エリザベス・テイラーを知らない人のための基礎知識!!
若かりし頃のエリザベス
エリザベスの”まつげ”と”瞳の色”は天が彼女に与えた贈物!!
第二次世界大戦の火の粉を避けるため米国に!!
1940年(8歳)ごろに撮影されたテイラー
第二次世界大戦が勃発する直前に、両親は戦火を避けてイギリスからアメリカへと戻ることを決め、母サラと二人の子供が一足先にニューヨークへ1939年4月に到着した。父は残務処理のためひとり残り、11月になってからやっと帰国した。一家はカリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着き、父フランシスはイギリスから持ち込んだ多くの絵画を展示するアート・ギャラリーを建てて、すぐにこのギャラリーは現代ヨーロッパ絵画を好む多くの著名なハリウッド関係者たちの間で評判になったりもした。
移り住んだ所が”微妙”ですな!!こりゃあ策略の”におい”がぷんぷんするんですけど・・・??
母の夢を託された娘エリザベス!!
1944年(12歳)に撮影されたエリザベス
自分の果たせなかった夢を娘に託していた母親の奔走で、エリザベスは1942年のユニヴァーサル映画“There's One Born Every Minute”の端役で映画デビューを果たした。悪名高きゴシップ・コラムニストにして、ハリウッドのご意見番でもあったヘッダ・ホッパーの口添えもあり、名犬ラッシー・シリーズの代役を探していたMGMと、翌年には7年契約を結んだ。当時のハリウッドで活躍していた少年・少女スターと同じように、スタジオ内にある学校に通いながら、エリザベスはその名犬ラッシー・シリーズの1作である「家路」(1943年)で実質的な銀幕デビューを飾った。以降は、「オーケストラの少女」の大少女スター、シャーリー・テンプルの次世代スターとして、「緑園の天使」「若草物語」「花嫁の父」等に出演し、大々的に売り出される。しかしエリザベス自身の美貌は、幼い頃から大人の女性顔負けの妖しい色香を放っており、シャーリー・テンプルなどの“子供子供”した少女スターたちとは、はっきりと一線を画していた。実際、その大人びた風貌が、子供スターとしてではなく、むしろ心身ともに大人の女優になってからのエリザベスに、大きな成功をもたらしたといっていい。
1945年に撮影されたテイラーの宣材写真
子役から女優へ!!
スペンサー・トレイシーと共演した『花嫁の父』の宣材写真。
1950年代は、エリザベスにとって“子役”からの脱却の時期であり、彼女のキャリアの節目、あるいは転換期となる重要な作品群が続いた。『花嫁の父』を筆頭に、セオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」の再映画化であり、ジョージ・スティーヴンスが監督、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラー、シェリー・ウィンタースが主演した、シリアスかつ暗鬱なドラマ『陽のあたる場所』等で順調に子供から大人への脱皮に成功したのだ。
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この映画の魅力の一つは、やはりエリザベス・テイラーの美貌による所が大きいと思う。ただ、彼女はお嬢さん役なので、見所は、この映画で唯一、主演でアカデミー賞にノミネートされたシェリー・ウィンタースの名演にあると思うのだが・・・?。
単なる美人”女優のレッテルをはがすべく!!
1950年頃と言えば、大人の役をこなすようにはなったが、反面、自身に振られる配役に対して徐々に不満を持つようになっていった。テイラーが望んでいたのは、もっと存在感のある役であるが、どちらかというと愚かしく、記憶に残らないような映画への出演しか認められなかった。そして50年代後半からは、今度は“単なる美人”女優のレッテルをはがすべく、充実した出演作が並ぶようになる。
『雨の朝巴里に死す』のエリザベス 1954年
エリザベス・テイラー - Wikipedia