尾崎将司
1971年9月、青木功が関東プロゴルフ選手権で優勝してから3ヵ月後、日本プロゴルフ選手権で尾崎将司が優勝した。
尾崎将司は春の甲子園に投手として出場し初出場初優勝。
西鉄ライオンズへ入団し、1年目から1軍。
しかし3年で退団。
1970年4月にプロテスト合格しプロゴルファーとなり、1971年に日本プロゴルフ選手権で優勝した。
ショットの飛距離は青木功を超え、小技もパットもうまい。
そして彗星のように現れた新星は天性の明るさを持っていた。
たった1年で日本一となった男に4年かけてプロになり、4年かけて予選を通過、8年かけて1勝した青木功は思った。
「おもしろい。
やってやろうじゃねえか」
こうして尾崎将司によって青木功に火がついた。
1972年の関東プロゴルフ選手権は、青木功と尾崎将司は共に19アンダーでプレーオフとなった。
プレーオフは、16番のパー3から開始し、共にパー。
17番はパー5。
青木功のドライバーは優に300ヤードを超えたが、尾崎将司は、それよりさらに15ヤードほど先に飛ばした。
アプローチは、青木功は7番アイアンでグリーンのピンまで4mくらいの位置に、尾崎将司は9番アイアンでピンまで8mの位置にオン。
そして尾崎将司のパットはカップをなめ、バーディとなった。
尾崎将司はいった。
「青木さん、入れないでよ!」
しかし青木功は
(ここだ。
勝負はここでつけてしまえ)
と強めにパットを打ち、ボールはカップに真っ直ぐに向かい、ップの向こう側に当たり
「ポンッ!」
と10㎝ほど飛び上がり
「カラン、カラン」
と沈んだ。
青木功は尾崎将司より4歳年上。
この後も2人は、コース内外で壮絶なバトルを繰り広げ、「AO時代」と呼ばれた。
尾崎将司は1971年から4年連続で賞金ランキングトップ、1972年にはマスターズに出場、2回目の1973年には8位タイと実績、人気ともにリードした。
青木功は、1976年に賞金王となり、1978年から4年連続で賞金王となり、米ツアーにも積極的に参戦するようになった。
その開けっ広げな性格で、英語が上手く話せなくても笑顔とボディランゲージで色々な選手にドンドン話しかけ、多くと友人になれた。
1980年の全米オープンで帝王ジャック・ニクラウスと首位争いを演じ、日本人選手の海外メジャー最高位となる2位に入る快挙で世界に名をとどろかせた。
尾崎も1988年から3年連続賞金王に輝くなど、国内では無敵の強さを誇り、ゴルフ界を牽引した。
尾崎将司は、常に今よりも良いものをと求め、多くのゴルフクラブを愛用した。
対照的に青木功は、同じクラブを調整しながら長く使った。
「クラブを大事にする心があれば愛着がわき武士の刀のようになる」
というが青木功ほどゴルフクラブを大切にするゴルファーはいない。
、各遠征先に行きつけの修理屋があり、自分でニスを塗ったり、やすりで削ったり、鉛を貼ったりできるように道具がゴルフバッグに入っている。
そして打ち込んで、打ち込んで、クラブを腕の一部にまでしてしまう。
そして
「飛ぶクラブや飛ぶボールがゴルファーの技術を退化させている」
という。
飛ぶボールはフェースからの球離れが速いため、ボールを思った方向に飛ばしたり曲げたりする技術をマスターしにくい。
一時代前のクラブなら芯でとらえなければボールは飛ばなかったが、シャフトが長くなりヘッドが大型化したクラブは、スイートスポットが広がり、少々ミスしてもボールは真っ直ぐ遠くに飛ぶ。
しかしだからこそ精度の高いショットを打つ技術を得るのに不向きでという。
もちろん青木功は道具の進化に対して肯定的だが、それによってゴルファーから技術と感性が失われていくことを危惧している。
1990年5月、尾崎将司が優勝した大会で解説を務めた青木功が、
「ジャンボ、おめでとう」
と声をかけると
「そんなもん強いもんが勝つのは当たり前だ」
とぶっきらぼうにいい放った。
それに対し青木功は顔を紅潮させていった。
「それじゃあ、次の試合(第14回三菱ギャラン)でどっちが強いか決着をつけよう」
こうして兵庫県西脇市のゴールデンバレーゴルフ倶楽部で2人は激突。
日本屈指の難コースを尾崎将司は豪快にねじ伏せようとした。
第1打でOBを恐れず果敢にドライバーで攻めていった。
しかしその結果、スコアを乱すこともあった。
青木功は、コースに逆らわず、危険度の少ないショットと選択を積み重ねた。
対照的な2人の対決は、最終的に刻んでいってミスを少なくした青木功が1オーバーで優勝。
尾崎は3日目に崩れて4オーバーで2位タイに終わった。
試合後、尾崎将司は
「コースを造るアホにプレーするアホ。
同じアホなら刻まな損々」
「こんなチマチマしたコース、やってられない」
と吐き捨てた。
その後、尾崎将司は暴力団との交際や、芸能界や角界の大物との銀座豪遊など、スキャンダルが増えた。
さらにバブル期に手を出したゴルフ場開発や投資などの副業がことごとく失敗し2005年に民事再生法を申請。
千葉県習志野市のジャンボ御殿は競売にかけられた。
30億円以上ともいわれる生涯獲得賞金を失うことになった。
青木功は、1990年以降、国内外のシニアツアーに参加。
2004年には日本人男子選手初となる世界殿堂入りを果たし
(尾崎将司は2010年に世界殿堂入り)
全盛期を過ぎてもマイペースで活動を継続した。