昭和を代表する俳優・司会者として活躍した高島忠夫さん死去。
昭和を代表する俳優・司会者として著名な高島忠夫さんが、6月26日に老衰のため自宅で死去しました。88歳でした。
第一報はこちらです。
晩年は病魔との闘いでした。
90年代後半よりうつ病、パーキンソン病などの病と闘い、自宅で静養を続けてきた高島さん。妻で女優の寿美花代さんによれば、最期は眠るように息を引き取ったとのことです。なお、葬儀等は既に家族のみの密葬で執り行われており、お別れ会などの催しも現時点では予定していないとのこと。
高島忠夫の役者としての功績を振り返る!
料理番組「ごちそうさま」やクイズ番組「クイズ・ドレミファドン!」などの司会者として、「イエーイ!」のフレーズも懐かしい高島さん。本格的に司会業に携わるようになったのは70年代に入ってからで、60年代以前は俳優として活躍していました。ここでは、俳優としての高島さんにスポットを当ててみたいと思います。

1952年、映画「恋の応援団長」でデビュー。
高島さんの芸能界入りは1951年のこと。新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」の第1期生となり、翌1952年に映画「恋の応援団長」でデビュー。映画出演3作目の「チョイト姐さん思い出柳」では早くも主演を務めました。

「坊ちゃん」シリーズが当たり役に!
新東宝にて、主役級の役者として頭角を現した高島さん。1956年からは富士映画にて「坊ちゃん」シリーズの主演を務め、当たり役に。「坊ちゃんの逆襲(1956年)」「坊ちゃんの主将(1957年)」「坊ちゃん天国(1958年)」など、多数の作品をヒットに導きました。

東宝に移籍後、ミュージカルスターとして活躍を続ける!
新東宝を代表する俳優へと上り詰めた高島さんですが、その後東宝に移籍。東宝では、「キングコング対ゴジラ(1962年)」や“日本製の本格的ミュージカル映画”と呼ばれる「君も出世ができる」などに出演。さらに1963年には、日本初のブロードウェイミュージカル「マイ・フェア・レディ」に出演するなど、ミュージカルスターとしてもその存在感を発揮しました。

テノールの美声で声優もこなす!そして司会業へ。
さらに1968年には、東映動画「アンデルセン物語」に声優として出演。ミュージカルで培ったテノールボイスで観客を魅了しました。その一方で、この時期から映画で脇役を担当することが多くなり、新天地を開拓するため司会業に進出。前述の「ごちそうさま」「クイズ・ドレミファドン!」のみならず、「ゴールデン洋画劇場」での映画解説なども行い、活躍の場を広げました。
三男の高嶋政伸さんによれば、最期は「大好きだったフリオの歌声に包まれて、本当に穏やかに旅立った」という高島さん。彼の出演した様々な作品は、これからも人々の記憶に残り続けていくことでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。
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