オードリー・ヘップバーンを知らない人のために!!

『ローマの休日』(1953年)予告編より

The Audrey Hepburn Treasures (英語)より
オードリーはベルギーで生まれたが、父の関係でイギリス、そして母の実家がオランダだった事から必然的に、ベルギー・イギリス・オランダの3カ国を頻繁に行き来するようになる。そのため、オードリーは英語・オランダ語・フランス語・スペイン語・イタリア語を話すことができたようだ。(語学が堪能で、うらやましい限りだ!!)

オードリー・ヘップバーンのレッスン中の写真
プリマドンナの夢よりも、食べるために舞台・映画の道へ!!
オードリーはイギリスで舞台に立っていた頃、数本の映画にも出演している。理由の一つに成長期に患った呼吸器疾患が原因なのだろうか、舞台上では通りにくい声だと自覚をしていたオードリーは、映画の脇役の仕事も増やしていきました。
それからもう一つの理由として、大好きなバレエのプリマドンナとして家計を支えるには、ほんの少し背が高かったのだ。戦争が終わりはしたが、景気はどん底状態で女が一人で生きて行くためには”手段”を選ぶことはできなかったのだ。要は”食べるためには手段を選ばず”だったに違いない。
1951年にはオードリーが映画の撮影中、たまたまコレット女史(フランスの女性作家、コレット (Colette) というペンネームで活動し、代表作のひとつに『ジジ』 (1944年)がある)と出会い、米国のブロードウェイで舞台化される予定だった戯曲『ジジ』の主役に抜擢されたのだった。

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ローマ市内をベスパで走るシーン
オードリー人気は”うなぎ”登り!!

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ウィリアム・ホールデンとオードリー・ヘプバーン
オードリー人気は揺るぎないものに!!

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『戦争と平和』の一場面。1956年。
10年以上もハリウッド・トップ女優として君臨し続けたオードリー!!
オードリーが出演した映画は、コメディー、サスペンス、ミュージカル、文学作品、等等、ジャンルを問わず殆どの娯楽作品に出演していて、彼女はまさに”オールラウンド・プレーヤー”だろう。(SFには出ていないような・・・??)このような女優の作品をいちいち説明してたら、らちが空かないので、少々割愛することにするが、最後に私が愛して止まない映画『マイ・フェア・レディ』を皆さんに紹介しよう。

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彼女はやがて、上流階級の貴婦人として競馬場へ赴き、社交界に華々しくデビューする。ところが、淑女らしさにますます磨きをかけていたある日、ヒギンズの研究対象にされていたことを知り、ショックを受けたイライザは彼のもとを去ってしまうのだが・・・

『マイ・フェア・レディ』(1964年)の撮影現場。
ジュリー・アンドリュース主演のブロードウェイの映画化だが、映画ではオードリーだった。ジュリーなら当然自分で歌っていただろうが、オードリーはマーニ・ニクソン(「王様と私」のデボラカー、「ウェストサイド物語」のナタリーウッド等の吹き替えも行った)により吹き替えられた。しかし、本人がテストで歌った貴重な映像が残っている。この年のアカデミー主演女優賞は"メリー・ポピンズ"のジュリー・アンドリュースが取り、本作で役を取り上げられた同情票も影響しているのと、吹き替えではなく本人が歌っていたことが大きく作用したと言われている。
映画『マイ・フェア・レディー』がアカデミー賞の主要部門を総なめする中、ライバル候補のジュリー・アンドリュースに主演女優賞を奪われる形でオスカーを逃してしまったオードリーの悔しさは相当なものであったらしく、授賞式後に周囲に激しく八つ当たりする映像が残っているという。
「女優は主演男優に好意を抱くもの!!」なのか??
この記事の冒頭部分でちょっとオードリーの幼少期については話したが、要するに金銭的には不自由はなかったようだが、家庭的には父親の失踪や厳格な母親の下での束縛教育、また戦争による疲弊で、内心ではかなり暖かい家庭のある生活を望んでいたに違いない。求めても得られなかったおだやかで安定した愛情と家庭。結婚願望も強かったオードリーは年上で頼れる相手と何度も恋に落ちている。オードリーは1952年に舞台で知り合ったジェイムズ・ハンソン (en:James Hanson, Baron Hanson) に一目惚れし、婚約までいった。しかし2人の仕事があまりにもすれ違ってしまうため、オードリーの判断で破局に至った。他にもミュージカルのプロデューサーのマイケルや、ローマの休日で共演したグレゴリー・ペック、既婚者だったハンフリー・ボガートなどと噂になったが、いずれも結婚に至ってはいない。オードリーの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。

『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年

ヘプバーンとアンドレア・ドッティ
「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」とはオードリーが1954年の雑誌インタビューで語ったとされる。この言葉が女優という職業の特性を最も端的に表していると思う。日本場合も然りで、共演した男優・女優がそのままゴールインしているケースが実に多いことが分かる。
少女時代に体験した家庭崩壊と戦争が、後年のユニセフ活動の原点
第二次世界大戦での悲惨な戦争体験をしていたこともあり、オードリー・ヘプバーンは積極的にチャリティ活動を行う意志が固い人物だった。オードリー自身も第二次世界大戦後、ユニセフの支援を受けたことが親善大使になったきっかけの1つだとも言われている。子供たちのためのユニセフの支援を1954年に開始したオードリーは自らの目で発展途上国の現状を知るために様々な国へ足を運ぶようになる。そこで目の当たりにした劣悪な環境や悲惨な状況に大変ショックを受けたそうだ。
晩年様々な健康問題を抱え、段々と表舞台に出る機会が少なくなっていったオードリーだが、1988年には、オードリーはユニセフの親善大使に任命されることになり、亡くなる1993年までその任が解かれることはなかった。