青木功  4年かけてプロになり 4年かけて予選通過 8年かけて初優勝

青木功 4年かけてプロになり 4年かけて予選通過 8年かけて初優勝

2度目のプロテストで合格し、初めて予選通過したのは4年後、さらに4年かけて初優勝。 波の選手ならあきらめてしまうかもしれない。 しかし青木功は逆境につぶされずバネにした!


中卒でキャディーになり、お金欲しさにプロゴルファーを目指す

青木功は、千葉県我孫子市の農家に生まれた。
中学生の頃から、我孫子ゴルフ倶楽部で球拾いのアルバイトをし、卒業後、進学せずに東京都民ゴルフ場でキャディーとなった。
ゴルフ場に勤めていたがゴルフには興味はなかった。
しかしそのうちにプロゴルファーというのは、かなり稼げて、しかも名誉もある仕事だと知った。
大きなトーナメントで勝つと賞金が30万円ももらえ、試合でアメリカに行くトッププロもいるという。
1日200円でキャディをやっていた青木功は思った。
「プロになってやろう」
最初の動機は、金欲しさだった。
プロゴルファーになるため、クラブを借りてボールを打ち始め、支配人の目を盗んでコースを回った。
家から通わず、職場に寝泊まりしていたが、ある夜、寝ているときに南京虫に刺され
「こんなドブ川のそばにいられるか!」
とキレ、東京都民ゴルフ場を辞めてしまう。
直情的で、まだまだガマンができない17歳の青木功だった。

パットの名手 「馬券は買わないと当たらない。パットは強く打たなきゃ入んない」

しばらくブラブラした後、我孫子ゴルフ倶楽部でプロを目指す研修生としてキャディの仕事を行った。
キャディの仕事が終わると我孫子ゴルフ倶楽部のヘッドプロだった林由郎や佐藤精一、原孝男という日本のトッププロと練習場に行って練習に励んだ。
同じ研修生仲間で100円ずつ出し合って行うパター戦を行うことがあったが負けることはなかった。
みんなが緊張して外してしまうなか、青木功は
「馬券は買わないと当たらない。
パットは穴に届くように強く打たなきゃ入んない」
とカップの向こう側の壁にぶつけるほど強く打った。
ゴルフ場のお客さんに誘われてパット戦を行うこともあった。
すると経済的に裕福な人が多いため勝つと数千円もらえた。
月給5000円だった青木功のプロゴルファーになろうという決意はさらに強くした。
このカップをオーバーさせるようなパットは青木功の特徴の1つで、ボールはカップの向こうの壁に当たって10㎝ほど飛び上がったから入った

ゴルフには
「Never up never in(ネバー・アップ・ネバー・イン)」
という言葉がある。
パッティングでカップを通り過ぎてしまうことを恐れカップの手前でボールが止まってしまうことがある。
この打ち切れないのは技術ではなくメンタル的な問題で、プレッシャーに負けてしまいカップに届くほど強く打てなくなってしまう。
しかしパットは届かなければ入らない。
ゴルフでは高いテクニックを持っていても精神面が弱いと負けてしまう。
「Never up never in」
は弱気を振り払うための言葉である。
青木功はそういう意味では初めからストロングだった。
そのパッティングフォームは、前傾しリストでテイクバックし打ち込むというリストパッティング。
現在、手首を動かさず肩で打つショルダーストロークが主流で、リストパッティング打法は過去のものとされ実践する選手は少ない。
しかし青木功は勝負所のロングパットや難しいラインのパットを次々と放り込み続け、後に帝王ジャック・ニクラスに
「パッティングの教科書を書き替えないといけない」
といわしめた。

変則でも構わない

青木功は個性的なスイングの持ち主だが、多くのゴルファーがオーソドックスなフォームを追い求め個性を欠如させるに対し
「スイングは変則でも構わない」
という。
オーソドックスというのは外側からみた形に過ぎず、
スイングは身長や腕や脚の長さ、各関節の筋肉と柔軟性の影響される。
そして長年クラブを振って体に沁み込んだスイングである。
自分の体の特性や感性を無視し身につけた付け焼刃のようなスイングは実戦では使えないという。
だからそれを変えることのほうが不自然だというのである。
「まずは自分のスイングを信じること」
青木功は、絶対に自分のスタイルを崩さない頑固者である。
「人のいうことを正しいと思うことでもその通りにやらないしやれない」
と他人のアドバイスを安易に受け入れない。
すべて自分で探し、自分だけで確かめ、自分だけで納得しつくっていった。
だから基本は我流である。
「体で覚えたことは直感で合わせられる。
しかし理論で覚えたものは直感では合わせられない。
自分のイメージと結果が一致したものが理想である」

ドライバーでもトップクラスの飛ばし屋

青木功は、研修生時代からドライバーの飛距離で他を圧倒した。
ボールはめちゃくちゃ飛んだがものすごいフックボール
(利き手とは逆に曲がるボール。
右利きの右打ちなら左方向へ、左利きの左打ちならば右方向へボールは弧を描いて曲がっていく)
で、フェアウェイの幅くらい曲がった。
曲がっても飛ぶものだから、ドライバーで距離を稼いで、短い距離をグリーンまでアプローチし、パットを決めればスコアはほどほどにまとまった。
しかしドカーンと打って短いクラブでグリーンに乗せればOKというコースは少ない。
長距離を打っても曲がればボールは林に消え、グリーンを狙うショットの距離や方向を間違えればアリ地獄のようなバンカーに落ちてしまう。
ティーグラウンドからグリーンまで、直線的に攻めてもうまくいかない。
各ホール、第1打をどこに打つかゲームプランを練らなくてはならない。
またゴルフはトッププロでも必ずミスをする。
しかも大事な局面でミスは起こる。
これは心が緊張して体の動きが制約されてしまった結果である。
だからどんな状況下でも自分の心にいたずらな緊張感を及ぼさないように精神的修練が必要である。
と同時に
1つのミスから崩れていく大叩きしてしまう様を
「緊張の糸が切れた」
というように緊張がなくなるといいプレーができない。
緊張感は必須でもある。
緊張がなければいいプレーができず、過度の緊張はプレーを阻害する。
多額の賞金や名誉、勝利やベストスコアがかかった精神的重圧の中で、その微妙なコントロールを行わなければならない。
プロゴルファーは、練習でショットの精度と安定性を増す努力をしつつ、自分がミスをする前提でゲームを行う。
そんなゴルフの面白さに青木功はハマった。
そして無我夢中で練習に励んだ。

2度目のプロテストでギリギリ合格

青木功は、19歳で初プロテストを受け、落ちた。
荒れ狂い、飲み屋で大声で歌った。
当時の青木功は、うだつの上がらぬ研修生生活から抜け出そうと、毎日練習し、ボールはよく飛び、そこそこのスコアも出た。
しかし自分のゴルフが思うように伸びず歯がゆくて、酒を浴びるように飲み、そして飲み、大穴を狙って競輪をした。
実際に大穴を当てることもあったが、無一文になることもあった。
そして22歳のとき、2度目のプロテストを受けるチャンスが訪れた。
テストを受けるのに50000円必要だったが、そのときは5000円しかなかった。
借金しようとしたが
「自力で・・・」
と5000円を手に競輪にいき
「どうにでもなれ」
と賭け、見事30000円に増やした。
「50000円までもう一息」
と思ったが、
「ここで外れたら元も子もない。
20000円なら借りてもすぐに返せる」
と冷静になった。
このとき踏み止まれた自分に対して青木功は
「自分の性格としてよくやめられたと思う。
30000円を賭けて50000円をせしめることができたかもしれないが、それはどうでもいいこと。
自分の人生上での転機になったとも思える」
と評価している。
1964年 6月1日、競輪で稼いだ金と借金で受けた2度目のプロテストで、青木功は、合格ラインに2打差、ビリから2番目の成績で合格した。
プロテストは、まず千葉パブリックゴルフ場で第1次予選、八千代ゴルフクラブで第2次予選、紫カントリークラブで第3次予選があった。
第1次本選は鎌ケ谷カントリークラブで行われ、青木功は午前の第1ラウンドを76、午後の第2ラウンドを71、計147で回った。
合格ラインは、2コース4ラウンドで304。
青木功は第2次本選を157で回ればよかった。
しかし大宮ゴルフコースで行われた第2次本選の第1ラウンドで80をたたいてしまう。
午後のラウンドで78を打ったら、また研修生生活に戻ってしまう。
「クソッ、冗談じゃねえ。
石にかじりついてでも77以内で回ってやるぞ」
そして16番ホール終了時点で4オーバー。
残り2ホールを、パー、パーで上がればよかった。
しかし17番ホールの第2打をバンカーに打ち込んでしまう。
ボギーにしたらあとはない。
震える体に
「武者震いだ」
といい聞かせ打ったボールはピンに吸い込まれバーディ。
こうして青木功は19歳に初めて受けて、22歳で、4年かけて念願のプロテストに受かった。

プロ入り後、4年かかって予選通過、8年かかって初優勝

ひたすらプロになろうと思いつめて進んできた青木功だったが、ゴルフで飯を食うということは簡単ではなかった。
プロ野球なら何年か球団と契約し、たとえ試合に出なくても報酬が約束されるが、プロゴルフでは試合に出て賞金を稼ぐ以外に報酬はない。
だから多くのプロはどこかのゴルフクラブに所属し月給をもらいながら、月例競技(日本の多くのゴルフコースで毎月定期的に開催される競技会やトーナメント)でポイントを稼ぎ、予選に出場し、試合へ出場する機会を狙う。
予選を通過できなければ、いつまでも試合に出られず稼ぐこともできない。
青木功は、たまに月例競技会でいい成績を上げても、予選を突破することはできず、関東プロゴルフ選手権大会を3年連続で予選落ちした。
「俺はゴルフの才能がないのか」
暗い気持ちで酒を飲み、翌日、2日酔いで自己嫌悪に陥った。
4回目の関東プロゴルフ選手権大会が近づき、
「今度また予選落ちでもしたら、真剣に将来のことを考えよう」
と思い定めた。
サザンクロスカントリークラブで行われた予選は、初日が濃霧で3日間で72ホールに短縮され、青木功は142で突破した。
「やったゾ!」
本選は中村寅吉が15アンダーで優勝。
青木功は最終日に66という自己ベストスコアを出して13位タイに入った。
賞金は20000円。
源泉徴収が1割引かれ18000円.
これが初めて自分の腕で稼いだ金だった。
「俺だってやればできるんだ」
1971年2月から5月にかけて青木功は月例競技会で4連勝した。
そして6月の関東プロゴルフ選手権大会で優勝した。
プロ入り8年での初勝利だった。
「これまで俺に足りなかったのは優勝の経験だけ。
これからはバリバリやる。
俺の時代が来るよ」

尾崎将司

1971年9月、青木功が関東プロゴルフ選手権で優勝してから3ヵ月後、日本プロゴルフ選手権で尾崎将司が優勝した。
尾崎将司は春の甲子園に投手として出場し初出場初優勝。
西鉄ライオンズへ入団し、1年目から1軍。
しかし3年で退団。
1970年4月にプロテスト合格しプロゴルファーとなり、1971年に日本プロゴルフ選手権で優勝した。
ショットの飛距離は青木功を超え、小技もパットもうまい。
そして彗星のように現れた新星は天性の明るさを持っていた。
たった1年で日本一となった男に4年かけてプロになり、4年かけて予選を通過、8年かけて1勝した青木功は思った。
「おもしろい。
やってやろうじゃねえか」
こうして尾崎将司によって青木功に火がついた。

1972年の関東プロゴルフ選手権は、青木功と尾崎将司は共に19アンダーでプレーオフとなった。
プレーオフは、16番のパー3から開始し、共にパー。
17番はパー5。
青木功のドライバーは優に300ヤードを超えたが、尾崎将司は、それよりさらに15ヤードほど先に飛ばした。
アプローチは、青木功は7番アイアンでグリーンのピンまで4mくらいの位置に、尾崎将司は9番アイアンでピンまで8mの位置にオン。
そして尾崎将司のパットはカップをなめ、バーディとなった。
尾崎将司はいった。
「青木さん、入れないでよ!」
しかし青木功は
(ここだ。
勝負はここでつけてしまえ)
と強めにパットを打ち、ボールはカップに真っ直ぐに向かい、ップの向こう側に当たり
「ポンッ!」
と10㎝ほど飛び上がり
「カラン、カラン」
と沈んだ。
青木功は尾崎将司より4歳年上。
この後も2人は、コース内外で壮絶なバトルを繰り広げ、「AO時代」と呼ばれた。
尾崎将司は1971年から4年連続で賞金ランキングトップ、1972年にはマスターズに出場、2回目の1973年には8位タイと実績、人気ともにリードした。
青木功は、1976年に賞金王となり、1978年から4年連続で賞金王となり、米ツアーにも積極的に参戦するようになった。
その開けっ広げな性格で、英語が上手く話せなくても笑顔とボディランゲージで色々な選手にドンドン話しかけ、多くと友人になれた。
1980年の全米オープンで帝王ジャック・ニクラウスと首位争いを演じ、日本人選手の海外メジャー最高位となる2位に入る快挙で世界に名をとどろかせた。
尾崎も1988年から3年連続賞金王に輝くなど、国内では無敵の強さを誇り、ゴルフ界を牽引した。

尾崎将司は、常に今よりも良いものをと求め、多くのゴルフクラブを愛用した。
対照的に青木功は、同じクラブを調整しながら長く使った。
「クラブを大事にする心があれば愛着がわき武士の刀のようになる」
というが青木功ほどゴルフクラブを大切にするゴルファーはいない。
、各遠征先に行きつけの修理屋があり、自分でニスを塗ったり、やすりで削ったり、鉛を貼ったりできるように道具がゴルフバッグに入っている。
そして打ち込んで、打ち込んで、クラブを腕の一部にまでしてしまう。
そして
「飛ぶクラブや飛ぶボールがゴルファーの技術を退化させている」
という。
飛ぶボールはフェースからの球離れが速いため、ボールを思った方向に飛ばしたり曲げたりする技術をマスターしにくい。
一時代前のクラブなら芯でとらえなければボールは飛ばなかったが、シャフトが長くなりヘッドが大型化したクラブは、スイートスポットが広がり、少々ミスしてもボールは真っ直ぐ遠くに飛ぶ。
しかしだからこそ精度の高いショットを打つ技術を得るのに不向きでという。
もちろん青木功は道具の進化に対して肯定的だが、それによってゴルファーから技術と感性が失われていくことを危惧している。

1990年5月、尾崎将司が優勝した大会で解説を務めた青木功が、
「ジャンボ、おめでとう」
と声をかけると
「そんなもん強いもんが勝つのは当たり前だ」
とぶっきらぼうにいい放った。
それに対し青木功は顔を紅潮させていった。
「それじゃあ、次の試合(第14回三菱ギャラン)でどっちが強いか決着をつけよう」
こうして兵庫県西脇市のゴールデンバレーゴルフ倶楽部で2人は激突。
日本屈指の難コースを尾崎将司は豪快にねじ伏せようとした。
第1打でOBを恐れず果敢にドライバーで攻めていった。
しかしその結果、スコアを乱すこともあった。
青木功は、コースに逆らわず、危険度の少ないショットと選択を積み重ねた。
対照的な2人の対決は、最終的に刻んでいってミスを少なくした青木功が1オーバーで優勝。
尾崎は3日目に崩れて4オーバーで2位タイに終わった。
試合後、尾崎将司は
「コースを造るアホにプレーするアホ。
同じアホなら刻まな損々」
「こんなチマチマしたコース、やってられない」
と吐き捨てた。
その後、尾崎将司は暴力団との交際や、芸能界や角界の大物との銀座豪遊など、スキャンダルが増えた。
さらにバブル期に手を出したゴルフ場開発や投資などの副業がことごとく失敗し2005年に民事再生法を申請。
千葉県習志野市のジャンボ御殿は競売にかけられた。
30億円以上ともいわれる生涯獲得賞金を失うことになった。
青木功は、1990年以降、国内外のシニアツアーに参加。
2004年には日本人男子選手初となる世界殿堂入りを果たし
(尾崎将司は2010年に世界殿堂入り)
全盛期を過ぎてもマイペースで活動を継続した。

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