【小橋建太インタビュー(中編)】でご覧いただいた通り、どんな逆境でも自分を信じて全力ファイトを続けた小橋選手。ファンはその姿に勇気をもらい、そしてまた小橋選手を後押ししました。
【小橋建太インタビュー(中編)】青春の握りこぶし「全力ファイト、自分を信じて」 - Middle Edge(ミドルエッジ)
そして新天地、プロレスリング・ノア。全日本プロレスのど真ん中に辿り着いた小橋選手が選んだ緑色のマットはどのような風景だったのか、絶対王者として君臨したプロレスリング・ノア時代について語っていただきます。
【小橋建太インタビュー(後編)】元祖・絶対王者「幾多の苦難を乗り越えて」をご覧ください。
小橋建太さん
※記事の最後には、小橋さんからのプレゼント情報を掲載します。どうぞお楽しみに。
逆境に次ぐ逆境と戦い抜いた「絶対王者」
ミドルエッジ編集部(ミド編)
2000年6月、プロレス界に激震が走りました。全日本プロレスのエースであり、当時は社長を務めていた三沢選手以下、全日本プロレス所属の大多数の選手たちが退団、そしてプロレスリング・ノア旗揚げ。折しも三冠チャンピオンだった小橋選手は王座を返上し、三沢選手らと動きを共にすることとなりました。当時はどのような思いを抱いていたのでしょう?
「2000年6月の全日本プロレス退団時、僕は三冠チャンピオンでした。もちろん新団体も自分が牽引していかないとならない。そこでプロレスリング・ノアの旗揚げ戦は10月を予定していたため、これを機に長年のダメージが蓄積していた膝の手術に踏み切る予定で入院しました。ところがこの旗揚げ戦は急きょ8月に早まり、僕は抜本的な手術を行うことが出来ずリングでの練習も儘ならないままに旗揚げ戦に臨むこととなったんです。」
「旗揚げ戦は準(秋山選手)と組んで三沢・田上組を撃破。そして翌日、僕は準とのシングルマッチで敗北を喫することとなりました。新団体プロレスリング・ノアの旗揚げ戦を通して流れを掴んだのは三冠チャンピオンだった僕ではなく、旧四天王の3人から準が時代をもぎ取ったんです。」
「たしかに膝は悪かった。でも準に負けて時代に置いて行かれた。そして思ったんです。準は全日本プロレス時代のイメージカラーである青を捨てて、真っ白のコスチュームで旗揚げ戦に臨んだ。僕は全日本プロレス時代のイメージカラーであるオレンジに模様を入れたもの、完全に全日本プロレスを引きずったままだったと。」
オレンジから黒へ、無念の長期欠場
ミド編)
プロレスリング・ノア旗揚げ時のオレンジのコスチュームから早々にイメージカラーを黒に変更したのはこれが原因だったんですね。
「はい、その年の10月にデザイナーの井浦新さんにお願いした新しいコスチュームデザインでイメージカラーをオレンジから黒に変更しました。そして12月、プロレスリング・ノア初のビッグマッチだった有明コロシアムで僕は準に勝つことが出来たのですが…。」
ミド編)
翌年の1月から、膝の手術とリハビリのために395日に及ぶ長期欠場を余儀なくされました。
「有明の翌日から膝が動かなくなったんです。結果、僕は2001年を棒に振って膝の治療に専念することになります。この年はプロレスリング・ノアの看板であるGHCヘビー級王座の初代チャンピオンを決めるトーナメントもありました。闘っているみんなの姿とそこにいない自分、病室から見える夕焼けは心に沁みましたよ。やっと掴めると思った時代をまた掴むことが出来なかったんですから。全日本プロレスの時と同じ、プロレスリング・ノアでの船出もまた逆風でした。」
ミド編)
そんなときでも小橋さんは会場に足を運んでファンと触れ合ったりテレビで試合解説を務めるなど精力的でした。
「絶対に自分を諦めない。チャンスは常に必ずあるのだけれどドン底のときはそれがみえていないだけなんです。もちろん落ち込むときは落ち込みますけれど、そんなときファンの後押しは本当に嬉しかったですね。」
待望の復帰戦、そして「絶対王者」へ
ミド編)
2002年2月、小橋さんは日本武道館で395日ぶりの復帰戦を行います。小橋さんにとって、そしてファンにとっても本当に待望の復帰戦でした。