昭和を代表する名刑事「平塚八兵衛」
皆さんは「平塚八兵衛」という人物をご存知でしょうか?昭和期に活躍した刑事で、世間を震撼させた多くの大事件を担当し「昭和の名刑事」と称された人物です。この記事では、平塚の略歴及び取り扱った数々の事件について書いてみたいと思います。
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交番勤務から「花の捜査一課」へ異動!
平塚八兵衛は1913年、茨城県生まれ。若い頃に誤認逮捕され、そこで暴行を受けたことがきっかけで警察官を志し上京。警視庁に入庁しました。当初は交番勤務であったものの、犯罪の検挙率の高さから頭角を現し、1943年に「花の捜査一課」と呼ばれた刑事部捜査一課に異動。以降、退職まで一貫して捜査一課で活躍を続けました。
こちらは現役時代の平塚。
「落としの八兵衛」の異名で事件解決に尽力!
憧れの捜査一課に配属された平塚ですが、100件を超える殺人事件や日本の犯罪史に名を残す事件を数多く担当し、「落としの八兵衛」「捜査の神様」といった異名を持つ敏腕刑事として、庁内でその名を知らぬ者はいないほどの有名人でした。ここでは彼の携わった事件のうち、代表的なものをご紹介したいと思います。
帝銀事件(1948年)
1948年に発生した帝国銀行(現:三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人「帝銀事件」。平塚は、犯行に使用され事件解決のカギとなる「名刺」を取り扱う“名刺班”の一員として、事件解決に尽力しました。

下山事件(1949年)
1949年に発生した、当時の国鉄総裁・下山定則が失踪し遺体となって発見された「下山事件」。平塚は下山の自宅で聞き込みを行い、夫人から「ひょっとしたら自殺かも」といった証言を得ていたのですが調書にはそれを記載することが出来ず、結局未解決事件となりました。後年、平塚は「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。」と自殺説を主張しています。

吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年)
1963年に発生した「吉展ちゃん誘拐殺人事件」。この事件で平塚は被疑者の小原保に対し、アリバイの徹底的な切り崩しを行うとともに、福島の小原の実家で母親に会った際に「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言われ土下座されたエピソードをそのまま小原の前で再現。こういった努力が実を結び、小原は犯行を自供しました。この件で平塚は一躍有名となり、前述の「落としの八兵衛」の異名が日本全国に轟くこととなりました。

三億円事件(1968年)
吉展ちゃん誘拐殺人事件と並び平塚を有名にしたもう一つの事件と言えば、1968年に発生した「三億円事件」です。平塚はこの事件で捜査主任を務めたのですが、捜査は難航。一方で、平塚のリークがきっかけとなり誤認逮捕(三億円別件逮捕事件と呼ばれる)が発生し、マスコミの実名報道による報道被害が社会問題となりました。

大森勧銀事件(1970年)
1970年に発生した殺人事件「大森勧銀事件」。日本勧業銀行(現:みずほ銀行)大森支店の行員が絞殺された事件で、いったん犯人が逮捕され東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されたものの、その後最高裁で無罪に。事件は迷宮入りとなってしまいました。

1975年に退職。その後は…?
昭和を代表する事件の数々を担当してきた平塚ですが、1975年に退職。退職後は三億円事件に関する書籍「三億円強奪事件 ホシを追いつづけた七年間の捜査メモ」「三億円事件ホシはこんなやつだ」を執筆するなど、1975年に時効を迎えた同事件を退職してなお追い続けていました。そして1979年10月、膵臓癌のため死去。刑事として、事件解決に人生を捧げた66年間の生涯でした。

平塚八兵衛が遺した名言の数々!!
死去から既に40年が経過した平塚ですが、現役時代に数々の名言を遺しています。その代表例として「刑事がホシ(犯人)ではなく、肩のホシ(階級章)を追うようになったらおしまいだ」「俺たちにはよ、100点か0点かしかねえんだよ。80点とか90点とか、そういう中途半端な点数は、俺たち刑事にはねえんだよ」などがあります。現在現役で事件解決に尽力している刑事の方々は、この名言を胸に刻んで仕事をしていることでしょう!

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