清原和博!  甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!

清原和博! 甲子園の怪物!! 史上最強のバッター!!!

清原和博は、小学3年生で入ったリトルリーグから甲子園まで、野球の記録を破り続けた。


岸和田のお祭り男

清原和博は、1967年8月18日、大阪府の岸和田で生まれた。
岸和田は、「だんじり祭り」で有名な城下町。
4tもあるだんじりを、なぜか猛スピードで急カーブさせたりするため死人が出ることもある。
この地の泉州弁は大阪弁より早口でキツく、強面で一般的にガラの悪いといわれるが情の深い町である。
清原は過激な任侠映画が好きだったというが、
「お祭り男」
「だんじりファイター」
などというニックネームは、甲子園やオールスター、日本シリーズなどの大舞台でこそ力を発揮し、サヨナラホームラン、サヨナラヒットがプロ野球史上1位であることなどからつけられた。
いかにも岸和田らしい清原は生まれたときから4200gとデカかった。
大の阪神タイガースファンである父親の清文氏は「東芝ストアー 清原電気商会」という店を構え外で電気工事の仕事をし、大の巨人ファンの祖父が店番をしていた。
母親の弘子氏も巨人ファンだった
清原は昼は巨人のキャップをかぶって、寝るときは、パジャマは母親手作りの背番号1の王貞治パジャマと3の長嶋茂雄パジャマがあり、その日活躍した方を選んで寝た。
岸和田市立八木南小学校では、授業中、長時間ジッとすることができず、隣の席にちょっかいを出したり、前の席に消しゴムをぶつけたりした。
そして教師に怒られ廊下に立たされても、すぐにおちょけ、再び怒られた。
やがて
「先生、トイレに行きたいです」
というと授業中に教室を脱け出せるという裏技を発見。
そのまま学校探検に出かけ、授業が終わるまで教室に戻らなかった。
しかし
「校庭で遊んでいる人、すぐに教室に戻りなさい」
と学校放送され、清原のクラスでは「授業中はトイレ禁止」ルールがつくられた。
そのせいでおもらししてしまう子が続出した。
校庭でボール遊びをしていてボールを拾いにいったとき、勢いよく漕いでいたブランコを衝突。
額が割れ流血したが、
「ブッチャーや」
と人気プロレスラーだったアブドラ・ザ・ブッチャーの真似をしてみんなを追い回した。
このころから体の痛みには強く、一見、鈍感、そして心は繊細だった。

エースで4番、完全試合、3打席連続ホームラン。

体がデカくて力が強く、やりたい放題だった清原がとんでもない悪ガキにならずに済んだのは、1枚のポスターのおかげだった。
『岸和田リトルリーグ 部員募集』
そのポスターを発見した小学3年生の清原は武者震いがした。
学校で自分でかなうものはいないが、岸和田全体ではどうなのか?
力試しがしたかった。
リトルリーグは、アメリカ発祥で、ベースとベースの塁間は野球より短く、イニング数は原則6回まで、投手には球数制限がある。
毎年4~6月に全国12地区で予選があり、7月に予選を勝ち抜いた12チームで日本一を争われる。
そして毎年8月、アメリカのペンシルベニア州ウィリアムズポートで、アメリカの各地区代表8チーム、日本代表、アジア・オセアニア・中東代表、カナダ代表、ラテンアメリカ代表、カリブ海代表、メキシコ代表、ヨーロッパ・アフリカ代表、オーストラリア代表の8チームがそれぞれ予選リーグを戦い、1位同士が対決し世界一を決める。
岸和田リトルリーグの練習グラウンドは、実家から自転車で30分、岸和田の埋め立て地帯にあった。
祖父が運転する自転車の荷台に乗り、その入団テストに挑んだ。
テストは50m走と遠投。
受けるのは4年生と5年生ばかりだったが、3年生の清原は圧倒した。
50m走で岸和田リトルリーグの過去最高記録を破りトップ。
遠投の合格ラインは40m。
過去最高記録54m。
清原は70mを投げた。
グラウンドは、シーンと静まり返り、その後どよめきが起こった。
1週間後、合格通知が届いた。
以後、野球漬けの毎日が始まった。
岸和田リトルリーグの休みは月曜だけ。
土日はもちろん、火~金曜日は学校後、夜遅くまで練習だった。
清原は月曜も河原に行き、ビニールテープを巻いた角材をバット代わりにして石コロを打った。
ピッチャーが投げるボールをみてからスイングしたのでは間に合わない。
ボールがそこに来たとき、バットがそこに出ていなければジャストミートは生まれない。
だからバットを振りはじめるときには、どこにボールが来るか知っていなければならない。
その0.何秒を、肉体的、感覚的に把握できなければならない。
清原和博のバッティングは、力やフォーム、技術に加え、そういう本能的なものも鍛えたものだった。
下半身にタメをつくって、左足で地面を思い切り踏ん張って、0.何秒先にボールが存在するべき空間めがけてバットを走らせる。
全身の感覚で読み切ったその場所でバットの芯がボールの芯を迎えた。

リトルリーグには、試合に出られるのは4年生の2学期からという規定があり、清原は4年生の9月にレギュラーに選ばれた。
周囲は5、6年生ばかりで4年生レギュラーは1人だけで、ポジションはピッチャーだった。
5年生になると清原はエースで4番になった。
ピッチングについては
「小学生から小手先の変化球など覚えたら将来に響く」
と直球を指導され、下半身を鍛えるため毎日ランニングやダッシュを繰り返した。
あるとき、ヒットを打たれ、頭にきてしまいフォアボールを連発し1点を失った試合があった。
与えたのはその1点のみで、清原は4安打を放った上、完投し、チームは2対1で勝った。
「ヒットを打たれたのは仕方ない。
でもヒットを打たれ頭に来たのは自分のことしか考えていないからだ。
野球は1人でするものではない。
お前の投げる1球はお前1人で投げているんじゃない。
内野も外野もベンチの補欠も含めて全員で投げてるんや。
失投で自分を見失うのは、それを知らないということや」
試合直後、清原は怒られ、100本ノックが課された。
途中、脱水症状を起こし倒れ、病院で点滴を受け、グラウンドに戻って再開した。
バッティングも、センター返しを指導され、できるだけ遠くに飛ばそうとひっぱってレフト方向にホームランを打っても
「バットは内側から外側に出すんや。
そんな打ち方では大振りになるだけや」
と怒られた。

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(ホームラン打って怒られてたらやってられへん)
チームプレーに徹し、その結果味わえる歓喜を学び知りながらも、清原は球場にいる全員が驚くようなホームランを打ちたくて仕方なかった。
大きなホームランを打つと、ゾクゾクと喜びが沸き上がった。
そしてダイヤモンドを回ってベンチに戻るとみんなに頭や背中を叩かれ、再び人生の喜びを味わった。
テレビで阪神タイガースの田淵幸一のホームランをみれば
「どうすればあんな大きなホームランを打てるのだろう」
と思い、756本のホームランを打って世界記録を樹立した王貞治のバッティングの分解写真が雑誌に掲載されていると、切り抜き部屋に張り
「王さんは左利きだから・・・」
と鏡に映してそのフォームを真似た。
王は清原のヒーローだった。
後年、清原は拘置所で王の本を読むことになるが、ボールにバットを当てて弾き返すのではなく
「刀でボールの芯を切り進み、真っ二つにする」イメージで打っていたり、
1年で当時、最多となる55本のホームランを打ったときも
「今まで以上にしごいてください」
とコーチに頭を下げたことなどを知り、自分との違いに驚くことになる。
こうして小学生の清原は毎日、何百回と素振りを繰り返し、頭の中はバッティングのことでいっぱいで、寝ていてもよくバットを振る夢をみた。
よく夢の中でバッティングのアイデアを思いついたため枕元にバットを置いて寝るようになった。
(こう振ればいいのかも!)
思いついたときに枕元にバットがあれば実際に振って確かめられるが、翌朝になると忘れてしまうからだ。
「人が与えられた時間は1日24時間。
それは誰だって同じなわけで、その24時間でどれだけ自分を成長させられるかが勝負。
自分は24時間のすべてを野球に打ち込めばいい」
清原が6年生のとき、岸和田リトルリーグは関西秋季大会でベスト4に進出。
この中にピッチャーとして完全試合を成し遂げた。
岸和田市立久米田中学校に進学すると、野球もシニアリーグ
(中学1~3年生で構成され、塁間やルールは大人とと同じだが、イニング数は7回)
に進み、2年生のときに全日本大会で2位となった。
シニアリーグではバッターとして、大阪の藤井寺球場で3打席連続ホームランという記録をつくった。
シニアリーグ最後の試合は、神宮球場で行われた全国大会の決勝戦だった。
清原は、浜松シニアの浜崎淳と投げ合い1点差で負けた。
浜崎とは、後(1985年、高校3年生のとき)に再戦することになる。

PL


シニアリーグを全日本2位で終えた清原の次の目標は、高校野球で日本一になること、つまり「甲子園」だった。
北海道から沖縄まで全国の高校からお誘いがあった。
奈良県天理市出身の母親は、息子を天理高校に入れるために天理教に入信。
「どんな悩みがあって入信されるのですか?」
担当者に問われ
「いや、わたしに悩みはないんです。
ただ息子をここの高校に入れたいので入信させてもらいたいんです」
と答えて担当者を笑わせた。
しかし中学3年生の夏休み、岸和田シニアリーグの練習をみていたPL学園の関係者が、
「ウチに来たら彼はきっといい選手になりますよ」
と進言。
すぐに清原は父親と車で富田林市まで見学にいった。
正面入口の守衛所を抜けると、そこに街があった。
PL(パーフェクト リバティー)教団の本部だった。
天に向けた人差し指の形をしたPLタワー、PL学園、PLランド、そして病院やゴルフの練習場なども敷地内にあった。
PL学園野球部を訪ねると、緑の芝と高い金網のフェンスに保護された大きなグラウンドに屋根つきの雨天練習場と部員寮(研志寮)が隣接していた。
その施設に清原は一目惚れした。
(ここしかない)
また天理紅絳は部員が多く1年生は球拾いだったが、PLは1年生も練習をしていた。
(これはイケるかもしれない)
こうして清原の志望校は天理高校からPL学園に変更された。
天理教に入信していた母親は、すぐに謝りに行った。
「息子をここに入れてもらうつもりで入信させてもらったんですけど、実はその息子がPL学園に行くと言い出しまして・・・
息子がPL学園を志すからには私もPL教に入信しようと思ってます。
勝手いうて悪いんですけどやめさせてもらいます」
また母親は、
「野球だけで入ったと人からいわれたら悔しいから」
と清原を塾に入れた。
しかし息子が、いつも1番前の席に座って居眠りしているのがわかると、娘(清原の姉)に家庭教師を命じた。
そして小学3年生からシニアリーグが終わるまで野球漬けだった息子が遊びに走ってしまうのを恐れ、中学校から帰ってくるとすぐに実家近くの久米田池を6周、約20㎞を走らせた。
こうして清原はPL学園に合格した。
PL学園の受験は、英語や数学などの試験もあったが「21ヵ条のPLの教え」を丸暗記すれば合格だった。
PL学園野球部員は、全員、寮に入らなければならず、家には年末年始以外、帰れず、電話も手紙も禁止。
そして年末年始以外は練習日だった。
入寮するために父親の車で送られているとき、清原は外の景色を真剣に眺め、目印となりそうな建物を覚えようとした。
これまで家と学校とグラウンドの往復だけで、1人では電車に乗れないので、厳しい練習に耐えられず逃げ帰るときは歩くしかなかったからだ。
バッグの底に隠し持った10円玉20枚も公衆電話を探して家に電話し迎えに来てもらうためのものだった。
入寮式後、27名の1年生は、「指導員」の3名の2年生の先輩から、「絶対にしてはいけない3ヵ条」やたくさんの決まり事についてレクチャーを受けた。
絶対してはいけないことの3ヵ条は、嘘、ケンカ、陰口だった。
入寮して1週間後に入学式があったが、初練習は入寮翌日からだった。
1年生は指導員と一緒に別メニューをこなした。

研志寮は、8人部屋が8室あり、1、2、3年生が共同生活をするため、特に1年生は安らげない。
また1年生には仕事があり、
「炊事当番」、
「ロッカー当番」、
「風呂当番」
の3班に分けられた。
炊事当番は、練習が終わると基本的に食堂にいき、食事中の世話やが食後の片付けを行い、全員が食事を終わるまで食堂を出られない。
基本的に、食事は事前に用意されている通常メニューがあった。
しかし先輩に
「チャーハンつくって!」
といわれた
「はい!」
と人気メニュー「PLチャーハン」をつくらなければならない。
まず卵を炒めて、いったん別の皿にあげる。
強火のフライパンにマヨネーズとご飯を投入。
塩こしょう、テーブルガーリックで味を調え、卵を戻し、醤油を加え、混ぜ炒めたら完成。
マヨネーズとソースを混ぜておかずにつけたり、鶏肉や豚肉を砂糖醤油炒めも人気があった。
1年生は、追加メニューを作ることはできても食べることは許されず、通常メニューしか食べられない
醤油とソースは常備されていたが、砂糖とマヨネーズは2週間に1度の買い物のときに入手しなければならず、1年生が強制的に買わされた。
買い物は2週間に1度、PLの敷地内にある小さなスーパーに全員揃っていく。
所持金は2000円。
先輩は、お菓子やアイスクリーム、ウインナー、カップラーメン、卵、ジュースなど、好きなものを買えるが、1年生は、マヨネーズ、塩こしょう、テーブルガーリック、砂糖などを買わなければならない。
また1年生はよく便箋を買った。
ポケベルも携帯電話もない時代。
寮の電話が使えるのは先輩だけで、1年生の外部との連絡法は手紙しかない。
親や友達に手紙を書いては返事を心待ちにした。
ロッカー当番は、練習終了後、ボールがグラウンドに落ちてないかチェックし、ノック用、バッティング練習用などボールに分け、内野ノック用ボールなどは、ユニフォームにこすりつけるなどして、ビカビカに磨かなければいけなかった。
風呂当番は、全員が風呂に入ったあと、掃除をした。
ちなみに1年生は、お風呂に入っても湯船につかること、シャンプーを使うこと、バスタオルを使うことは禁じられ、清原は大きな体を小さなタオルでふいた。
この仕事は、毎週、ローテーションで変わった。
また寮内では「付き人制度」がしかれ、1年生は、毎日、数名の担当の先輩のユニフォームの洗濯、スパイク磨き、ご飯の用意、夜間練習の相手を行った。
仕事は深夜にまで及ぶこともあった。
手紙で惨状を知った実家は、靴下の中にキャラメルを入れて送ったが、清原は洗濯機が回っている間、その靴下をはいてトイレに行き、先輩や同級生がいないのを確認してからドアを閉め、靴下の中から取り出して食べた。
食べた後は甘い匂いを消すためにトイレの水道で口をゆすいだ。
先輩後輩の上下関係は厳格で、下級生はちょっとした言葉遣いで厳しく怒られ、基本的に1年生は、上級生に対して「はい」と「いいえ」しか使えなくなった。
寮内で何かをしでかしたり、やらかすことを「事件」、事件が重なり集合がかかることは「説教」と呼ばれ、1つの部屋に集められ全員正座。
V字腹筋、空気イスなどのトレーニング、手や足が飛ぶこともあった。
まだ体力的に未熟で練習にも慣れていない下級生は、グラウンドでは意識朦朧で練習し、学校では死んだように寝て、寮では熟睡すらできない緊張の日々を繰り返した。
当然、脱落者も出たが、去っていく戦友より、自分の仕事の量が増えることが気になった。

「起床、起床、起床の時間です。
皆様おはようございます。
起床の時間です。
尚、5分後に全員Bグラウンドに集合してください」
6時、寮にアナウンスが響き、PL学園野球部の1日が始まる。
1年生は、起床コールの前に起きて、洗濯物をたたんだり、朝ご飯の準備を行う。
コールが鳴った時点で布団の中にいたら大事件となる。
そうならないために目覚まし時計で起きるが、その音で同部屋の先輩を起こしてしまうと怒られてしまう。
起床コールから5分後、サブグラウンドで朝練が始まり、体をほぐしながらグラウンドを走る。
その後は朝食。
ご飯、味噌汁、漬物。
たまに納豆。
7時30分、2㎞離れた学校に登校。
その後、5時間、授業を受ける。
野球部員は体育の授業以外は睡眠に充てた。
しかし桑田真澄だけは真面目に授業を受けていた。
14時、授業が終了すると寮まで帰る。
1年生は、グラウンド整備があるので走って帰った。
まず鉄のとんぼで土を柔らかくし、その上から木のとんぼをかけ、ラインを引き、水をまいた。
そして15時、練習開始。
練習時間は、冬は3時間、夏は4時間程度。
まずはウォーミングアップとして、ランニング、体操、ストレッチ、腹筋、背筋、スクワット、バービー、腕立て伏せなどのトレーニング、キャッチボール。
それらが終わればシートノック(各選手が各守備位置につき、ノックを受ける守備練習)。
各ポジションに4~5人くらい選手がいて、順番にボールを受ける。
続いて2ヵ所にゲージ(バッティングピッチャーを打球から保護するネット)を置きバッティング練習。
ウォーミングアップやバッティング練習では、リラックスするためにグラウンドに音楽が流された。
バッティング練習が終わると全員でグラウンド整備。
最後にランニングをして終わる。
このランニングは、
「100mmダッシュ17秒以内を20本」
「5周走6分以内5本」
と周回数やタイムが日替わりで決められた。
例えば、グラウンドを5周を6分と設定されると、全員がその時間内にゴールできないと何周か追加された。
19時、寮に戻り食事。
20時半、全員で寮内掃除。
その後は自由時間となるがほとんどの部員が、素振り、ティーバッティング、筋力トレ、ランニングなど自主練習を行った。
レギュラーは9人、大きな大会でベンチに入れるのは18人。
熾烈な争いにみんな必死だった。
そして2、3年生は23時頃に就寝。
1年生は先輩が寝た後、担当のユニフォーム洗濯。
寮にある洗濯機の数が限られているので、激しい洗濯機争奪戦が繰り広げられ、敗れると深夜まで順番待ちをして、洗濯物を干して乾燥室を出るのは24時を過ぎた。

ライバル 桑田真澄

DVD映像で蘇る高校野球不滅の名勝負 vol.2 1983年夏決勝PL学園VS横浜商


清原はそれまで自分よりすごい選手に会ったことはなかった。
しかしPl学園に入って生涯のライバルと出会った。
桑田真澄である。
桑田も清原同様、中学では4番でエースだった。
しかし清原はそのピッチングをみて衝撃を受けた。
(こいつには勝てない)
そんなことを感じたのは初めてだった。
監督からいわれるまでもなくピッチャーは諦めた。
練習で桑田は200球も300球も投げさせれた。
キャッチャーは構えた位置からミットを動かさない。
コントロールが狂うとボールはキャッチャーの後方にいく。
すると桑田はダッシュで拾いに行き、ダッシュでマウンドに戻る。
投げる、外す、走るをフラフラになるまで繰り返した。
「ピッチャーやめてよかったわ」
そういって清原は仲間を笑わせたが、内心は
(負けられん)
と思っていた。
しかも桑田は1年生としての仕事や先輩のパシリが終わった後、深夜、1人黙々とグラウンドを走った。
「僕は、清原や他の選手より体が小さい。
みんなと同じことをやっているようではダメだ。
2倍も3倍も練習しないと……」
そして清原も、素振りを行った。
「あいつが先にあがるまで、バットを振り続けてやる……」
桑田真澄と清原和博は、3年間、すっと同じ教室で席は隣同士だった。
野球部の寮の部屋も隣同士。
仲は良く、共に野球バカだったが、性格は正反対。
清原は明るく、桑田は無口。
清原は番長。
桑田はケンカの止め役。
桑田は勉強好きで、熱心に授業を受けたが、清原は寝ていた。
清原を中心に同級生がみんなでワイワイしていても、桑田は1人ポツンとしていた。

グラウンドでは実力主義。
先輩後輩は関係ない-ハズだが、清原が練習でホームランを打つと厳しいかわいがりを行う先輩もいた。
標的にされるのを嫌った清原は、打球が飛びにくいライト方向に打つようにした。
それでもだんだんライト方向にもホームランが出るようになり、わざと全力でバットを振らないこともあった。
いかに目立たないように工夫した結果、スイングがコンパクトになり、全方向に打つことができるようになった。
やがて清原の打球は、高いフェンスの上を超え、何度も寮のガラスを破壊した。
そのためフェンスの上にさらにネットが張られ
「キヨハラネット」
と呼ばれた。
5月、沖縄の興南高校との練習試合に清原は代打で出場。
ピッチャーは、後に阪神タイガースに入る仲田幸司だった。
1打席目はデッドボール。
カーブが全然みえず足に当たった。
2打席目は、とにかくストレートを狙い、2塁打を放った。
6月、夏に向け、練習時間も、質も上がっていった。
練習中は一滴も水を飲むことは禁じられた。
夏の甲子園に向け、レギュラー陣の練習が苛烈になり、その他の者はそのサポートに徹した。
7月中旬、夏の甲子園の大阪地区予選が始まった。
1回戦から、入学約3ヵ月の1年生の清原はレギュラーに大抜擢された。
しかも打順は4番だった。
(ポジションはファースト)
桑田も4回戦で吹田高校を2安打に抑え完投し、それまでは控え投手だったが、この試合以後、事実上のエースとなった。
7月31日、決勝戦が行われ、PL学園は大阪予選を制した。
翌日、8月1日にはPLの花火大会が行われた。

1年生の夏に甲子園初出場し初優勝

清原は初めて甲子園に立った。
(自分のせいで負けたらどうしよう)
1年生の清原がレギュラーになったことで、厳しい練習に耐えてきた先輩が1人、最後の夏にメンバーから外された。
清原は、自分のエラーや打てないことで上級生の夏が終わってしまうことを恐れた。
そして神経性の下痢になった。
PL学園は、1回戦で所沢商業、2回戦で中津工業、3回戦で東海大一高、準々決勝で高知商業を下し、ベスト4に進出。
準決勝の相手は、夏春2連覇中の池田高校。
清原は、水野雄仁(巨人ジャイアンツ)に4打席4三振。
桑田は、ホームランを打った上(この大会で桑田は2ホーマー)、池田高校に1点も与えず、PL学園は7対0で圧勝した。

1983年の夏の甲子園の決勝戦は、PL学園 vs 横浜商業だった。
清原は1打席目にホームランを打った。
甲子園第1号だった。
そしてチームも3対0で勝ち、優勝した。
決勝戦後は、勝っても負けても甲子園の土を持って帰るのが恒例行事だったが、清原はそれをしなかった。
(来年も必ずここに来る)
清原と桑田は、「KKコンビ」と呼ばれ、毎日、練習グラウンドには、たくさんのマスコミと観客、そして女性ファンが来るようになった。
しかし清原も桑田もレギュラーになったからといって特別扱いはなく、1年生として寮での雑用や仕事をこなし、試合に出るということを繰り返した。
決勝戦の前日も夜の洗濯をしていた。

甲子園は清原のためにあるのか!

夏の甲子園が終わると9月上旬の春のセンバツの予選に向けて練習が始めった。
大阪大会の3位以内に入り近畿大会に進み、大阪、兵庫、奈良、京都、和歌山、滋賀から選ばれた16校の中から7校が甲子園行きの切符を手にする。
11月にすべての大会が終わり2月1日にセンバツ出場校発表。
3月下旬から、春のセンバツが始まる。
こうして地獄のような1年が過ぎ、2年生のなると新入部員が入ってきて仕事から解放される。
洗濯もスパイク磨きも食事の用意も、全部後輩がしてくれる。
「3年神様、2年平民、1年奴隷」
といわれ、耐えて続けていれば、部屋でお菓子を食べたり、ウォークマンを聴いたりできるようになっていく。
ただしレギュラー争いは激化し、焦りと不安は増大していく。
清原と桑田は、1年生の夏の甲子園から3年間、春夏すべての甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回というすごい戦績を残した。
しかし1983年、1年生の夏に優勝した後は
1984年春 - 決勝敗退
1984年夏 - 決勝敗退
1985年春 - 準決勝敗退
と2年生の春から3年生の春までは頂点に立つことはできなかった。
1年生は抑圧され、必死に耐え、気づかないうちに優勝していたが、2年生になり解放されると逆に甲子園で勝つことが難しくなった。
1985年の夏の甲子園は、最後のチャンスだった。
春の甲子園の準決勝で、3三振、1四球に終わった清原は、毎日、素振りの数を増やし、ピッチングマシンもいつもより前に出して速球を打つ練習を始めた。
「精一杯やったか?」
「悔いはないか?」
日々自分に問いかけた。
結局、清原和博には、科学的なトレーニングや練習の効果、合理的な技術ではなく
「自分はこれだけやった」
という自信を武器にするタイプの男だった。
1回戦はシードで不戦勝。
2回戦、東海大山形、29対7。
3回戦、津久見高校、3対0。
準々決勝、高知商業、6対3。
準決勝、甲西高校、15対2。
そして決勝戦は、宇部商業高校だった。
清原は2打席目にレフトスタンド前のラッキーゾーンにホームランで同点に追いつき、3打席目もセンターのバックスクリーン左横にホームランを叩き込み、再度同点にした。

そしてPL学園は、4対3で9回裏を迎え、サヨナラ勝ちした。
清原にとって2度目の甲子園優勝だった。
決勝戦だけで2本、準々決勝から決勝に5本のホームランを放った清原は、植草貞夫アナウンサーに
「甲子園は清原のためにあるのか!」
と実況された。
高校での甲子園の通算成績は

26試合
91打数40安打 
打率.440 
ホームラン13本

となった。
高校通算では64本のホームランを打った。

運命のドラフト会議

このときも清原は甲子園の土を持ち帰らなかった。
(来年からは1年に何度もここに来る)
超楽観的な清原は自分のプロ入り、また巨人に入ることを疑っていなかった。
このときの巨人は王貞治監督の2年目。
1983年に優勝したが、王貞治が監督になった1984年、1985年は2年連続で3位に低迷していた。
清原は子供のころから目標だった王が監督になったことに運命を感じていた。
「オレが王監督を助ける!」
王貞治が
「清原君が木のバットで打つ姿が見たい」
とコメントしたことを知ると甲子園の後に行われた国体で清原は木のバットを使用した。
そして国体後、巨人への入団希望を報道陣の前で発表した。
清原と桑田は卒業後も野球を続けるため、国体後もPL学園のグラウンドで練習を続けた。
そのときに1度だけ進路について話し合った。
「俺はプロ野球に行く。
第1志望は巨人や」
清原がいうと、桑田は
「早稲田大学に進む」
といった。
11月のドラフト会議までに各球団のスカウトが清原に接近したが、その中には巨人もいた。
「もしウチが1位指名したら来てくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
うれしくて飛び上がりそうになりながら清原と両親は3人で頭を下げた。
ドラフト会議において、ある選手を複数の球団が指名した場合、交渉権はクジ引きで決まる。
仮に12球団が指名すれば、その確率は1/12となる。
指名された選手は意中の球団でなければ入団を拒否できる。
例えば江川卓は、1973年に阪急ブレーブスに1位指名されたが拒否して法政大学へ進学、1977年に福岡クラウンライターライオンズに1位指名され拒否してアメリカ留学、1978年に巨人に入団した。
清原は、もし巨人が交渉権を獲得できなければ、阪神。
それもなければ社会人野球(日本生命)に進むつもりだった。

1985年11月20日、ドラフト会議当日、清原は授業を受けていたが、居ても立ってもいられなくなり、こっそり教室を脱け出し、PL教の聖地の1つである奥都城へいった。
すると偶然が必然か、両親もそこに来ていた。
「お前が巨人に入れますようにってお祈りしとこうと思ってな」
親子そろって手を合わせた。
(ジャイアンツが1番クジを引いてくれますように)
3時間目の授業中、教師から知らせが入った。
「巨人の1位指名は桑田や!」
桑田は、巨人に指名されたらプロ入り、指名されなければ早稲田大学へ進学と決めていた。
うれしかったが、清原を傷つけないように下を向いた。
清原は校長室に呼ばれ、ドラフト会議の録画をみながら説明を受けた。
6球団から1位指名を受けたが、その中に巨人はいなかった。
そして清原との交渉権を得たのは西武ライオンズだった。
関西人の清原は西武が関東のチームであることはわかったが何県なのか知らなかった。
そして巨人が1位指名したのは桑田だった。
清原と桑田は別々の部屋で記者会見を行った。
『西武が交渉権を得ましたがいつ知りましたか?』
「授業中に聞きました」
『現在、どういう心境ですか?』
「・・・・・・」
『気持ちの整理はついていますか?』
「いまはついていません」
『西武に対するイメージは?』
「日本一にもなられたしいいチームだと」
『巨人に指名されなかったことについては?』
「いまはなにもいえません」
『聞きにくい質問なんですが、清原君が1番望んでいた巨人が、桑田君を指名したことについては?』
「いまは考えたくないです」
巨人に指名されなかったこと、大学に行くといっていた桑田が実は巨人を志望し、それを教えてくれなかったことが悔しくて悲しくて、清原は涙を流した。
その後、密かに桑田が巨人を蹴ることを期待していたが、早稲田大学進学を取り消して巨人と契約を結んだことを聞いて再びショックを受けた。
小学3年生から野球を始めて18歳にして初の挫折だった。
清原は桑田を、そして王を憎んだ。
ドラフトにおいて巨人は1位から4位まですべてピッチャーを指名していた。
2年連続で優勝から遠ざかっていた巨人に必要なのはピッチャーだった。
しかし清原は、毎日、王の写真を目の前においての腕立て伏せ200回を開始した。
当時はまだFA(フリーエージェント、自由契約選手となり国内外どの球団とでも契約交渉ができる)制度がなかったため、いつか巨人を倒し自分を指名しなかったことを後悔させることが1つの目標となった。
卒業式のとき、桑田はしゃべりかけようとしたが清原は無視。
マスコミに握手をして2ショット撮影をリクエストされたときも目は合わせなかった。
しかし桑田の手の温かさに心が痛かった。

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