吉田 拓郎
70年代の吉田拓郎(当時:よしだたくろう)は、本当に凄かった!まさに日本の音楽シーンを塗り替えました。ブレイクしたのは1972年1月に発売された「結婚しようよ」で、同時にフォーク・ブームも巻き起こしています。

結婚しようよ
更に「旅の宿」が大ヒットし、その「旅の宿」を収録したアルバム「元気です」が売れに売れました。アルバムが大ヒットすること自体が考えられなかった時代です。今聴き返しても収録曲は名曲揃い。というか70年代の吉田拓郎の楽曲に捨て曲無し!です。
向かうところ敵なしだった70年代の吉田拓郎ですが、80年代はどうだったのでしょう?80年代も今や昔。吉田拓郎も既に70過ぎ。振り返ってみましょう。
1981年 無人島で…。
80年代の吉田拓郎。一発目は1981年4月5日にリリースされたシングル「サマーピープル」から始まります。この曲は資生堂「サマービューティー」のイメージソングとして使われました。
映像にあるように、浅田美代子と1977年に結婚し当時はラブラブ状態ですね。続いて9月5日に通算22枚目となるシングル「サマータイムブルースが聴こえる」をリリース。で、いよいよ80年代最初のアルバム「無人島で…。」が12月1日にリリースされます。

無人島で・・・
「無人島で…。 」は通算12枚目のスタジオ・アルバムです。オリコンでの最高位は10位で、アルバムからシングル・カットはされていません。セールス的には「サマーピープル」と「サマータイムブルースが聴こえる」が入っていたらもっと売れていたのかもしれませんね。
が、80年代初頭と言えばフォークブーム疾うの昔に終わり、時代はテクノポップですからね。吉田拓郎にとっては厳しい時代の幕開けとなったのです。
1982年 唇をかみしめて
1982年にはアルバムをリリースしていません。ただシングルは1982年3月21日に「唇をかみしめて」をだしています。この曲は間違いなく、名曲。心震えます。
素晴らしい楽曲ですし、武田鉄矢の原作・脚本・主演による映画「刑事物語」の主題歌という話題もあったのですが、シングル・ヒットを狙うには地味でしたかねぇ。オリコンで18位という結果に終わっています。
アルバムに収録し、じっくり聴かせた方が良かったと思うのですが、この曲はオリジナル・アルバムには入っとらんのです。
1983年 マラソン
1983年 5月21日にアルバム「マラソン」をリリース。オリコンで最高位4位というスマッシュ・ヒットを記録しました。

マラソン
浅田美代子との結婚はこの年で終わるのですが、吉田拓郎によると1986年に結婚する森下愛子との交際がこの頃から始まったのだそうです。
シングルはアルバムと同時発売された「あいつの部屋には男がいる」。これに例えると拓郎の部屋には女がいたということですね。

あいつの部屋には男がいる
この曲はヒットこそしませんでしたが、風見慎吾に提供した「僕笑っちゃいます」と双子的な曲でPOPで覚えやすい曲です。実は、「僕笑っちゃいます」も1983年5月21日にリリースされてるんですよ。

僕笑っちゃいます
森進一「襟裳岬」、キャンディーズ「やさしい悪魔」、石野真子「狼なんか怖くない」、かまやつひろし「我が良き友よ」、梓みちよ「メランコリー」、中村雅俊「いつか街で会ったなら」などなど70年代には多くの楽曲を提供し大ヒットさせていた吉田拓郎。80年代になってからは目立った楽曲提供がなくなったのですが、「僕笑っちゃいます」は久々の大ヒットとなりました。
聴き比べると面白いですが、まぁ、やっぱり「あいつの部屋には男がいる」の方が普遍性がありますね。詩がイイですもん。
「僕笑っちゃいます」が大ヒットしたことで、なんとなく「あいつの部屋には男がいる」も聴き覚えがあるという錯覚に囚われます。まぁ、それくらいキャチーで楽しく覚えやすい曲ってことですね。良く出来てます。
1983年 情熱
1982年にアルバムを発表しなかったからでしょうか?それとも森下愛子への情熱が創作意欲を掻き立てたのか?1983年はもう1枚、11月5日にアルバムをリリースしています。ラブソングが多く収録された「情熱」がそれです。

情熱
収録曲の「風の時代」では1970年代を振り返っていて、歌詞にはかぐや姫の「神田川」や井上陽水の「心もよう」といった曲名が出てきます。フォークソングは遠い昔ということを改めてしみじみ感じさせられます。
しかし、全体としては森下愛子との恋愛を感じさせる曲が多く、シングルとなった「I'm In Love」も森下愛子に捧げた曲と言われています。

I'm In Love
ヒットしなかったことで、吉田拓郎の隠れた名曲として称える向きもありますが、そうかな?そうでもないんじゃないかな?というのが改めて聴いた率直な感想です。
だって吉田拓郎にはもっと素晴らしい曲が山とありますからね。この程度の曲を名曲とするのはむしろ失礼というものでしょう。
1984年 FOREVER YOUNG
1984年11月21日、15枚目となるオリジナル・アルバム「FOREVER YOUNG」がリリースされました。おそらくアルバムタイトルはボブ・ディランの同名曲(名曲です)からとられたものと思われます。

FOREVER YOUNG
収録曲を見て目を引くのは1曲目の「ペニーレインは行かない」でしょう。1974年にリリースした名盤「今はまだ人生を語らず」の冒頭を飾る名曲中の名曲「ペニーレインでバーボン」を彷彿とさせるこの曲、実際に続編といってもよい内容を持っています。ファンにはたまらんところですね。
そして2曲目の「旧友再会フォーエバーヤング」。この曲は、ソルティー・シュガーの山本コウタローとかぐや姫の山田パンダが1982年に結成したユニット「山本山田」に提供したもののセルフカバーで、自身もシングルとして1984年10月21日にリリースしました。

旧友再会フォーエバーヤング
しかしまぁ、このアルバムで聴くべきは「旧友再会フォーエバーヤング」よりも、「大阪行きは何番ホーム」なのではなかろうかと思います。
まさに拓郎節。拓郎健在を印象付ける曲ですね。派手さはないのでシングル向きではありませんが、しみじみイイ曲だなぁと思えます。
1985年 俺が愛した馬鹿
1985年 4月21日「ふざけんなよ」リリース。吉田拓郎にとって27枚目となるシングルです。この曲は近藤真彦の初主演テレビドラマ「ニッポン親不孝物語」の主題歌でもありました。

ふざけんなよ
「ふざけんなよ」とはまた攻撃的なタイトルですが、オリコンでは最高位39位とプロモーションに力を入れた割にはヒットすることなく、吉田拓郎も思わず「ふざけんなよ」と言ったとか言わなかったとか。
その「ふざけんなよ」を収録したアルバム「俺が愛した馬鹿」は1985年6月5日にリリースされています。

俺が愛した馬鹿
このアルバム、オリコンで11位とまずまずの成功を収めてはいるのですが、おそらく吉田拓郎には迷いがあったのではないかと思われます。悪くはないし、時代の流れということでもあったのでしょうが、「俺が愛した馬鹿」はコンピュータによる打ち込みを前面に出した音作りがなされています。似つかわしくない。いや、むしろ嘆かわしい。70年代からのファンは唇を噛みしめたことでしょう。
また、収録曲の「抱きたい」と「男の交差点 」の作曲を加藤和彦が担当しています。模索していた。何か新しいことがやりたかったのかもしれないですね。
加藤和彦とはライブ活動休止してリリースされた次のアルバム「サマルカンド・ブルー」で思いっきりコラボすることになり、吉田拓郎は80年代後半へ突入していきます。