板垣 恵介
漫画家
代表作:
『グラップラー刃牙』
『バキ』
『範馬刃牙』
『刃牙道』
『バキ道』
等々
プロレス

1957年4月4日、板垣恵介は北海道釧路市で生まれた。
ジェット機、軍艦、海賊、番長・・・
とにかく強いものが好きで、毎日のようにお絵かきした。
板垣恵介にとって最初の格闘技は、まだ幼稚園に入る前、ニュース番組で放送された「力道山 vs フレッド・ブラッシー」で、その感想は
「なんであんなに汗が出るんだろう?」
だった。
数年後、毎週、金曜日の夜にプロレスが放送され始め、ヒール(悪役)の外国人レスラーをやっつける力道山は敗戦によって外国に対してコンプレックスがあった日本人のヒーローとなった。
板垣恵介もモモヒキをはいて力道山ごっこをやった。

中学2年生のときに地元に国際プロレスの興行があり、板垣恵介は試合が始まる大分前に会場に行った。
そしてジャージ姿のストロング小林に会って、そのデカさに圧倒された。
試合が始まっても、選手の控え室に通じるドアの前から離れず、プロレスラーが通るたびにそのデカさに驚いていた。
ドアが開かれると、控え室の中もみえた。
腕組みをして立っているドン・レオ・ジョナサンは、190cmの長身で顔が壁に隠れていた。
ジョナサンが横へ移動すると、ドアの上に肘をかけたモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)がいた。
230cm236kg。
「The 8th Wonder of the World(世界8番目の不思議)」
「大巨人」
と呼ばれたデカさは別の生物だった。
ただのボディ・プレスが、巨体が相手を押し潰す様が圧巻で「ジャイアント・プレス」という必殺技となった。
ジャンプするプレスと両膝をついて相手に倒れこむプレスがあった。
飛行機でビールを1人で全部飲んでしまい、ワインをケースごと飲み干し、ゆで卵を1度に20個も食べた。
(バケモノ!)
叫びそうになるのをこらえ、板垣恵介はサインをもらいにいった。
するとモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)は、ゴツい顔に笑みを浮かべて応じた。
その指はプッシュタイプでもダイヤルタイプでも電話をかけるときはボールペンを使わなくてはならないくらい太く、パンフレットに万年筆で書かれたサインは力が強すぎてインクが飛び散っていた。
板垣恵介は、想像を絶するプロレスラーのデカさを大きく尊敬した。
またプロレスやプロレスラーは、どれだけファンをつくることができるかということだけでなく、どれだけアンチファンを生み出すことができるかという点も重要なことを知った。
「好こうが嫌おうが、どれだけ多くの人をひきつけられるか。
それが重要」
幻想がリアルだったアントニオ猪木

アンドレ・ザ・ジャイアントの凄みは肉体だった。
しかしアントニオ猪木の凄みは、
「本当に強い」
と思わせたことだった。
「プロレスこそすべての格闘技の頂点である」
といい、その証明のために異種格闘技戦を行った。
柔道のミュンヘンオリンピック金メダリスト:ウイリエム・ルスカをドロップキックからバックドロップ3連発でTKO勝ち。
ボクシングヘビー級チャンピオン:モハメッド・アリとの対戦は、アンバランスなルールに縛られた猪木が苦肉の策としてスライディングキック(アリ・キック)に終始し引き分け。
「世紀の凡戦」といわれた。
アリは左足を負傷して入院し、猪木はこの一戦のために何億という借金を背負い込んだ。
大巨人:アンドレ・ザ・ジャイアントをリバース・スープレックス、一本背負いで投げ、パンチと鉄柱攻撃で額を叩き割ってTKO勝ち。
パキスタンの英雄:アクラム・ペールワンをアウェイで対戦。
アーム・ロックが完全に極まったがアクラムはギブアップしないので猪木は腕を折った。
映画「Rocky」のモデルとなったヘビー級ボクサー:チャック・ウェップナーと対戦。
猪木はオープンフィンガーグローブを着用し、何度かダウンしながらも最後は空を切ったかにみえた延髄斬りがダメージを与え、逆エビ固めでギブアップを奪った。
「熊殺し」で有名な極真空手家:ウィリー・ウイリアムスとの対戦は、プロレス vs 極真空手という険悪なムードの中、殺気立った雰囲気の中で行われたが、猪木がウイリーを腕ひしぎに捕らえたままリング下に転落。
両陣営のセコンドが乱入し、収拾がつかず、ドクター・ストップの引き分けとなった。
板垣恵介はいまでも
「猪木は強かった」
と思っている。

また数々のエピソードを有するアントニオ猪木の一筋縄ではいかない人間性についても
「まっとうな人の住むまっとうな社会のルールでは最低の人間かもしれないけど、やっぱり借金が1円もなくて年収が500万円の人より、10億儲けて20億借金がある人間のほうが魅力的に決まっている」
「それがアントニオ猪木の人間的な強さであり凄みでもある」
と肯定的である。
例えば、アントニオ猪木は、血糖値596の糖尿病にかかったとき、インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反するといい、自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った。
その方法はどんぶり千切りキャベツを主食にし
「氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させる」
と大量の氷を入れた水風呂に入るものだった。
IWGP(InternationalWrestlingGrandPrix)は
「プロレス界世界最強の男を決める」
というテーマで、開幕戦は日本、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、決勝戦はニューヨークという壮大なものだった。
しかし各地区のチャンピオンやプロモーターが協力を渋り、紆余曲折あり、新日本プロレスが2年という時間と莫大な費用を使用して準備してきた。
その第1回IWGP優勝決定戦:アントニオ猪木 vs ハルク・ホーガンは、一進一退だったが、途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ちて上がってこなくなってしまった。
レフリーのMr.高橘はカウントを数え出した。
「バカ野郎、待てよ」
坂口征二がそう叫びながらリングサイドから飛び出し猪木を抱えてリングに入れた。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり、舌を出したままピクリとも動かなかった。
坂口は、舌が巻きついて呼吸困難ならないよう自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。
そして猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった
坂口は病室の外で待った。
翌朝、徹夜明けで病室に入るとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた。
猪木は周囲の目を盗んで夜中にこっそりと抜け出していた。
ホーガン戦の約2カ月後、新日本プロレス内でクーデターが起きた。
クーデター側の主張は
「会社(新日本プロレス)は年間20億円も売り上げがあるのに利益が2000万円しか上がらないのは、社長である猪木が個人事業に回しているせい」
というものだった
その猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった。
1980年に設立され、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった。
当時からブラジル政府は石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けだった。
しかし実際、プロジェクトを進めていくとサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となった。
そこで家畜に飼料として食べさせると下痢を起こした。
バガスを肥料としえて土の中に廃棄すると土質を悪化させ、農作物が取れなくなった。
さらに追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレにより経営は悪化の一途を辿った。
こうしてアントンハイセルは数年で破綻し、その負債は数十億円ともいわれ、テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わりしてもらうがそれだけでは補えず、ついに猪木は新日本プロレスの収入の大半を補てんに回してしまった。
(2005年以降、地球環境問題や原油価格高騰などからサトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は内容が見直され積極的に行われていった)
結局、初代タイガーマスク(佐山聡)、前田日明、長州力など多くの選手が新日本プロレスを去った。
(そして多くは戻った)

1989年6月20日には、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に「スポーツ平和党」を結党し、第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
そして最後の1議席に滑り込み当選し、史上初のプロレスラー国会議員となった。
「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい。
逆十字固め!!」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる」
1989年10月14日、福島県会津若松市で講演中、暴漢に刃物で襲われ左頸部などを負傷。
会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行った。
1990年9月、イラクがクエートに侵攻。
湾岸戦争が危惧される中、サダム・フセイン大統領(イラク)は日本人を含む在留外国人を国外出国禁止とした。
事実上の人質、人間の盾だった。
日本の外務省による人質解放交渉は遅々として進まず、痺れを切らした猪木は決断した。
それはあえて緊張高まるイラクで「スポーツと平和の祭典」を行うため、被害者家族等を率いてバグダッドに向かうというものだった。
外務省はイラク行きを止めたが猪木は拒否。
外務省は被害者家族も止めたが、イラク邦人人質被害者家族「あやめの会」は猪木にすべてを託す事にした。
1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラク行きを要請したが、すべての会社が拒否。
やむなく猪木は、園遊会の会場で駐日トルコ大使に懇願したところ、チャーター機の費用を猪木個人が負担することを条件にトルコ航空の協力でイラク入りが可能となった。
1990年12月1日、猪木は平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダッド入り。
サダム・フセイン大統領は一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えた。
1990年12月2~3日、スポーツと平和の祭典には猪木の趣旨に賛同した各国の選手、ミュージシャンたちも参加した。
初日は、アル・シャープ・スタジアムでサッカー。
ナショナルシアターでロックコンサートと日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント。
2日目は、長州力、マサ斉藤 vs 馳浩、佐々木健介をメインとしたプロレス大会が開催された。
イベントが成功した一方で邦人人質と家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった
猪木と家族たちは落胆の中、帰りの機内についた。
フライト直前、猪木はイラク政府から
「大統領からお話があります」
と告げられ、急遽、飛行機を降りた。
1990年12月3日、イラクの在留邦人の解放が決まった。
1990年12月5日、イラクの在留外国人全員の解放が決定した。
1991年2月、猪木は東京都知事選に出馬表明するも3月に断念。
その後、
「行動派として尊敬していたアントニオ猪木氏が突然、知事選出馬を取りやめたことがきっかけ」
と内田裕也が出馬。
政見放送で、ジョン・レノンの『パワー・トゥー・ザ・ピープル』を歌った。
1993年5月17日、
スポーツ平和党で猪木の公設秘書だった、そして猪木に解雇された佐藤久美子が
「例え返り血を浴びるような結果になっても猪木議員の不正を告発し、その議員生命を断たせたい」
と「週刊現代」誌に
「還付金の不正所得による巧妙な脱税工作の実態と3億円に及ぶ巨額の税金滞納」
という告発を行った。
この記事は5週にわたって取り上げられ、「議員秘書、捨身の告白」という書籍も刊行され
「政治資金規正法違反」
「賄賂」
「脱税工作」
「税金滞納額3億円」
「猪木と佐川(急便会長)&皇民党(右翼団体)の闇のトライアングル」
「選挙応援で1億円の謝礼」
「都知事選出馬撤回を取引に受け取った巨額な佐川マネー」
「右翼(日本皇民党)との癒着問題」
「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」
「猪木議員手作り1000円(成田空港で本を買い「本代1000円借りました 猪木寛至」と書いた紙を渡した)事件」
「旧ソ連でマンモスの牙不正輸入」
などの悪行が暴露された。
1993年6月30日、疑惑まみれの猪木は記者会見を開き、暴露本や週刊誌に出た数多くのスキャンダルを完全否定。
「なぜちゃんと反論しないのか」
と聞かれ
「めんどくせえ!!」
の一言で終わらせた。

刃牙と対戦した猪狩完至は、試合前に
「勝ちを譲っちゃくれんか」
と哀願し涙を浮かべて土下座。
試合開始後はへなちょこキックとへなちょこパンチを繰り出した。
刃牙にフロントネックロックをかけられると、早々にタップ。
勝ったと油断した刃牙に
「イッツッ ショータイムッ」
と金的蹴り。
「誰も聞いちゃいねェんだよ。
俺のギブアップなんて」
と本気のパンチとローキック。
そして刃牙にプロレスをさせて
「気楽なもんだぜ格闘家なんてものはよォ」
「だいたいよォ、技を受けなくてもいいんだからなァお前らは」
という。
プロレスラーは仕掛けられた技からは逃げない。
すべて受け切る。
技を受けるために覚悟を決めて筋肉を硬直させることでダメージに耐え切る。
「故に覚悟の量を見誤ると即座にあの世行き」
だが人間の反射神経をも凌駕する刃牙の速攻に、覚悟する瞬間=筋肉を硬直させるヒマすら与えられれず、勝負アリかと思われたとき、
「お袋ォッ」
突然、刃牙の母:朱沢江珠に似た女性が現れた。
変装した猪狩完至の愛人だった。
一瞬の気をとられたスキに猪狩は必殺のオクトパス・ホールドを極めた。
ジャイアント馬場

ジャイアント馬場は、脳天唐竹割、ココナッツクラッシュ、川津掛け、16文キックなど、209cmの巨体を利用した豪快な技で、NWA世界ヘビー級王座に3度就いた。
「刃牙」の中で、上空からマウント斗羽が落ちてきて頑丈なアメ車(アストロ)を破壊するシーンがあるが、板垣恵介は、ジャイアント馬場の強さを、その頑丈さだと思った。
またそのスローモーな動きは一流の格闘家ではないが、
「立っているだけで絵になる。
そんな男は俳優でも稀である」
と長年修羅場をくぐりぬけ大きな仕事をやってきた人間力の強さを認めている。
板垣恵介は、格闘技とプロレスは別物であることを理解した上で、プロレスラーをみるとき、
「本当にやったら強いんだろうか?」
「あの格闘家とやったらどっちが強いんだろう」
と思ってしまう。
そういう最強幻想という意味でも、アントニオ猪木とジャイアント馬場を超えるプロレスラーはいなかった。
爆弾小僧 ダイナマイト・キッド

また板垣恵介にとってダイナマイトキッドも特別だった。
ダイナマイト・キッド:爆弾小僧は、173cmと小柄ながら圧倒的な筋肉量を誇り、常に全力で相手に攻撃を仕掛け、また全力で相手の攻撃を受け切った。。
その命を削るような闘いぶりは、今も伝説としてファンの記憶に残り、また世界中のレスラーたちに多大なる影響を与えた。
しかし自らの体を顧みない過激すぎるファイトは代償も大きく、引退後は車椅子生活になり、やがて寝たきりの生活を送った。
12歳でレスリングのトレーニングを開始。
神様:カール・ゴッチや人間風車:ビル・ロビンソンを輩出し、マンガ「タイガーマスク」の虎の穴のモデルとなった蛇の穴:ビリー・ライレージムでも修行を積み16歳でプロデビュー。
1979年7月に初来日。
1980年からは新日本プロレスに参戦。
1981年4月23日にタイガーマスクデビュー戦の相手に抜擢され名勝負を展開。
空前のプロレスブームを巻き起こすきっかけをつくった。
古舘伊知郎アナウンサーはタイガーマスクとの抗争を
「肉体の表面張力の限界」
ダイナマイトキッドの妥協なきファイトスタイルを
「全身これ鋭利な刃物!」
「カミソリファイト」
と形容した。
ダイナマイトキッドは、ケガを恐れないことを自らに課すと同時に、それに対戦相手が対応できなければ相手を壊すことも厭わなかった。
だからこそ、一瞬の気の緩みも許されない、緊張感あふれる試合となった。
危険を顧みない激しいファイトの連続はダイナマイトキッドの体を徐々に、そして確実に蝕んでいった。
「俺の身体がパンクする予兆はタイガーマスクとの抗争の頃からすでに始まっていた」
(ダイナマイトキッド)
ダイナマイトキッドの体を蝕んだのは激しすぎるファイトだけではなかった。
その最も大きな要因は、アナボリックステロイド(筋肉増強剤)をはじめとする薬物の乱用だった。
体を大きくするためにステロイドの過剰摂取が始まり、さらに鎮痛剤との併用が日常化してしまった。
その上でハードスケジュールで過激な試合を続けた結果、1986年12月、試合中のアクシデントにより、第4第5椎間板断裂の重傷を負い、戦線離脱。
医師からは引退勧告を受けた。
それでもキッドは、まだ麻痺が残る中、痛み止めを打ちながらリングに復帰。
そしてステロイドを打つことでリングに向かう気持ちを奮い立たせた。
「ケガをしていようが大観衆が俺の名前を叫んでいれば、その期待には何としても応えなければならない。
体が動こうが動くまいがやるしかない」
あまりにも刹那的な生き方だった。
ステロイドはキッドの肉体だけでなく精神をも蝕んだ。
薬の副作用で私生活でも攻撃的な人間になってしまいトラブルを日常化してしまう。
椎間板を断裂して以降は激しい試合ができなくなり、1988年に解雇同然のケンカ別れでWWFを離脱。
その後、ステロイドの副作用による性格の激変に耐えられなくなった妻に見切りをつけられ離婚。
ある日、全日本プロレスのツアーを終えてカナダの自宅に帰ると、もぬけの殻で、テーブルの上には祖国イギリスへの片道航空券だけが残されていた。
キッドはカナダを永久に去り、離婚が成立すると、すべての財産を妻と3人の子供たちに譲り渡した。
体調は悪化の一途を辿り、1991年12月6日、全日本の日本武道館大会で引退を発表。
ダイナマイトキッドは33歳で金と名誉、家族、そして天職であるプロレスを失った。

その後、金を稼ぐために1993年にイギリスで復帰。
1996年10月には日本のみちのくプロレスにも参戦。
そこで初代タイガーマスク:佐山聡と再会。
ダイナマイトキッドの体は痩せこけており、かつての爆弾小僧の面影はどこにもなかった。
このタイガーとの再会マッチを最後にキッドは完全に引退。
プロレス関係者との連絡を一切断ち、姿を消した。
2016年10月、NHKの「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」でタイガーマスクを取り上げられた際、番組はキッドの居場所を突き止めることに成功。
2013年に重い脳卒中にかかり、晩年は介護施設で暮らしていた。
傍らには現在の妻ドットの姿があった。
キッドが引退した翌年、ふたりは出会い結婚。
妻はキッドが有名なプロレスラーだとは知らなかったという。
ダイナマイト・キッドは、たった10年の現役を刃物のように闘い嵐のように去った。
板垣恵介にとってダイナマイトキッドは最強幻想に則った格闘士だった。
「当時のダイナマイトキッドがアルティメットに出たらどうなったか?
何かやってくれたんじゃないか。
いやきっと大物を食ったりしただろう」
「長生きしようなんてまったく考えていなかったんじゃないかな。
「最高のプロレスと自分の人生を引き替えにしたんだよ。
薬物とバンプにまみれた実働時間の濃い人生を選択した男ダイナマイトキッド。
そこにジャック・ハンマーは実在した」
大山培達

小学校の頃、板垣恵介は、少年マガジンで「空手バカ一代」を読み、大山倍達を知った。
「でっかい」
それが大山倍達の最初の印象だった。
その後、すっかりハマってしまい何度も大山倍達の似顔絵を書いた。
「後になっていろいろいわれている牛殺しにしても、角を折ったかどうかは定かではなくても、あの大きな牛を体落しで倒したのは紛れもない事実だからね。
残っている映像はやはり驚きなしにはみられなかったよ。
必死で抵抗している牛に手をかけて足をまたいだかと思うと、そのまま体落し。
力で牛からテイクダウンを奪っているんだ。
できるか、普通、そんなこと」
「ビール瓶割りにしても、手刀でスッパリやるだけでなく、瓶の首を切り飛ばしたその返しの裏拳で瓶の腹を叩き飛ばしたこともあるらしい」
板垣恵介は「空手バカ一代」、そして「大山倍達」「極真」によって格闘技に憧れ、生涯、世界最強を求め続けることになった。
モハメド・アリ
1974年10月30日、板垣恵介が中3のとき、ザイール共和国(現:コンゴ民主共和国)の首都:キンシャサで、WBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ、王者ジョージ・フォアマン vs 挑戦者モハメド・アリ戦が行われた。
試合はアメリカのゴールデンタイムに合わせるために30日の朝4時に開始され、世界60カ国へ衛星中継(世界初)され、日本ではNETテレビ(現:テレビ朝日)で30日の13時から放送された。
(30日、19時30分から再放送)
「なんだ?
プロレスラーと同じくらい大きいじゃないか!」
板垣恵介は、プロレスラーにサイズ的に全然負けていない大男がの全力で打ち合う姿にビックリした。
ファイトマネーは、王者ジョージ・フォアマンと元王者モハメド・アリ共に500万ドル(約15億円)ずつ、総額1000万ドル(約30億円)
支払ったのはザイールで独裁政権を築き、国威掲揚を図ろうとしたモブツ・セセ・セコ大統領。
プロモーターはドン・キング。
モハメド・アリとジョージ・フォアマンは共にアメリカ代表選手としてオリンピックに出場。
アリは1960年のローマ大会のライトヘビー級、フォアマンは1968年のメキシコ大会のヘビー級で金メダルを獲得。
また2人共、プロ転向後、無敗のままヘビー級チャンピオンになった。
モハメド・アリは32歳。
46戦44勝(31KO)2敗。
22歳でヘビー級チャンピオンとなったが、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことで王座を剥奪され、3年7カ月のブランクを余儀なくされた。
1970年に復帰し、王座奪回に挑んだが、ジョー・フレージャーにプロ初ダウンを奪われ初黒星(判定負け)
1973年3月、ケン・ノートンに顎を砕かれて判定負け。
その後、両者との再戦で判定勝ちしジョージ・フォアマンへの挑戦権を得た。
ジョージ・フォアマンは25歳。
40戦40勝((31KO))0敗。
ジョー・フレージャーから6度のダウンを奪い、2RKOしヘビー級チャンピオンとなった。
2度の防衛戦も挑戦者をKOし、ここまで24連続KO。
「象をも倒す」といわれたフォアマンのパンチ力と、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれたアリのスピードの戦いとなった。
両者は1Rから」積極的に打ち合った。
アリは左右に動きまわりながら左ジャブではなく、ノーモーションの右ストレートを顔面に命中させる。
フォアマンもひるむことなく前進し、強烈な左フックをアリに見舞う。
2R、フォアマンがアリをロープ際に追いつめ、連打。
アリはガードを固めて守勢一方になりながら、隙を見てカウンター。
4R、アリの手数が減り、フォアマンの強打が猛威を振るう。
5R、フォアマンはアリをロープ際に釘付けにし大振りのパンチで滅多打ち。
残り30秒、フォアマンの猛攻が止んだところでアリが反撃。
鋭い連打でフォアマンをたじろがせる。
6R、ロープ際の攻防が続く。
フォアマンの疲労が目立ち始め、パンチの手数・威力とも減少。
8R、残り16秒、ニュートラルコーナー付近でフォアマンがバランスを崩し、アリは素早く体を入れ替えロープ際を脱出し、振り向いたフォアマンの顔面に右・左・右・左・右の5連打。
最後の右ストレートが顎を直撃すると、フォアマンは足元をぐらつかせてダウン。
カウント8で立ち上がるが、レフェリーはKOを宣告した
アリは、当初は動きながらジャブを放ち、フォアマンが疲れてきたら攻め込むという作戦を立てていたが、2Rから作戦を変更。
ロープにもたれながら両腕でがっちりガード、ときにリング外にのけぞるようにスウェーして致命的なダメージを回避。
またフォアマンの後頭部を押さえつけるようにクリンチして勢いを削いだ。
この捨て身の戦法はロープ・ア・ドープ (Rope a Dope) と呼ばれた。
フォアマンは強打を繰り返して体力を消耗し、6R以降は動きが緩慢になり、8R、一瞬の連打に倒れた。
アリの劇的な勝利に会場は熱狂し、「キンシャサの奇跡」と呼んだ。

プロレス、大山倍達の極真空手、そしてこの試合をみたことで「ボクシング」という格闘技が板垣恵介の心の中に棲みついた。
モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマン、ヘビー級の3選手が、歴史的な激闘を繰り広げ、最強を争っていた時代だったが、中でも特にモハメド・アリを崇拝した。
ベトナム戦争を反対し、徴兵に応じず、政府や世論を敵に回し、ヘビー級タイトルを剥奪され、試合をすることを禁じられても、自分の信念を貫いた。
そして世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
「この惑星がなくなるまで彼を超えるスポーツマンは現れっこない。
史上ナンバーワンは絶対にモハメド・アリしかない。
ダントツで」
少林寺拳法

板垣恵介は
「組み技系の格闘技は絶対に打撃系格闘技に勝てない」
と信じていた。
しかし近くには極真の道場もボクシングジムもなかったが、高校に入ると新卒の横尾栄二先生によって少林寺拳法部が創設された。
板垣恵介は、マス大山に近づくため、とにかく少しでも強くなるために入部した。
「先生、突きをみせてください」
とリクエストすると、横尾栄二はフッと笑い
「シュバッ」
と直突きを放ってみせた。
板垣恵介は、その鍛え上げられた技に戦慄、興奮した。
(ヨシッ!
この人についていこう!)
以後、熱心に練習に取り組み、横尾栄二の家にも遊びにいって少林寺拳法の始祖で:宗道臣や格闘技の話を聞いた。
宗道臣と大山倍達は、過去に悶着があり、実際に東京の極真会館を多数の少林寺拳法家が囲んだり、他流試合を申し込んだりしたこともあった。
横尾栄二は
「大山倍達はバケモノだ」
と無意味な空手批判はせず、逆に空手家と一緒に練習したりする、開いた人だった。
その強さと技もホンモノで部員を鍛え上げていった。
板垣恵介は、横尾栄二に痛めつけられながら、本物に技に触れることを喜び夢中で稽古した。
そして3年後、2段となり、格闘技を夢みていただけの少年を卒業した。
「横尾先生とは今でも親しくお付き合いさせていただいている。
俺にとって恩師なんだ、一生」
山篭り

板垣恵介は、高校を出て地元で働き始めた。
文房具の問屋で、トラックの助手の仕事だった。
「さすがに高校を卒業する頃には、マス大山は現役から相当離れ、年齢的にも俺の中の世界最強から離れつつあった。
それでも極真っていうものが世界最強の一翼を担っていて、その極真を創った人に対しての信仰心は何ら揺らがなかった」
板垣恵介は、友人と2人で独学で極真の練習を行った。
師は大山倍達。
その著書を読んで真似たオリジナルの稽古だった。
仕事の昼休みも、同僚は寝たが、会社の倉庫でトレーニングをした。
半年後
「人間界でどんなに猛稽古を積んでも人間業で終わってしまう。
人間業を超えるにはどうしても山篭りの修練が必要」
と仕事を1ヶ月休んで山篭りを敢行。
釧路から電車で数十分の山の中の小屋に寝泊りし、ひたすら稽古をした。
食事だけは下山し買いにいったが、それもできるだけ大山倍達が食べたものを真似た。
拳立て伏せ、スクワット、山道をランニング、樹木への打ち込み、試割り・・・・
稽古も食事も何でも真似をした。
だからその山に滝がなかったのは残念だった。
「滝行や滝への蹴り、打ち込みができなかった」
最初の数日は虫除けスプレーを使っても蚊に刺されまくったのに、いつの間にか上半身裸でいても刺されなくなった。
「山が俺を受け入れてくれた」
山篭りを終えた後も強くなる夢と努力は忘れなかった。
いつものように昼休みに会社の倉庫でトレーニングしていると
「なにやってんだ?」
と上司に聞かれた。
「ちょっと体を鍛えてるんです」
「そんな暇があるなら商品を覚えろ」
(!!!!
昼休みだろ?
自由時間だろ?)
(強さを目指して何が悪い!)
板垣恵介は山篭りから1ヵ月くらい経って仕事を辞めた。
「昼休みに腕立て伏せをして評価される世界ってどこだろう?」
自衛隊空挺部隊

板垣恵介は、強くなるために体を鍛えていて文句をいわれない職場を求め、自衛隊に入った。
入隊後、半年間の教育期間を終えて帯広に配属された。
その後、板垣恵介は1番訓練がキツいといわれる空挺部隊への転属希望を出し続けた。
空挺部隊は空から地上へ降下して作戦を展開する部隊で、パラシュート部隊ともいわれる。
世界中の軍隊で、パラシュート部隊は精鋭と呼ばれる。
敵と味方が陣地を奪い合う最前線を輸送機で密かに越えて敵の支配地域の中にパラシュートで降下する。
輸送機から飛び降りるとき、主傘と予備傘が20㎏、小銃や背嚢など個人装具を30㎏をつけている。
1000m以上の高さから飛び出すスカイダイビングと違い、パラシュート部隊の高度設定は敵から発見されるのを防ぐために300m。
333mの東京タワーから50㎏以上の装備を身につけ飛び降りるようなもので、通常の降下訓練でも死傷者が出ることもある。
その着地の衝撃はすごく、長くパラシュート部隊を続けると膝がおかしくなってくるという。
しかし着地はあくまで始まりで、敵の支配地域に降り立ち、少人数軽装歩兵のままで作戦を遂行しなければならない。
兵役があるスイスにおいて、極真空手とK-1で活躍したアンディ・フグも、その身体能力の高さから山岳パラシュート部隊に選ばれた。
強くなりたくて、堂々と体を鍛えたくて自衛隊に入った板垣恵介は、空挺部隊で厳しい訓練を受けたいことを猛アピール。
3ヶ月間の帯広を経て、千葉県習志野の空挺部隊へ移動した。
空挺部隊は、訓練だけでなく規律も厳しかった。
頭髪は全員が五厘刈り。
軍靴は顔がハッキリ映るほどピカピカに磨かされた。
そしてみっちりと厳しい訓練を積まされた。
総重量30kgの小銃や荷物を背負い3日間不眠で富士山麓を100km歩き続ける訓練もあった。
「この訓練が人生で一番キツかった。
どんなことがあってもアレに比べれば大したことはないと人生の糧になった」
ボクシング

入隊9ヵ月後、板垣恵介はボクシング部に入った。
入部2週間後、県民大会にフェザー級(55.338〜57.153kg)で出て1RでKO勝ちした。
次の試合はバンタム級(52.163〜53.524kg)で出場することになった。
毎朝、ダッシュを入れながら4kmのロードワーク。
そして通常の自衛隊の訓練と仕事を終えた後、ボクシング部で練習した。
減量はキツかったが、「あしたのジョー」の影響で、
(この厳しさが俺を強くしている)
と信じた。
そして試合で中根裕二という選手と対戦しKO負け。
「打倒!中根!」
で猛練習し、半年後に再戦。
ストレートで顎を打ち抜かれ、1RKO負けした。
3戦1勝2敗。
2KO負け。
完全に落ち込んだ。
しばらくして北海道の演習から東京へ帰る船の中で上官でもあるボクシングの監督から次の大会に出るようにいわれた。
その大会は2日後だった。
「減量もしていませんし、何の準備もしていません」
「大丈夫だ。
ライト級(58.967〜61.235kg)で出場すれば減量もしなくていいだろ」
その夜から練習を始めたが、練習後には体重がライト級を下回ってしまった。
「練習せんでいい。
食え」
(俺はどんなボクサーだ)
負い目を感じながら食って試合を迎えた。
しかし体調はよかった。
体が元気で、試合が始まると相手のパンチが全然、痛くなく効かなかった。
そしてあれよあれよとトーナメントを勝ち抜き優勝した。
この後もライト級では県内で負けなかった。
レスリング
自衛隊に江藤正基という57kg級の世界チャンピオン1(983年の世界選手権優勝、1984年のロスオリンピック銀メダル)がいて、板垣恵介は
「オレの片脚つかんで倒してみな」
といわれた。
片脚で立つ江藤のもう一方の脚を両腕でつかみ
(倒せる)
と思ったが、江藤の1本足は根が張ったようにまったく動かない。
それどころか首や体の要所要所を押さられ思うように動けない。
そしていつの間にか足をかけられ倒された。
「ちょっと待って。
今のは本気じゃなかった。
もう1回」
もう1度片脚に両腕を巻きつけ、今度は一気に持ち上げようとした。
しかし江藤に首を押さえられると力が入らなかった。
「人が重たいものを持ち上げるときは、まず首を起こし、それから各部位に連動させていく。
だから首をコントロールしたら体全体を支配できる」
そういう江藤の肉体は全身の筋肉が発達し、練習やトレーニングで歯を食いしばるため前歯が薄くなり歯医者に
「これ以上歯を磨いたらダメ」
といわれていた。
板垣恵介は、レスリングは人体の力学を追求したテクノロジーの結集であり、レスラーは人体のメカニズムを知りそれをコントロールする術をマスターした力持ちであることを知った。
だからオリンピックと世界戦手拳で通算12連覇した人類史上最強のレスラー:アレクサンドル・カレリンが前田日明を持ち上げたときは興奮した。
板垣恵介は、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊:第1空挺団に約5年間所属したが、B型肝炎を患い、1982年に除隊、1年近い入院生活を送った。
その後はさまざまな職業を経験した。
UWF

1983年8月11日、初代タイガーマスク(佐山聡)は、突如、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退。
直後、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、あっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
新日本プロレス退団後、
佐山はジャイアント馬場の全日本プロレスから1億とも2億ともいわれているオファーを受けたが断った。
「たとえ新日を辞めたとはいえ猪木に恩を仇で返すことはできない」
1984年、新団体UWF(Universal Wrestling Federation:ユニバーサル・レスリング連盟)が設立された。
UWFの旗揚げ興行ののポスターには
「私はプロレス界に万里の長城を築く」
「すでに数十人のレスラーを確保した」
とも書かれてあり、猪木、タイガーマスク、長州、アンドレ、ホーガン、前田日明らの顔が並んでいた。
前田日明は
「猪木さんが『俺も後から行くから、先に行ってくれ』といわれたので移籍した」
というが、その猪木は新日本プロレスで起こったクーデターを見事に乗り切り、1983年度の長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になっていた。
1984年4月11日、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた。
しかしリングに猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどはおらず、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬ら新日本プロレスのリングではセミファイナル以下のレスラーたちだった。
ときにリングには罵声が飛び、ときに猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった。
こうしてUWFは波瀾の船出となった。
旗揚げ後、しばらくUWFは路線も定まらない状態だったが、藤原喜明が高田延彦を引き連れて参加したあたりから方向が定まり出した
それは道場で行われるスパーリングのような関節技をかけ合う攻防を中心としたサブミッションレスリングだった
1984年7月23日、24日、「UWF無限大記念日」大会に引退していたタイガーマスク(佐山聡)がザ・タイガーとして参戦。
こうしてメンバーがそろってみれば、UWFは皆カール・ゴッチを師事する男たちだった。
UWFは前田、タイガー(佐山)、藤原、高田、木戸修、山崎ら日本人対決を軸に壮絶な試合をした。
ロープワークをしないし、相手の技も簡単に受けない。
従来のプロレスのショー的要素を廃し
「キックが急所にまともに入ったら立っていられない」
「関節技がガッチリ極まれば絶対に逃げられない」
という格闘技色の濃いプロレスリングを展開した。
UWFは熱狂的なファンを生み出した。
こうして一見、UWFは順調にいくかと思われた
しかし佐山の参戦はUWFにとって諸刃の剣だった。
まず佐山は参戦の条件として、一部のフロントの追放を挙げていた。
これにより新間は正式にUWFから身を引き、その後、新日本の裏方に戻った。

また佐山はすでに自分の道場:タイガージムを立ち上げ
(金銭的に他のメンバーに比べ有利な状態だった)
「理想の新格闘技」を模索していた。
それはしっかりしたルールに則った格闘技で、佐山はその格闘技を「シューティング」、その格闘技の選手を「シューター」と呼んだ。
理想に燃える佐山はUWFのルールに口を出した。
そして実際に
「ノーフォールマッチ」
「Aリーグ、Bリーグの2リーグ制」
リーグ戦の戦績から「ランキング導入」
「反則をより明確にする」
「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」
「減点ポイント制を導入しロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」
「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行ってはならない」
など新ルールマッチが実験的に実行されていった。
しかしこれは他の選手にとってフラストレーションだった
彼らにしてみれば苦労を重ね、やっとUWFが認知され始めてファンを獲得し、そこに後からポッと来た佐山が偉そうに次々と新しいことをやれといってくる
決して面白くはないはずである。
「UWFはプロレスではなくシューティングで自分達はシューター」
「自分はカールゴッチより強い」
そういう佐山と一部の選手との間に確執が高まっていた。
1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで前田日明が佐山聡に一方的に喧嘩マッチを仕掛けた。
前田は、ラフな張り手、膝蹴り、グラウンド状態の佐山にキックなど尋常ならざる精神状態で尋常じゃないファイトを仕掛けた。
攻防の中で佐山は前田の蹴りが自分の金的に当たったとアピールしレフェリーは試合を止め、18分57秒、スーパー・タイガーの反則(金的蹴り)勝ちとなった。
前田の蹴りは実際には佐山の下腹部には当たっておらず、佐山がケンカを回避するため一方的に試合を終わらせたものとみられている。
UWFの不協和音が表に噴出した瞬間だった。
(この後佐山聡はUWFへの参戦をキャンセルした)
そして1985年9月11日、UWFは崩壊した。
前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らは業務提携という形で新日本に復帰。
佐山は理想の格闘技「シューティング」(後の修斗)の創設に力を注ぐことになる。
板垣恵介はUWFができたとき、期待をして胸躍らせて会場にいった。
しかし格闘技の凄みは感じることができなかった。
顔面にモロに蹴りが入っていたが、首に力を入れて歯を食いしばって受けているのがわかった。
来ることがわかっている蹴りや掌底をかわさずに受けて返しもしない。
「UWFは擬似格闘技だった」
「プロレスの基本構図に格闘技のいいとこどりをしたUWFのやり方はハッキリいってズルイ」
という。
合気道 塩田剛三

板垣恵介は、高校生の頃から合気道を疑っていた。
複数の大人の道場生が、塩田剛三という小さな老人に襲い掛かると、体の一部を触れられただけで飛んでいく映像をみて
「こんなのほんとうのわけがない。
みんなで達人と呼ばれる老人を過保護にかばっているに過ぎない」
と思っていた。
1984年、出版社に勤めていた27歳の板垣恵介は合気道の道場を取材した。
練習を見学中、うつ伏せの相手の手首と腕の付け根を抑える技があったが
「逃げられる」
と思った。
練習後、板垣恵介は、道場の入っているビルの踊場で、有段者にその技をかけてもらった。
「本気で逃げますから、そのつもりでかけてください」
「はい」
その後、絶叫がビルにこだました。
実際に抑えられると無茶苦茶痛かった。
逃げようと動けば痛みは増し、迂闊に動けなかった。
「これはモンモノかもしれない」
それまで最強探しの旅で蚊帳の外だった合気道に対する考え方が改まった。
そして塩田剛三の道場:養神館(合気道養神館本部道場 〒169-0075 東京都新宿区高田馬場4-17-15-2F)に通い始めた。

塩田剛三は、貧しい人は無料で診察し、金持ちからはガッポリ治療費をとった小児科医の父を持ち、裕福な家庭で何不自由なく育った。
新宿区立四谷第6小学校時代から剣道、柔道を習い、旧制東京府立第六中学校5年時に柔道3段を取得。
18歳のときに植芝盛平の植芝道場を見学。
その稽古を
「インチキじゃないか」
と思いながら眺めていた。
すると植芝盛平に
「そこの方、やりませんか」
といわれ立ち合いとなった。、いきなり前蹴りを放つと、一瞬で壁まで投げ飛ばされた。
「投げられたときに頭をしたたかに打ちましてね。
私より小さなお爺さんに何をされたのかもわからず、閉口してしまったわけです。
その場で手をついて、弟子にして下さいといいましたよ」
こうして約8年間、植芝盛平の下で修行に励んだ。
反射神経を鍛えるため、水槽の中を泳ぐ金魚の動きに合わせて左右に動くという訓練を続け、超人的な反射神経と集中力を体得、視界から消えるとまで評された体捌きを完成させた。
反射神経にまつわる逸話は多く、自動車にはねられそうになった瞬間、無傷でかわしたという証言もある。
拓殖大学では、史上最強の柔道家といわれる木村政彦が2年後輩にいたが、腕相撲で勝った。
1941年から、畑俊六(軍人、元帥、陸軍大将)の秘書として台湾、中国、ボルネオ島など各地に派遣され、各地で勤務の傍ら合気道の指導を行った。
1946年に帰国し、植芝盛平の下で再び修行に打ち込んだ。
同時期、田中清玄(実業家、政治活動家、CIA協力者、フィクサーともいわれる)に誘われて秘書となり、ストライキに悩まされていた日本鋼管に出向し、社員、警備員に合気道を指導した。
1956年、養神館を設立し合気道養神会を結成した。
1961年、植芝盛平より合気道9段(当時の最高位)の免状を受ける。
1962年、養神館を表敬訪問したロバート・ケネディ夫妻の前で演武を行った。
その強さを疑ったロバート・ケネディの申し出で、同行していたボディーガードと手合せを行い、圧倒した。
「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押りさえられた。
その後でボディーガードは 『今朝は食事をしてこなかったものですから』といってはいたが、食事をしてきたら勝てたとはいわなかった」
1990年、全日本養神館合気道連盟、国際養神会合気道連盟を設立し、国内だけでなく海外にも養神館合気道の普及を進めていった。
塩田剛三は1994年に78歳で他界するため、板垣恵介は実物の実技をみれた最後の弟子となった。
実際に手ほどきを受けることはできなかったが、週1回行われる黒帯だけで行われる「黒帯会」を見学し生ける武神の実力を目の当たりにした。
一般の稽古が終わり、黒帯会が始まるまでの30分間、黒帯が集まってくる。
そして正座で整列する。
道場は水を打ったようにシーンを静まり返る。
「タッタッタッタッタッタッ・・・」
板張りの廊下を駆けてくる音がして、姿勢のよい155cm45kgの老人が道場に入り、道場生の前に正座した。
「神前に礼」
「館長に礼」
こうして黒帯会がスタートした。
まず塩田剛三は訓話を行った。
「なぜスピードが出ないか。
それは・・・と・・・のバランスが悪いからだ」
植芝盛平は、合気道の技の理論を宗教用語や古語や難解な言葉を用いて説明したが、塩田剛三は
「中心力」
「スピード」
「タイミング」
などわかりやすい言葉で教えた。
また短期間で基本的な動きを身に付けられるように6種の基本動作と構えを制定した。
そして実技に入ると神技のオンパレードとなった。
数名の黒帯が塩田剛三の手首をとろうとするがビクともしない。
「お前はここの力の入れ具合がなっていないから・・・」
手首をつかんでいる黒帯は、倒れないよう必死にこらえ足の踏み場を探しドタバタし、倒された。
倒れないように手首を掴んでいる手を離したいが、塩田剛三が、その手首を掴んでいる力すらコントロールしてしまうため離せない。
投げられた黒帯は
「重かった」
という。
「痛いと感じさせるようじゃダメだ。
痛くて倒れている状況じゃダメなんだ。
痛くないけどどうしようもないという状況まで持ち込まねば」
そういう塩田剛三は、弾力のある竹の束を横に渡し、これをフルパワー、フルスピードの木刀を振り下ろす練習を行った。
振り下ろした木刀はバウンドさせてはいけない。
跳ね返ってこないように押さえ込む。
竹の跳ね返す力を封じ込める。
また別の組手で塩田剛三は、弟子をパワーではなく相手の力を利用してフワッと浮かせてから、アゴをつかみそのまま頭部を地面に叩きつけた。
その弟子は立ち上がったが、床が波打つように揺れ、視界はグジャグジャで風景がネジ曲がってて立っているのが精一杯だった。
「拳法も空手も全然人を倒すことができない。
その点、俺は、地面を武器にできたよ」
「実戦では当身7分投3分」
といい相手の喉を指1本で突いて悶絶させたり、後ろからタックルしてきた相手に肩をぶつけて吹き飛ばすという当身技を披露した。
「日常、それ即ち武道」
と普段、歩いているときでも一切の隙がなかったといわれているが
「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」
といい、靴を履いて玉砂利の上を歩いて足跡は親指の部分が特に凹んでいた。

弟子に
「合気道で一番強い技はなんですか?」
と聞かれると
「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」
と答えたり、
「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。
そういう人間は自分が最後でいい。
これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」
と武道の意義を説いていたが、あるとき
「私とお手合わせ願えませんか」
と空手家が他流試合を申し込んできたときは
「あ~私と、そうですか。
ハイ、わかりました。
で、いったいいつやりますか?」
とスローに間の抜けた感じで聞き返した。
「今日、この場でお願い・・・・」
答える前に空手家は玄関で倒れた。
人差し指で喉元をえぐっていた。
「いや、若いな」
塩田剛三を知って板垣恵介の「最強」論は、混沌となりカオス化してしまった。
「誰が強いのかわからない。
どういう戦いでその強さを測ればいいのかも・・・」
そして「刃牙」では、柔術家・渋川剛気のモデルとなった。
中国拳法 小金井で4000年の末端に触れる

1985年、出版社に勤めていた板垣恵介は、太気拳の道場が小金井にできたことを知り、取材を申し込んだ。
「取材はお断りしています」
「なんとか練習だけでもみせてもらえませんか?」
「何かやっていたの?」
「はい、少林寺を」
「どれくらい?」
「3年やりました」
「年数じゃない、段位を聞いてるんだよ」
「あっ2段です」
「おお!
他に何か?」
「ボクシングを・・・」
「どれくらいやったの?」
「国体に出たことがあります」
「立ち合いましょう」
「立ち合うんですか?」
「みたってわからなからね。
立ち合わないとわからないよ」
こうして取材許可が下りた。
友人に話すと大笑いされた。
「立ち合って化けの皮を剥がしてやれ」
板垣恵介は、高校生のときにブルース・リーの鍛え抜いた肉体をみてショックを受けた。
しかしブルース・リーの凄さは認めていたが、中国拳法の実戦性には疑問があった。
あんな大きな跳び蹴りが当たるのか?
極真空手やテコンドーの試合で勝てるのか?
しかしブルース・リーが
「俺に勝てると思っているなら誰でも挑戦してくればいい」
といえば信じたくなる。
それくらい中国拳法は幻想を抱かせる何かがあった。

太気拳は、柔道5段、剣道4段、居合道4段だった澤井健一が、1931年に軍の任務で満州(中国)に渡り、北京で中国拳法家:王向斎と立ち合ったことから始まった。
ある日、中国人の友人に王向斉についての噂を聞き、その友人に紹介してもらい王向斎に面会した。
そして当時30代半ばの澤井健一は、痩身で小柄な老人と手合わせを行った。
そして柔道の技は完璧に封じ込まれ、剣道でも棒切れ一本を持った王向斎に簡単に払われ、まったく歯が立たず負けを認めた。
そして王向斎に弟子入りを志願した。
王向斎は
「外国人の弟子は持たない」
と拒否したが、澤井健一は諦めず連日、入門を懇願した。
1週間後、王向斎は澤井健一の熱意を汲み、
「決してこの武術の修行を止めません」
という血書を書かせて入門を許可した。
王向斎は、形意拳の達人:郭雲深の最後の弟子で、16歳で武器を持った数十人の山賊を単身素手で撃退した。
「数が多い敵でも数人を倒せば、後は恐れをなして逃げる」
やがて国を代表する拳法の達人「国手(国を代表する拳法家)」といわれるまでになり、北京陸軍で武術を教え、また各地を巡って数々の中国武術を研究した。
そしてそのエッセンスを抽出して創意工夫を加え意拳を創始した。
試合において相手は王向斎の動きを捉えることができず、まるで顔が7つあるかのようにみえたといい、王向斎が軽く手を触れただけで雷に打たれたように倒れたという。
澤井健一は、中国武術の基本である型中心の動く練習ではなく、 ほとんど動くことのない站椿(タントウ、立禅)を徹底的にやらされた。
その目的は、気を練り内功を養うことだった。
その後、王向斎の直接指導の下で兄弟弟子と共に厳しい修行を続けた。
1945年8月、日本が敗戦し、自決しようとする澤井健一に王向斎は
「日本人は物事に一生懸命だが、1度失敗すると死にたがる。
愚かなことだ」
「できるだけ日本に帰りなさい。
それが道のためでもある。
間違っても死ぬような考えを起こさないように」
と何度も諭した。

こうして1947年に日本へ帰国を果たした澤井健一は、師の教えを遵守し、1人で站椿を中心とした修行に励んだ。
そして王向斉の命を受け、意拳にかつて自らが修行した柔道、剣道、居合道などの要素を加え、太気拳を創始した。
稽古は自然の中で行うべしと常設道場を持たず、東京の明治神宮で少数の弟子を指導し、「立禅」「揺」「這」「練」で内功を養った後に激しい組手を行った。
「立禅」は、自然に立ち、胸の前でボールを抱くように腕を上げ、静かに気分を落ち着かせ、精神を集中し、風、空気を感じるように立つ。
心拍数を上げることなく鍛錬中に休息し、休息中に鍛錬をする。
最も重要なのは、感じること、そして内外を一体にすることである。
呼吸は極めて自然に心地よく全身で行う。
体中の穴を風が通り抜けるように感じることで内外を一体化していく。
内外の一体感が高まり、身体が整うと、本能的な作用で自然と力が発揮される。
しかし力を使うとその一体感が崩壊してしまうので繊細な注意が必要となる。
力を使わない事によって力が湧き出てくるのである。
「揺(ゆり)」は、立禅で養った力を動きの中に活かす。
片足を前に出した半身での立禅から、ゆっくりと糸を繰るように腕を伸ばし、縮める。
立禅を継続すると体の中にバネのような弾力や波を受けたような抵抗感が現れる。
それらの感覚は微妙なもので無闇に力んだり動くとすぐに消えてしまう。
「揺」は、この抵抗感を利用して全身の筋肉、関節、神経、意識が統合された状態を維持しつつ動く稽古である。
「這(はい)」は、人体と拳法の要である下半身を練る歩法。
腰を落とし腕を上げ、泥の中を這うように、ゆっくりと歩む。
スクワットのように筋力を鍛えることが目的ではなく、身体を整え、下半身を練り、その力を上半身に伝えることができるようにする。
「立禅」で力を養い、その力を「揺」「這」を通じて動きの中でも維持できるようにする。
動いても立禅で培った力を保ち続けることができるよう、体を餅のように練ってゆくことが重要である。
圧倒的な武術力を持つ澤井健一の神宮の稽古は、知る人ぞ知る貴重な修練場となった。
また極真空手の大山倍達とも交流があり、技術交流も行われた。
「立禅」「揺」「這」を行った後に「推手」「組手」が行われる。
陸の上だけでクロールを覚えても泳げないように、立禅の稽古を通じて様々な感覚が生じてもそれだけでは実戦には使えない。
そこで対人稽古としてお互いの腕に触れ合い円を描きつつ相手の力を感知し対応する「推手(すいしゅ)」そして総合的な「組手」を行う。
太気拳に試合はない。
組手も、勝った、負けたではなく、今まで培ってきた力の確認と応用のために行われる。
立禅、揺、這、推手、組手と動きが徐々に大きく激しくなるが、立禅の状態を維持して動くことが大切で、太気拳の稽古はすべてが「禅」であるといえる。

1週間後、板垣恵介は道場を訪ねた。
道場生が板張りのスタジオのようなところで練習していた。
やがて先生が現れた。
板垣恵介は勝手に小柄な人をイメージしていたが、その先生は180cm90kgの巨体だった。
(これなら拳法やってなくても十分強いじゃん)
そう思いながらも挨拶した。
「すみません、失礼します」
「ハイ!
ああ、少林寺拳法とボクシングの人ね」
振り返った先生は顔中傷だらけで、片方の眼が不自然で義眼のようで、手も古傷だらけだった。
先生の名は島田道男。
高校時代は柔道、大学時代は顔面、金的アリの空手を学んだ。
澤井健一の下で太気拳の稽古に励み、1985年、澤井健一に命ぜられ太気拳道場「気功会」を開設した。
板垣恵介は道場の端に座って見学した。
道場生は各自のペースで、立禅、這・・・と進んでいった。
「まあこんな感じなんだけど、今日は何?
取材とかいってたけど、ぶっちゃけヤリに来たんでしょ?」
島田道男はそういって板垣恵介と体格が似た道場生を道場中央に連れ出した。
「こいつはまだ全然、太気拳じゃないけど、おたくにはちょうどいいくらいだろう」
「あのどんなルールでやりますか?」
「ルールってなんだい。
立ち合いっていったら立ち合うんだよ」
立ち合いは、板垣恵介がボクシングや少林寺拳法で経験したことのない激しいものだった。
最初はジャブを出すと踏み込まれ攻撃を潰されてしまった。
やがて相手の動きを理解し、思い切り踏み込んで右ストレートを放ち、相手が反応した瞬間に左フックを打ち込んだ。
一瞬、相手は腰を折り、右の口元をカットしアゴ先から血を滴らせた。
しかし淡々とした表情で立ち合いを続けた。
「やめっ」
数分の立ち合いで結局勝負はつかなかった。
(やった!終わった!)
ホッとした瞬間
「こいつはまだ入って間もないんだけどね」
と島田道男は2人目を指名した。
それは180cmはあるフルコンタクト系の空手家だった。
ハイキックがかすりそうになりながら板垣恵介は必死に戦い、倒されずに立ち合いを終えた。
2人目が終わると島田道男はいった。
「よし、そろそろやろうか」
板垣恵介は島田道男と向かい合った。
そして強力な制空圏を感じた。
(入ればやられる)
身長は2人目の相手と変わらないが、制空圏の広さと大きさはまるで違っていた。
しかも島田道男の目はこちらをみずにあさっての方向をみていた。
巨体で義眼の顔中傷だらけの男が、こっちもみずに一歩一歩近づいてきた。
(絶対に俺のパンチは顔面に届かない。
じゃあ腹だ)
板垣恵介はフェイントをかけ、ステップを踏みながら、ボディを狙うために距離を詰めた。
すると
「パチーン」
腕に衝撃を感じ、次に腹を拳か肘かなにかで打ち抜かれ、床に倒れ、痛みで体が丸まった。
「大丈夫か?」
「ハイ、なんとか・・・」
「ヨシッ!もう1本」
立ち上がった板垣恵介は下がる一方だった。
道場の端に追い詰められ、後ろは壁だった。
(行かなきゃ)
その瞬間、島田道男の腕が伸び、裏拳が飛び、中指の第2関節の出っ張った骨が板垣恵介の眉間を直撃した。
眉間が陥没したかと思うほどの痛みに板垣恵介はダウンした。
「大丈夫か?」
「ええ、なんとか」
「そうか、ヨシッ、もう一本いってみようか」
板垣恵介は、眉間から血を流しながら後退。
これ以上逃げられないところまで追い詰められ、まったく同じ攻撃をまったく同じ場所に受けた。
「勘弁してください」
「いやあ、こんなに頑張るとは思わなかった。
みんな、この人の拍手だ」
道場生は拍手で板垣恵介を称えた。

「俺は中国に行ったこともない。
伝説の中国拳法家に会ったこともない。
だが小金井で4000年の末端に触れてしまった」
格闘技の道場を開くのに国家資格はいらない。
大して強くもないし、人格的に不適当であっても道場は開くことができる。
他の格闘技同様、中国拳法も玉石混交で、太気拳も偽者が横行していた。
1988年に亡くなった澤井健一が、支部をつくって指導をしてもいいと許可を与えた人物は、たったの7人しかいないといわれている。
板垣恵介が道場を辞退するとき島田道男はいった。
「今度さあ、澤井先生に紹介してあげてもいいから、神宮の方に一緒にいこう。
だけど今日のことは先生にいっちゃダメだよ。
先生にかかればオレなんか子供扱いにされちゃうんだから・・・」
(エエ加減にしてくれ。
澤井健一に「じゃあ、やろうか」っていわれたらどうすんだ!)
中国拳法。
そこには打岩を球体に叩き削る男が実在するのかもしれない。
極真の生ける達人
1985年、極真空手の第17回全日本大会において、松井章圭は、決勝で前年度王者で「格闘マシン」と呼ばれた黒澤浩樹との激闘を制して初優勝した。
松井章圭は、14歳で黒帯となり、17歳で全日本大会に初出場、そして全日本大会2連覇、世界大会、100人組手を達成した不出世の天才空手家で、大山倍達の死後は遺言書で自らの継承者として指名された。
しかしもしかしたらこ第17回全日本大会で松井章圭が1番苦しんだのは、黒澤浩樹ではなく4回戦の堺貞夫だったかもしれない。
体重無差別で行われる極真において174cm、88kgの松井章圭は決して大きくない。
しかし堺貞夫は、157cm、60kgしかなかった。
日頃から口数が少なく、基本の1本1本すべてに手を抜かず黙々と稽古に励んだ。
その姿は鬼気迫るものがあり、試合前は部屋を掃き清め下着も新調し、半ば死を覚悟して試合に臨んだ。
空手に賭ける覚悟が並外れた、まさに武人だった。
1回戦は中段回し蹴りで技ありを奪った。
2回戦は相手の下段回し蹴りに右上段回し蹴りを合わせて1本勝ち。
3回戦は桑島靖寛(後の全日本王者)をパンチでくの字にして判定勝ち。
そして4回戦で松井章圭と対戦した。
堺貞夫は、両手を前にして腰を落とした構え(後屈立ち+前羽の構え)で流水のごとく松井章圭の突き、蹴りを受け、捌き、合わせ技(カウンター)を返した。
松井章圭は強引に攻めたが攻撃は全然当たらなかった。
本戦、延長戦、共に決定打はなく引き分け。
もし再延長戦も引き分けとなると体重差10kg以上あれば勝ちとなる。
(堺貞夫は25kg軽かった)
再延長戦に突入する直前、大山倍達が
「何故一方的に攻撃している方に旗を上げないのか」
と審判員を全員入れ替え。
再延長戦も一進一退の展開となり、判定となり、4人の副審のうち2人が引き分け、2人が松井、主審も松井の優勢とし、3-0で松井章圭の勝利となった。
堺貞夫は負傷もなく試合場を去った。
「まるで勝った気がしない」
(松井章圭)
「武道の真髄である円の動きを巧みに使っていた。
また受けが一番うまかった。
防御すなわち攻撃だという事が如実に現れていた。
彼の活躍は体が小さい道場生にも希望の光をもたらした点でも素晴らしい」
(大山倍達)
堺貞夫は、判定に関して一切コメントしなかった。
歳をとっても、体が小さくても、スピードがなくても、パワーがなくても、華麗なフットワークがなくても、腰を落とした不動の構えで相手の攻撃をことごとく外し必殺の一撃で倒す。
「格闘技ほど人間の可能性を感じさせてくれるものはない」
堺貞夫をみて板垣恵介は、ますます格闘技に心を惹かれ、格闘士に憧れた。
「年をとって弱くなるんだったら武術の意義ってどこにあるの?
筋肉がなくなったら、体力が衰えたら、若い頃どんなに鍛錬していても身につけた技は通用しなくなっていいのか。
武術の技ってそういうもんじゃないだろう。
野球でホームランを打つ力や100mを速く走る能力と武術は全く違うんだ。
体が小さくても、スピードがなくなっても、常識を覆すような技、技術。
枯れた技っていうのかな」