ジョーン・バエズはフォークロックの草創期から、今なお活動

1961年の頃のジョーン・バエズ

幼少期のジョーン・バエズ
父親のアルバートは物理学者であるが、当時としては珍しく、軍需産業への協力を拒否し続けていて、こういった父の毅然とした態度は、娘ジョーン・バエズが歌手となっても貫き続けた公民権運動や反戦運動に対する考え方にも相通ずるものがある。
海外生活で培われた正義感!!

イラクにいた頃のジョーン・バエズ
つまり、米国では絶対見れない光景ー動物を人が見ている前で叩き殺したり、乞食がゴミ箱で食い物をあさったり、足を失った子供たちがダンボールの上に乗ってズルズル引きずり回しながら物乞いをしている姿などなど、-子供心にさえも見るに耐え難いものであったのであろう!!
肌の色による差別を体感!!

14歳の頃のジョーン・バエズ
ジョーンはラテン系と白人系のハーフになるが、見た目は白人というよりはラテン系が強く現れていたため、白人には”有色人種”扱いをされ、また、スペイン語をうまく話せなかったため、ラテン系には”白人”扱いされるようになり、差別を体感するようになった。
そんな折、彼女を癒したのが「音楽」であった。彼女は合唱団に入り、ソプラノ・メゾソプラノ・アルト・テノールの各々パートを必要に応じて、すべて担当していたそうだ。また、ピアノやギター演奏も習得していた。当時の米国で人気の音楽と言えば、カントリー&ウェスタンとリズム&ブルースで、彼女はその音楽で使用されるコードの殆どを中学校の時にマスターしたそうだ。

The First Lady of Folk - 1958-1961 ジョーン・バエズ
同アルバムは「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏された物であった。
ほどなくして、1961年9月発売の『ジョーン・バエズ Vol.2(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『ジョーン・バエズ・イン・コンサート 』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した
公民権運動・反戦運動にのめり込んで行く!!

1966年頃のジョーン・バエズ

Any Day Now by Joan Baez

USA・ニューヨーク公演(2016年3月)

Whistle Down the Wind
でも、暫くたってまたやむにやまれず復帰しそうですが・・・(小生の希望も含めて)