南沙織
南沙織のデビューは鮮烈でした。それは、「日本におけるアイドルの第1号」だとか、「元祖アイドル」などと言われていることからも伺えます。元祖アイドル、これに関して異論のある方がいらっしゃるかもしれませんが、まぁ、それほど彼女の登場が当時の音楽関係者、及びファンに与えた影響が大きかったというのは事実でしょう。
南沙織
南沙織のキャラクターが素晴らしかったのは勿論ですが、その個性を生かした楽曲がこれまた素晴らしかった。作曲を担当したのは筒美京平。
南沙織が歌った筒美京平作品をご紹介します。
1971年
筒美京平は、小室哲哉や桑田佳祐などを抑え歴代作曲家総売上ランキングで堂々の第1位となっている日本を代表する作曲家です。南沙織に楽曲を提供する前にもいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、堺正章「さらば恋人」など多くのヒット曲を既に量産していました。まさに天才。
そんな筒美京平が手掛けた南沙織のデビュー曲が「17才」です。
17歳
この曲で筒美京平は作・編曲だけでなくピアノも担当しています。で、その筒美京平が「何か歌える曲はある?」と聞いたところ、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」を南沙織は歌って見せたのだそうで、それに感銘を受けてできたのがこの曲「17歳」というわけです。
歌手と同世代のファンが感情移入できる曲を歌ったことで、元祖アイドルとか新しいタイプのアイドル誕生と言われるようです。女性アイドルの在り方の基礎を築いたといっていいでしょう。「17才」は、54万枚の大ヒットとなりました。
10月1日にはセカンド・シングルとなる「潮風のメロディ」が「17才」と同じ作詞: 有馬三恵子、作曲・編曲: 筒美京平によってリリースされています。
ちなみに、同じ日には天地真理が「水色の恋」でレコード・デビューをしています。
1972年
1972年、最初のシングルは2月1日発売の「ともだち」です。オリコンで最高位、第7位。
ともだち
当時のアイドルは季節ごとにシングルを発売していました。つまり年に4枚が基本。で、スゴイなと思うのは、アルバムも負けじと年に2~3枚は発売していたんですね。
南沙織も例外ではありません。1973年に発売したシングルは3枚(冬用のシングルが1月発売のため3枚で、翌年は5枚発売しています)、アルバムも3枚。
で、4枚目のシングル「純潔」ですが、作詞、作曲者共に変わりはありません。変わったのはジャケット撮影のカメラマン。ここで初めて後に結婚することになる篠山紀信が起用されています。まぁ、運命の出会いってヤツでしょうね。
純潔
う~ん、さすが篠山紀信。いい写真撮ってますよねぇ。で、曲の方も素晴らしいです。
9月21日発売の5枚目のシングル「哀愁のページ」は、曲の良さから唯一南沙織がシングル・チャートを気にした曲と言われています。
哀愁のページ
「哀愁のページ」は、オリコン第3位とヒットしましたが、曲の良さもさることながら、驚かされるのはジャケット写真です。秋用のシングルとはいえ、すごく大人っぽくなっていますよね。と、戸惑いつつ1973年へ。
1973年
1973年最初のシングルは1月21日に発売された「早春の港」です。南沙織のファンであることで知られる吉田拓郎がラジオから流れてきたこの曲を聴いて感銘を受け、アンサーソングとして「シンシア」を作ったのだとか。
早春の港
「早春の港」は、1972年12月21日に発売されていたアルバム「早春のハーモニー」に収録されていた「ふるさとのように」という曲が原型です。当時のアイドルのアルバムはカバー曲が多いのですが、無視は出来ませんね。南沙織は、1973年には2枚のアルバムを出しています。
7枚目のシングル「傷つく世代」が、アルバム「傷つく世代」からの先行シングルとして5月1日に発売されています。
傷つく世代
こうした同世代の思いを歌ったことがそれまでのアイドルと一線を画したのでしょう。夏に向かって明るいというか、ロック風味の楽曲です。
7月には何故かいきなりアルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」をシングルで出し、翌月には秋用の曲「色づく街」を連続して発売。
色づく街
南沙織自身が代表曲のひとつと言うほどの素晴らしい曲。彼女にはミディアム・テンポの曲が合っているのかもしれないですね。とてもしっくりきます。
そして1973年最後のシングルは12月5日発売の通算9枚目となる「ひとかけらの純情」です。うん、これもいい曲。
ひとかけらの純情
コーラスから始まり、コーラスと南のヴォーカルの掛け合いで終わるという凝った作りの楽曲です。
ところで、コーラスといえばTHE ALFEEということで、彼らがこの曲をカバーしています。
1974年
3月21日に1974年最初のシングル「バラのかげり(作詞: 有馬三恵子、作曲・編曲: 筒美京平)」を発売したのち、12枚目のシングル「夏の感情」を6月21日に発売。
夏の感情
この曲のバックを務めたのはティン・パン・アレーです。ティン・パン・アレーといえば、細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)、松任谷正隆(キーボード)からなる音楽請負人というかスーパーグループ。なので、音は間違いなし!です。
で、そのティン・パン・アレーがバックを務めているライブアルバム「CYNTHIA IN CONCERT」なるものが存在しています。
CYNTHIA IN CONCERT
この頃の日本のライブ盤は面白いんですよね。楽曲リストを見ると驚きの何でもあり状態。もちろん南沙織も例外ではありません。このアルバムもそうです。節操がないというのか、やりたいことをやるだけさなのか、まさにフリーダム。あっぱれです。
以降、シングルは9月21日発売の「夜霧の街」。
夜霧の街
12月21日には14枚目のシングル「女性 」を発売します。
女性
1974年締めくくりの曲です。が、この曲も含め、この年オリコンチャートをみると徐々に落ちてきています。転換期を迎えつつあったということでしょうね。
だからでしょうか、「女性」ではシングルで初めて編曲を高田弘が担当しています。
1975年
1975年最初となるシングルは4月21日発売の「想い出通り」です。編曲:は萩田光雄へとチェンジされています。
想い出通り
筒美京平でないのは残念ですが、萩田光雄のアレンジも悪くないです。いえ、むしろこれはこれで素晴らしいです。残念と言うなら次のシングル「人恋しくて」でしょうね。ついに作詞: 有馬三恵子、作曲: 筒美京平コンビ以外の楽曲がシングルになります。
人恋しくて
筒美京平に代わって作曲を担当したのは翌年自身が歌って大ヒットさせた「春うらら」の作者として知られることになる田山雅充です。1973年の「ひとかけらの純情」以降はオリコンでベスト10にランクインしていませんでしたから、テコ入れだったのでしょう。結果、それは成功して「人恋しくて」は久々にトップ10入り(最高8位)を果たしています。
次の17枚目のシングル「ひとねむり」では筒美京平が復帰しますが、徐々に離れてゆき、次の筒美京平作品は77年の「ゆれる午後」です。そして1978年に南沙織は引退してしまうのでした。
シングルのA面だけでなく、筒美京平が南沙織に提供した楽曲はどれも素晴らしいものばかりです。まとめて聞くことのできるCDもありますから、この機会に南沙織の、筒美京平の素晴らしさに触れていただけると幸いです。
GOLDEN☆BEST/南沙織 筒美京平を歌う