15日、田中将大はタレントの里田まいとの交際を自身のブログで公表。
田中将大は無類のアイドル好きで里田まいやモーニング娘が所属しているハロー!プロジェクトのファンだった。