70年代のボブ・ディラン
60年代に数々の名曲を発表し、音楽界に革命をおこしまくって名声を確立していたボブ・ディランは、60年代後半には既に疲れきっていた。やる気をなくしていたといっていいかもしれない。もうディランは終わったと思われてもしかたのない状態。そんはボブ・ディランだったのですが、結果として70年代にも奇跡を起こすのです。
1970年6月8日、ディランは70年代最初のアルバムにして自身初となる2枚組という大作「セルフ・ポートレイト」をリリースします。
セルフ・ポートレイト
大作には違いありませんが、やる気があるのかないのか分からん出来栄えです。収録曲のほとんどがカバーであり、ディラン自身が描いたジャケットの自画像は味はあるけどヘタということで、当時は多くのファンをガッカリさせました。音楽的にはカントリー路線。コンセプトがあるようなないような内容で、4曲のライブ音源が入っており、ザ・バンドをバックにしているにもかかわらず、やる気を感じない散漫といっていいようなディランがそこにいます。
これじゃイカンと流石に思ったか、4ヶ月後に早くもオリジナルで勝負したアルバム「新しい夜明け」をリリース。
新しい夜明け
ビートルズのジョージ・ハリスンと共作した収録曲の「イフ・ナット・フォー・ユー」はオリビア・ニュートン・ジョンがカヴァーして大ヒットさせています。が、なんか地味なアルバムです。いっそのこと全曲ジョージと共作すれば良かったんじゃないですかねぇ。スランプから抜け出ていない。本調子じゃない。そんな感じです。
自分でもどうしていいのか分からなくなったディランは、3年間沈黙した後、映画に出演(チョイ役)し、その映画のサウンドトラックを制作することに。それが1973年7月13日リリースの「ビリー・ザ・キッド」です。
ビリー・ザ・キッド
このアルバムはサウンドトラックなだけに他のアルバムと同列に評価することは難しい。とはいえ流石ディラン。彼の楽曲の中でもっとも多くのアーティストにカバーされていると言われる「天国への扉」が入っています。
で、ディランは気分転換したかったのか、レコード会社移籍を試みます。が、それは許さんとばかりにディランに無断で「セルフ・ポートレイト」と「新しい夜明け」のアウトテイクを使ってレコード会社が勝手にアルバムをリリースします。それが1973年11月19日リリースの「ディラン」です。
ディラン
このアルバムの出来が悪いかと言うとそうでもないんですね。プレスリーで有名な「好きにならずにいられない」、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドで有名な「スター・ボージャングルズ」。ジョニ・ミッチェルの「ビッグ・イエロー・タクシー」など聴きどころが多いのです。
ここまでがディランの低迷期です。とは言え、70年代前半に発表された4枚のアルバムは全てゴールド・ディスクを獲得しています。低迷期であっても、アメリカ、イギリスでは特に人気が高かったんです。
プラネット・ウェイヴズ
もう曲が書けなくなったんじゃないのかと陰口を叩かれるようになったディランが復活を遂げるのは1974年1月17日リリースの「プラネット・ウェイヴズ」です。晴れてレコード会社を移籍したディランは、60年代に散々一緒にライブしていたザ・バンドとがっぷり組んで誰にも文句を言わせない名盤を作りあげたのでした。
プラネット・ウェイヴズ
ジャケットのイラストはボブ・ディラン画伯によるものでイマイチですが、それをものともしない内容で全米1位を見事獲得!ザ・バンドのバッキングも見事!言うことなしです。
60年代にはディランと言えばザ・バンド、ザ・バンドと言えばディランという蜜月関係だったのですが、意外なことにザ・バンドとの正式なスタジオ・レコーディングはこれが初めてです。憂さを晴らすかのようにそのザ・バンドを伴って8年ぶりのコンサート・ツアーを行い大きな話題を提供しています。
その模様を収録したのが1974年6月20日にリリースされた「偉大なる復活」です。
偉大なる復活
60年代はまだ無名だったザ・バンドは既にヒット曲を放ち人気バンドとなっていましたから、ディランも余裕をかましてばかりもいられなかったのでしょう。このライブ、荒れてます。突っ走るとはまさにこの事でしょう。この荒々しさはロックとしかいいようがありません。少し落ち着けよと言いたくなる程です。
血の轍
すったもんだの末にレコード会社を飛び出し、「プラネット・ウェイヴズ」と「偉大なる復活」という2枚のアルバムを大ヒット(共にゴールド・ディスク獲得)させた後、何食わぬ顔で元のレコード会社に戻って1975年1月17日にリリースしたのが「血の轍」です。