2020年3月、世界経済はコロナショックに包まれています。
新型肺炎に対する不安はもとより、その影響で停滞を余儀なくされる実態経済、それを織り込みにいく市場経済。
この局面は、ひとりひとりがとにかく頑張るしかありません。目の前が真っ暗になってしまっても、必ず光はあると信じて頑張るしか。
そんな現実からちょっとだけコーヒーブレイク。過去の「○○ショック」という言葉を調べていると「アタリショック」という言葉をみつけることが出来ます。ちょっと目を引くこのアタリショック、そして私たちが大好きなワード「クソゲー」。調べてみましたのでご覧くださいませ。
※世界の市場経済における主だった「○○ショック」
1971年~ ニクソンショック
1973年~ オイルショック
1982年~ アタリショック
1987年~ ブラックマンデー
2001年~ エンロンショック
2005年~ ライブドアショック
2007年~ サブプライムショック
2008年~ リーマンショック
ひときわ目に着く1982年~「アタリショック」
1982年~、アタリショック!!
アタリショックとは1982年、アメリカ合衆国における年末商戦を中心とした家庭用ゲーム機の売上不振「Video game crash of 1983」のことを指します。この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれていますが、パソコンゲーム市場やアメリカ以外のゲーム市場は含まれていません。
家庭用ゲーム機の王者「ファミリーコンピュータ」登場は1983年7月のことで、70年代後半の王者であったアタリ時代がまさに終焉を迎える出来事となりました。
北米における家庭用ゲームの売上高が激減!
1982年には約32億ドルだった北米の家庭用ゲーム市場が1985年には1億ドルと、3年で実に97%も減少してしまったのです。
この3年間で、ゲーム機やホビーパソコンを販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれ、当時のゲーム市場で最大手だったアタリ社も崩壊、分割されることとなりました。
ファミコン以前の家庭用ゲーム機の覇者「Atari VCS」

Atari VCS(1977年)
上記画像のAtari VCS(1977年)は見てわかる通りカセットタイプのゲーム機で、北米の家庭用ゲーム市場を勃興させ崩壊させたと言われています。
Atari VCSの最終的な出荷台数は約1400万台。ファミコン以前に日本で人気を博したカセット型のゲーム機「カセットビジョン」の出荷台数が40~50万台であることと比べても、まさに北米で一世風靡したゲーム機といえるでしょう。
1980年よりキラーソフトとして「スペースインベーダー」「パックマン」「バトルゾーン」などの人気ゲームがアーケードから数多く移植され、人気に火が付きました。
原因は?後にファミコンが成功した「サードパーティ」
ファミコンユーザーだった私たち世代は、任天堂以外のメーカーが次々にファミコンゲーム市場に参入した時代を憶えていますよね。ハドソン、ナムコ、コナミ、エニックスと、様々なゲームメーカーが参入して凌ぎを削ることでファミコン市場はとてつもない隆盛を誇り、また数々のゲームメーカーが飛躍していきました。これらゲームメーカーは「サードパーティ」と呼ばれましたね。
【ファミコン】任天堂、ナムコ、コナミ、バンダイ、カプコン、エニックス、スクウェア…錚々たるゲームメーカーたちのファミコンゲーム参入第一弾を振り返る。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
…が、アタリショックを招いたのは、この「サードパーティ」だったとされています。サードパーティが提供したクソゲーが原因だったと。。。
下記、二人の任天堂社長のコメントにあります。
サードパーティの粗製乱造!クソゲーたちが市場を破壊!!
サードパーティのゲーム開発者はアタリ社の開発者とは違ってゲーム制作の未経験者が多く、非常に質の低いソフト(リアルクソゲー)が市場に溢れ返りました。これら低品質ゲームソフトを、ユーザーは玩具店頭でパッケージをみて選ぶほかなく「買ってガッカリ」のユーザーが溢れかえることとなって家庭用ゲーム市場全体の信用が損なわれていきました。
また悪循環なことに、ゲームが売れず倒産していったゲームメーカーのソフトが在庫処分などで破格の安価で市場に出回り、結果として新作ソフトの正価がバカバカしくみえてしまったこともアタリショックに拍車をかけることとなります。
こうみると、ファミコンのサードパーティ戦略がいかに優秀であったか、と思わざるをえませんね。
アタリ社自身もクソゲーを出してしまう!!
歴代クソゲー1位に選出されたE.T.!アタリは倒産!都市伝説が生まれた! - Middle Edge(ミドルエッジ)
後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる「E.T」は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められたと当時ニューヨーク・タイムズで報道されました。
この場所は後に「ビデオゲームの墓場」と呼ばれ、アタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていましたが、2014年4月に発掘調査が行われ、実在したことが確認されました。。。
1982年のクリスマス商戦、市場崩壊の兆しが…
1982年のクリスマス商戦は、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなっていましたが、前述のようにすでにユーザーの購買意欲は冷え込んでおり12月8日、アタリ社は1982年度の第4半期の業績予測を下方修正します。
これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価は大幅下落。競合他社や関連銘柄も煽りを食って軒並み株価の大暴落を引き起こしました。
この1982年のクリスマスはアタリショックの発端とされています。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではありませんでした。
値下げラッシュの1983年、そしてアタリ社の終焉
1983年には、全米の小売店の多くが不良在庫のゲームソフトを大量に抱えることに。そして小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売していきます。この流れで、在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなりアタリ社も値下げに追随。業界は値下げラッシュに入ってしまいました。
それまで大体30ドルだったソフトの販売価格は一気に5ドルにまで下がり、2ドルで販売されるゲームすら登場します。ファミコンソフトが初期の3800円から4500円に順当に値上げされたことと比べると、なんとも悲惨ですね。
ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されていたものの、やがて買ったソフトがどれもリアルクソゲーという現実に直面し、ゲームから離れていく要因となってしまいました。
販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ちてゲームメーカーの経営は一気に悪化し、特にアタリ社を直撃します。同社の経営は1983年の第2四半期には極端に悪化し、赤字の止まらないアタリ社のコンシューマ部門は1984年に分割、売却されることとなりました。
北米版ファミコン「NES」で市場が復興
海外版ファミコン NES(Nintendo Entertainment System)を知ってますか? - Middle Edge(ミドルエッジ)
なお、本稿ではアタリショックと呼ばれた現象があったことを端的に記したものの、事実関係はもっと複雑に絡み合っている為「クソゲーによってアタリの市場が崩壊した」「アタリの株価が暴落して会社が分割、売却された」と言い切るべきではないとの説もあります。