大木金太郎とはどんなプロレスラー

大木金太郎のプロフィール
大木金太郎は、1029年(昭和4年)2月24日に韓国で生を受けました。韓国名は「金一(キムイル)」と言います。韓国の猛虎と言われ、シルムの選手であった。シルムとは韓国の相撲のようなものです。
1958年大木金太郎が29歳の時に漁船で日本への密入国をしました。翌年逮捕されるのですが、祖国の英雄である「力道山」に憧れ、プロレス入りを願っていました。大木金太郎は収容所で力道山に対し、嘆願書を書いたことから力道山が身元引き受け人になりました。
当時日本プロレスのコミッショナーであった副総裁大野伴睦(おおのばんぼく)代議士に頼んで釈放してもらいました。これを機に大木金太郎は1959年に日本プロレスに晴れて入団できました。
大木金太郎のパッチギ
韓国名金一(キムイル)は、背も大きいことから、大木金太郎とリングネームがついたと言われています。これは釈放する代わりに、韓国名を用いることを厳禁にしたからとも言われています。
崇拝する師匠力道山から「オマエは朝鮮人なんだから頭突きでやれ」と言われたことを頑なに守り、練習はサンドバッグ相手に頭突きを繰り返した。パッチギとは頭突きのことを韓国語であり、街の喧嘩ではメジャーの技の一つでした。
頭突きを鍛えるのに、ゴルフパターやバットで、師匠の力道山に頭を毎日叩かれ、血が吹き出てもシゴキは続けられました。頭に塩を塗りながら繰り返したようです。
若手三羽烏
当時のプロレスは今のように飛んだり跳ねたりすることは少なく、高度な技の応酬や受け身などは不要で、大木金太郎のように前に前にいくプロレスが主流でした。
大木金太郎は、持ち前の大柄な体格を活かし数ヶ月後には前座でデビューしました。
1960年にはジャイアンツのピッチャーだった馬場正平(のちのジャイアント馬場)と力道山がブラジルに行った時に、見つけた若者猪木寛至(のちのアントニオ猪木)が入団し、日本プロレス三羽烏と呼ばれました。
大木金太郎はスパーリングの相手として、馬場や猪木とやっても組み伏せるほど実力はあり、猪木のデビュー戦の相手は大木金太郎でした。この時、馬場は高待遇で練習場にはマンションから通い、月給50000円でジャイアンツ時代と同じでした。しかし猪木は、いつも厳しく稽古をつけられ、練習場に住み込み、力道山の付き人までしていました。給料などなく小遣い程度だと猪木は語っています。
その時に大木金太郎と猪木は同じ部屋で、将来の夢を語り、とても仲が良かったそうです。
力道山の後継者を目指した大木金太郎

ブックとセメント
プロレスの試合は、いつも勝敗が決まっていて「ブック」と言われています。それは八百長ではありません。興行ですので、お客さんを楽しませるのが一番なのです。しかし、前座試合までは「ブック」はほぼ決まっていないし、メイン試合で出る技は出してはいけないので、基本技だけで試合を構成しないとなりません。
そうなると実力で決まることが多く、目が肥えたファンは前座こそ面白いという人もいました。ちなみにこのガチンコで戦うことを「セメント」と言われていました。そんな中、大木金太郎は実力を発揮するわけですが、ゴングが鳴ったら頭突きで、相手を圧倒し、倒れたら寝技でグランドに持ち込むスタイルなので、決してお客さんを楽しませるスタイルではなく、華が無い選手でお客さんを呼べるスター選手にはなれませんでした。
力道山死去
1963年大木金太郎に転機が訪れました。当時提携していたロサンゼルスのWWAに武者修行に行き、日系アメリカ人ミスター・モトとタッグを組んで、12月10日にUSタッグ王座を獲得しました。
しかし喜びもつかの間、崇拝する力道山が刃物で刺されて死亡したと訃報を受けたのです。大木金太郎は傷心のまま、力道山という拠り所を失い、母国である韓国に帰国しました。
韓国で「大韓プロレス」を旗揚げしました。当時の朴大統領がプロレスの大ファンであったことから、うまく軌道にのり、「2代目力道山」襲名の話が出るほどの人気者になりました。
日本プロレスの崩壊
力道山の死後、日本プロレスは求心力を失い、豊登が社長兼エースで立て直しもはかるも、アメリカでヒールとして活躍し、力道山以来のインターナショナル・ヘビー級王者になったジャイアント馬場が帰国すると、豊登は追放されました。
アントニオ猪木「東京プロレス」旗揚げ
豊登は策略をはかります。なんとアメリカから帰国するアントニオ猪木をハワイで口説き落とし、東京プロレスを旗揚げしたのです。
日本プロレスは、馬場と猪木の二枚看板で建て直そうとしましたが、それは実現せず、急遽「大韓プロレス」でパッチギ王として力道山の後継者になりつつある大木金太郎を呼び戻しました。これで馬場・大木の二枚看板となり、大木金太郎は日本プロレスのNo.2になりました。
人気絶頂「BI砲」
豊登の画策で旗揚げされた東京プロレスでしたが、長くは続かず、わずか3ヶ月で倒産しました。アントニオ猪木は日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場との二大エースがついに誕生しました。そうなると大木金太郎はNo.3になってしまうので、我慢できずに韓国に活路を見出そうとしました。
「BI砲」は並み居る外国人タッグ選手をなぎ倒し人気絶頂でしたが、アントニオ猪木は金銭トラブルから「会社を乗っ取る」と首謀者にされ追放されてしまいました。一方のジャイアント馬場は日本テレビと組んで全日本プロレスを旗揚げしたのです。
ついに日本プロレスのエースに

力道山の後継者として大木金太郎は、日本プロレスを「力道山先生の興した団体を潰すわけにはいかん」と日本プロレスを支えると決意しました。しかし選手はほとんどがジャイアント馬場のいる全日本プロレスに流れてしまい、残った選手は柔道界から鳴り物入りで入団した坂口征二しかいない状態でした。これで日本プロレスのエースになったわけだが皮肉なものである。
しかし大木金太郎は奮起しました。1972年「魔神」ボボ・ブラジルとの頭突き世界一決定戦を制し、インターナショナル・ヘビー級を獲得し、名実ともに正統な力道山の後継者になりました。
日本プロレス崩壊
No.1になったものの華が無いことで、日本プロレスを中継していたNET(現テレビ朝日)は、坂口征二を頼りにアントニオ猪木との合流を提案したが、「力道山先生を裏切った奴らとは一緒にできない」と坂口征二とも決裂し、坂口はNET(現テレビ朝日)と木村健吾、キラーカーンと共にアントニオ猪木に合流しました。
大木金太郎は残った選手と結局ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに吸収されました。師匠力道山が興した日本プロレスを、力道山を崇拝したあまりに、祖国の弟子である大木金太郎が崩壊させてしまいした。1973年の桜咲く4月でした。