ドラマでお馴染みの〝大岡越前〟 彼は南町奉行になる前と終わった後、なにをしていたのだろうか

ドラマでお馴染みの〝大岡越前〟 彼は南町奉行になる前と終わった後、なにをしていたのだろうか

南町奉行と言えば大岡越前、大岡越前と言えば南町奉行――と答えるのは簡単、日本史を知らない人でも越前と吉宗は知っているというほどお茶の間に馴染み深い大岡越前。しかし、彼にも少年期があり、南町奉行を勤め上げた後の半生もあった。南町奉行ではない時期の彼は、どのように生き、何を残したのか。


あまり語られない……? 〝大岡越前の一生〟

 北町に遠山の金さんがいれば南町に大岡越前がいる――ということで南町奉行として今でも人気の大岡越前。

 しかし、南町奉行とはいったいどんな仕事をしているのか?
 奉行って? 給料は? 将軍との仲は? 南町奉行以外の職歴は? 調べてみた――というわけでもないが、案外取り上げられない経歴や逸話もあるのでご紹介していこう。

《大岡越前》は6人いる!

〝大岡越前〟の愛称(?)で知られる大岡越前守忠相氏。
 ドラマで〝大岡越前〟が出てくると十中八九は彼が出てくるわけですが、実は歴史上〝大岡越前〟に該当する人は複数人います。具体的に言うと6人ほど。

大岡越前

大岡忠相 - Wikipedia

 なぜそんなことになるのか。

 歴史や時代劇が好きな方にはおなじみの話ですが、大岡越前というのは《姓(大岡)+官職(越前守)》から来ている呼び名。現代風に言うと「大岡部長」といったところでしょうか。

 で、大岡越前守忠相――つまり〝初代大岡越前〟は仕事で有能ぶりを発揮したため加増が重なり、ついに給料が1万石を突破し〝大名〟となります。
 大名になると所領が大きくなるので〝藩〟というものを設置することになるのですが、藩主は基本的に世襲制。ついでのように官職も世襲制にしてしまう。
 そうなると〝初代藩主大岡越前守忠相〟から始まり、

・2代目藩主大岡越前守忠宜
・3代目藩主大岡越前守忠恒
・4代目藩主大岡越前守忠與
・5代目藩主大岡越前守忠移
・6代目藩主大岡越前守忠愛
・7代目藩主大岡越前守忠敬

 と並ぶことになります。
 3代目については死去した際には《能登守》となっているので微妙に事情が異なっていたりします。しかし藩主に就いた時には《越前守》であり、「3代目藩主大岡越前守忠恒」と呼べる時期があったのでリストイン。


 けっこうマイナーな題材なのであまり語られることを見ない彼らですが、存在していたことは確からしいのでそのうち「葵 徳川三代」のように「大岡越前七代史」みたいのができるのもおもしろいんじゃないかなと思います。

若者 大岡越前

 初代大岡越前守――つまり忠相の父親は大岡忠高氏。
 忠相は忠高が44歳の時の子供なので、時代劇で稀に見る「江戸で近くに住んでいる忠相の父親」というのは史実にはいなかったことになります。ちょっとさみしい。


 若い頃の忠相は大変で、いとこが殺人からの自殺(つまり切腹。武士にはよくあること)を遂げたのでその流れで閉門処分を食らったりしています。
 一応翌年には許されるものの、今度は養子に出ていた先の育ての親と死別。許されていたので家督を継ぐことには成功します。


 その後は書院番、目付を経由して山田奉行に。

 目付を経由したというのはひとつのポイント。
 目付は監視役兼人事部で、今で言うと……なんでしょう。検察官とか刑事とかにあたるのだろうか。監査役みたいのも兼ねているような。ちょっと微妙かもしれません。

 重要なのは〝老中にも意見できる存在〟そして〝町奉行になるためには目付を経験していなければならない〟ということ。
 幕府において言うほど大物というわけでもないですが、決して小役ではなく、かつ中央権力に近く、出世のために重要な役職だったというわけです。

 山田奉行というのは伊勢奉行のこと。
 通常、その地域を誰かの代わりに支配する人は文字通り《代官》の仕事なわけですが、伊勢が幕府にとって、ひいては国家や文化や朝廷にとっても重要な土地だったのでこういった特別な役職がつくられていたようです。
 山田奉行に近いコンセプトの人は《遠国奉行》と呼ばれるのですが、具体的に言うと長崎奉行とか佐渡奉行、堺奉行と呼ばれるあたりの人。

山田奉行所記念館/伊勢市

 ちなみにこの山田奉行。伊勢神宮のあたりにいます。
 一方で後の8代将軍となる徳川吉宗氏。紀州藩の藩主です。

 お隣(?)ですね。

 忠相と吉宗がこの時〝仲良し〟になっていたかは微妙ですが、山田奉行と紀州藩が領地の線引とかで〝やりとり〟をしていたのは事実のようです。
〝やりとり〟と言うのは包み隠さず言うと領地争いの〝裁判〟なのでちょっと剣呑な話です。
 もっともどちらも幕府にとって大切な存在なので流石に「領地を! 多くよこせ!」みたいな勢いではなかったらしいですが。

 そういう事情なので、一部には
《殺生禁止であるはずの伊勢神宮領内で吉宗が狩り(殺生)をしていた。奉行(大岡忠相)はこれを捕らえたが、高貴な方がそんなことをするはずがない。彼は吉宗様の名を語る不届きものである。追放せい――ということで実質無罪放免にした》
 的な逸話があったりもしますが、まあ十中八九は創作です。

 しかし、残りの一、二はと言うと……?

南町奉行 大岡越前

ドラマ大岡越前

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 さて、いよいよ〝あの〟南町奉行大岡越前の時代となる。

 任命されたのは1717年。
 徳川吉宗が8代将軍になったのが1716年のことなので、諸々の儀式が一段落したので実務的な業務が始まった頃合い――とするのが自然だろうか。このあたりはなんとも言えない。

徳川吉宗

徳川吉宗 - Wikipedia

 吉宗と忠相と言えば歴史上でもまあまあメジャーなコンビであり、ふたりの仕事は《享保の改革》として現在にも伝えられている。江戸幕府が行った3大改革の最初であり、それなりに成功しているものである。今でも日本史の教科書には太字で載っているのではなかろうか。


《享保の改革》では何が行われたか?
 雑に挙げると《足高の制》《上米の制》《輸入緩和》あたりがポイントか。
 細かいところでは治水、税制の変更(五公五民)などが挙げられる。

 忠相が関わっているところは多く、《目安箱》はちょっと微妙かもしれないが《改鋳》《相対済令》には密接に関わっているだろうし、《公事方御定書》は編纂に関わっている。
《新田開発》とも関わりが強い。南町奉行という役職はそのまま、《関東地方御用掛》という肩書も追加され功績を残している。
 この《関東地方御用掛》というのがクセモノ(?)で、最初は北町奉行と南町奉行(越前)のふたりに任命されていたものが開始1年かそこらで北町奉行が奉行職を辞職。同時に関東地方御用掛も辞めたので実質越前ひとりでやっていたとのことである。

 改革のなかのことで言うと、時代劇によく出てくる《め組》《い組》などの消火組織《いろは四十七組》を編成したのも越前である。
 厳密に言うと越前の時代に起こった出来事で、実際に越前が全てを編成したのかは手元の資料ではわからない。町奉行としてその仕事の責任者的立場にあったことは確かだ。

 やや余談にはなるが、単行本や文庫本などでおなじみの《奥付》を義務化したのも越前である。



 1600年に江戸幕府が成立してから100年が経過した1700年代。

 この頃になると脱乱世のなかで撒かれた文化の種が花開き《元禄文化》が形成される。松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳、井原西鶴といった伝説的文化人が活動していた時期である。

 文化が花開くのはいいことだが、政治と経済に問題が無かったわけではない。特に経済の点で言うなら、幕府の財政は健全とは言えなかった。そこで発生したのが先の《上米の制》で、これはお金(米)をおさめれば義務(参勤交代)を緩和するよという対症療法的政策であった。

 そういった時代に、忠相は吉宗の片腕として江戸や関東の内政、治安維持に勤めた。
 幕政に関わった人物、そのなかで歴史に名を残した人物というのは多数存在しているが、任務や役職を仰せつかりながら達成し、そのまま平穏無事に勤め上げたという人物はあまりいない。

 忠相の町奉行時代には、そういった汚点らしきものは見当たらない。
 もちろん人間であるからにはミスや間違いもあっただろうが、私服を肥やしたなどという話は出てこない。

 町奉行大岡越前の残した功績は多いかもしれないが、あるいはこの点を最も評価すべきなのかもしれない。そのへんは気の利いた学者や小説家であれば1、2回は指摘していそうな点ではあるが。

寺社奉行 大岡越前

 さて、人生は実は続くのである。忠相は町奉行として功績を残し、生涯現役で名奉行としてその生を閉じた――わけではなかった。

 1736年。忠相は寺社奉行に出世する。理由は、実はわからない。ただの出世かもしれないし何かきっかけがあったのかもしれない。
 その後の忠相は書類編纂などに従事するより内政官的存在になった。
 出世、加増はあったが官が変わったわけではないので《大岡越前》の名は健在だった。このへん、武士という存在、幕府という組織のよくわからない点ではある。

時代劇ドラマにしろ時代小説にしろ〝寺社奉行モノ〟はあまり見かけない

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 忠相が町奉行であった時期は1717年から1736年まで。
 寺社奉行であった時期は1736年から1751年まで。
 町奉行時代約20年に対して寺社奉行時代15年。流石に町奉行時代の方が長いか。


 ここでちょっと妙な話が出てくる。なんと忠相、寺社奉行時代にいじめを受けていたらしいのである。

 詳細はこう。
 通常、寺社奉行というのは〝大名〟がなるものであった。リストを眺めているとわかりやすく、歴代寺社奉行は松平、堀、板倉、阿部、水野、酒井、本多……と戦国時代や江戸初期の幕政によくある名前が並んでいる。つまるところ家康の家臣の家系なのである。

 家臣の家系という意味では忠相も該当していた。
 大岡忠相の祖先は大岡忠勝。これは徳川家康の父、松平広忠の家臣であり、《忠》の字はこの主君の名の一文字に由来している。譜代も譜代、ある意味では最古参の家臣と言える。

 ので、条件としては寺社奉行にかなっていた。血筋としての問題は無い。
 だが序列格式に問題があった。忠相は〝大名〟ではない。将軍にかわいがられて出世している、いわゆる成り上がり者なのではないか? と。

 だがそんなことを表立って言えるわけではない。
 ただ忠相の微妙な立場を裏付ける証拠のようなものもあった。忠相は《奏者番》という身分が無いのである。

《奏者番》というのは肩書のひとつで、礼儀作法を管理したり、時としては幕府の使者という形で各地に派遣される外交官でもある。
 寺社奉行は奏者番にも名を連ねているのが通例であった。ただ奏者番も基本的には〝大名にしかなれない〟のである。格式大名である忠相は、例外的に寺社奉行には任命されたものの奏者番には任命されていなかった。


 前置きが長くなってしまったが、そろそろ結論をまとめよう。

〝寺社奉行に異例の抜擢をされた大岡越前は、寺社奉行としての権限は持っていたが他の寺社奉行が持っている《奏者番》の権限を使えなかったため寺社奉行控室(本来は奏者番のための部屋)を使わせてもらえなかった〟

 店に働きに来たのにロッカーやバックヤードが使わせてもらえなかったり、テレビの収録に来たのに控室が用意されていない――というようなものである。《本来与えられるはずの控室が与えられない》という状況なのでもうちょっと事態は重くはあるが。

 こんないじめにも耐えて、忠相は寺社奉行としての責務を全うする。
 その全うぶりと言ったら町奉行時代と似ており、幸か不幸か〝忠相が控室に入れないことに数年間吉宗が気付かなかった〟ほどである。
 流石に「暴れん坊将軍」のように気軽に会って話せる仲ではなかったと思うが、自分のつらさをひた隠しにして職務に励む忠相があまりにも憐れであり健気である。


 さて。事態に気がついた吉宗は忠相のため(?)にちゃんとした〝寺社奉行用の詰所〟を用意します。働き方改革って大事。
 ただ、さらにその数年後、忠相は加増を受けて正式な大名に出世。

 奏者番権限有無の件はこの時に解消されたのかなあなあになったのかは特に書かれていない。
 またこの時期に罷免されたらしい寺社奉行がいなかったので忠相をイジメていた人物たちに大きなお咎めは無かったのかもしれない。
 流石に幕政の中心部なのでそんな微妙な理由で大罷免事件が起こっても問題ではあるが。


 微妙に話題がズレるが、ここで忠相と同時期に寺社奉行であった人物の名前を挙げておこう。

 忠相が寺社奉行達にいじめられていたのが事実だとしたら、犯人はこのなかにいるはずだ。

 このリストを眺めているとわかることは他にもあり、どんな事情かはわからないが1734年と1735年、あわせて5人の寺社奉行が辞めている。
 いずれも寺社奉行歴で言えば2年程度の人材なので何か特任的存在だったのかもしれないが、少し気になるかもしれない。
 そんなごたついたところに忠相が抜擢されたのだとしたら何かと目立ってしまうのもある程度仕方の無いことだったかもしれない。

晩年 大岡越前

 大岡越前は1677年生まれ。徳川吉宗は1684年生まれ。
 君臣にはさほど珍しいことでもないが、吉宗の方が7歳ほど年下である。

 その吉宗が、忠相よりも先に亡くなった。1751年のことである。享年68歳(現代の数え方で言うと66歳)であった。現代の感覚で言うとやや早い逝去だった気もするが、当時のことや将軍職のことを考えると長生きした方であろう。


 忠相はいまだ寺社奉行であったが、吉宗の葬儀の手配をする一派に加えられており、その任も勤め上げ褒美を与えられている。吉宗は晩年、中風や麻痺を患っておりそのリハビリもしていたらしいから、あるいは覚悟のようなものはできていたのかもしれない。
 そして忠相は、吉宗の葬儀を前にしてひとつの日記「大岡日記」を止めた。

 吉宗が亡くなってから半年後の1751年12月。忠相も75歳で死去した。
 11月に申請をし、寺社奉行の辞任は許されたが奏者番の辞任は許さなかった。
 奏者番についてはさておき、ついに忠相は町奉行職も寺社奉行職も、大過なく勤め上げたということになる。

 そのあまりにもあっさりとした引き際と鮮やかさは少しさみしい気もするが、気取ったところがなく、幕政の内政官に徹した大岡忠相という生き方のことを思うと、似合っているのかもしれない。

大岡忠相が眠るとされている浄見寺

大岡忠相 - Wikipedia

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