私たちの幼少期の思い出には欠かせないのが、数々のアニメーション作品。
漫画とセットでの思い出だったり特撮の思い出、あるいはスポ根のイメージだったり。いまでもアニソン大好きな大人になっていたりと、アニメとの関りは十人十色。そんな日本のアニメーションを形作った「日本初」とされるアニメーション作品たちを見ていきましょう。
なお、かつてのアニメーションにはセル画の他に人形や切り紙、スライドなど様々な技法があるものの、とくに技法にこだわってまとめてはおりませんのでご了承ください。
また、高畑勲監督によれば「鳥獣人物戯画」「信貴山縁起」「伴大納言絵巻」など古の絵巻物にはアニメーション技術の起源をみることが出来るとされていますが、この点についても本稿では省かせていただきます。
事実動いているアニメーションで「日本初」とされているものの数々をご紹介することとします。
1917年、日本初のアニメーション映画
世界では、実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画として1908年、フランスの風刺画家エミール・コールによる「ファンタスマゴリ」という映画が発表されています。以後、アメリカや映画発明国フランスでは線画でのアニメ映画製作が盛んになりました。
日本においては大正時代、外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて天然色活動写真株式会社(天活)が1916年に北澤楽天の弟子・下川凹天を、日活向島撮影所が1917年1月に洋画家の北山清太郎を、同年に小林商会が下川凹天とおなじく楽天の弟子・幸内純一を雇い入れ、それぞれアニメーション映画の研究を開始して日本初を賭けた競争となりました。
なお、北澤楽天は「日本の近代漫画の祖」とされる人物で日本で最初の職業漫画家と言われています。
3社ともに1917年に短篇アニメーション映画を公開
結果、3社がともに1917年に短篇アニメーション映画の公開にこぎつけました。
-凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻…1917年1月:天活
-猿蟹合戦…1917年5月:日活
-塙凹内名刀之巻(なまくら刀)…1917年6月:小林商会
厳密にいえば日本初は下川凹天ですが北山清太郎、幸内純一との差は数か月でそれぞれ独自の技法で製作しているため、この3人をもって「日本アニメーションの創始者」とすることが多いようです。
3作のうち、塙凹内名刀之巻(なまくら刀)はいまなお観ることが出来ます。
以後、数分程度の短編アニメーション映画が製作されるようになりましたが当時の技法は切り絵アニメーションで、セル画が用いられるようになったのは1930年頃のことでした。
太平洋戦時下でのアニメーション作品
戦時下にあっては、戦意高揚を目的とするアニメーション作品の製作が行われました。当時の軍部が提供した潤沢な製作予算は、アニメーション技術の向上に資するものだったとの評価もあるようです。
1942年、日本初の長篇アニメーション映画
政府から国策アニメ映画製作の指示を受けて藝術映画社で製作された「桃太郎の海鷲」。1943年3月25日に公開されたこの作品が日本初の長編アニメーション映画とされています。
監督が瀬尾光世。内容は戦意高揚を意図し、真珠湾攻撃をモデルに桃太郎を隊長とする機動部隊が鬼ヶ島へ「鬼退治(空襲)」を敢行して多大な戦果を挙げるというモノ。当時の子供たちを差す「少国民」を対象にしていますが、随所に平和への願いが暗示されている箇所があります。
内容はともかくとして構図や動きをみてもこれが戦時下に生まれた作品と思うと驚きのクオリティーですが、作品を作る前に瀬尾監督は海軍将校からもらった(日本軍が占領地で接収した)ディズニー映画を鑑賞する機会を持ち、生き生きとしたキャラクターの動きやカラー製作、当時の日本とは比べようもない制作技術の高さに衝撃を受け「これは勝てない」と感じたそうです。
1943年、日本初のフルセルアニメーション
1943年4月15日、松竹動画研究所によって製作・公開された日本初のフルセルアニメーション映画「くもとちゅうりっぷ」。原作は横山美智子の童話集「よい子強い子」(1939年、文昭社)の中の一編で監督は政岡憲三。16分の作品に2万枚の動画枚数をかけた作品で、こちらも戦時下のアニメーションですが「桃太郎の海鷲」のように国威高揚を意図してはいないミュージカル仕立ての作品です。
公開時には監督官庁から、てんとう虫の女の子が白いことから白人、黒いクモを当時で言う南洋の土人と解釈され、大東亜共栄圏を築くために日本が南洋の原住民と友好関係を築く必要があるのに、日本人の味方とすべき南洋の土人を悪役として描き、かわいらしく描いた白人をいじめるという内容とみなされて文部省の推薦を得ることが出来なかったそうです。
漫画家の松本零士はこの作品を見て漫画家を志したそうで、手塚治虫もこの作品を同じ劇場で鑑賞していたそうです。
キャラクターの演技と嵐のシーンの雨の作画とその叙情性から、日本のアニメーション史に名を残す傑作と評されています。
1958年、日本初のカラーアニメーション2作品
戦後しばらくはモノクロのアニメーション時代が続きます。
テレビの普及とともに1953年のフルコマ撮りアニメーション「ほろにが君の魔術師」や1957~59年の「漫画ニュース」(静止画と部分アニメーションの活用)などがありました。
1958年7月14日には、テレビ用に制作された国産初のカラーアニメ作品とされる「もぐらのアバンチュール」が放送。
ただし1958年当時のカラー放送は実験放送期間中であり、また国産のカラーテレビが市販開始されたのは1960年のため、カラーで放送されていたとしてもそれを見た人はかなり限定されているようです。
一方で、アニメーション映画作品としては1956年に発足した東映動画が劇場用アニメ―ション映画の製作を開始し、1958年10月22日に日本初のカラー長編アニメーション映画「白蛇伝」を公開しました。監督は藪下泰司(「演出」名義)。
この経緯には2019年の連続テレビ小説「なつぞら」の内容もシンクロしてきますが、戦時中の長篇アニメーション映画「桃太郎の海鷲」などでは長編アニメーション映画制作のシステムが確立されておらず、スタッフ達はアメリカなどのアニメーション研究からアニメーター養成、アニメ用撮影機材の開発などまで着手しながら2年がかりで作りあげていった作品でした。
この映画の制作に携わったスタッフはその後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていきました。また宮崎駿は、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなったと話しています。
1963年、日本初の本格的連続テレビアニメ「鉄腕アトム」
日本初としては1958年にカラーアニメーション作品も登場したものの、当時の映像業界ではアニメーション制作には長い期間と制作費がかかるというのが常識で、本格的なアニメーション番組を制作するテレビ局は現れず「ポパイ」など海外から輸入されたアニメーション作品が放送されていました。
1961年に虫プロダクションを発足させた手塚治虫は、1963年に日本初の本格的連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作開始しました。
日本のテレビアニメシリーズの祖「鉄腕アトム」
東映動画でアニメーション制作する道があったものの、長編作品をベースとする同社に馴染まなかったことから自らのアニメ制作会社を立ち上げることとなった手塚治虫は、1960年当時のアニメ制作技法とは異なり立絵紙芝居や切り絵アニメーション、古い30年代の部分アニメなどの技法を組み合わせて止め絵、引き絵、口パク、バンクなどを多用、カメラによって絵を動かしセルの動画とはまったく別のより古いアニメーション原理を採用しました。
この時の価格が業界での標準となったため、現在に至るまでアニメ業界は低予算に苦しめられることとなるものの、このときの手塚治虫の考えが、この後に日本で数多くのアニメーション作品が生み出される土壌を整えたといってもよいでしょう。