今回の記事は、こちらの書籍を参考に作成させていただきました。
CHAGE&ASKAインタビュー記事。

今回は、CHAGEさんへのインタビューからご紹介します。
コニー・フランシスが音楽の原点。

コニー・フランシス「コニーと歌おう」。
Amazon | コニーと歌おう~日本語盤ヒット・アルバム[LPレコード 12inch] | コニー・フランシス | ミュージック | 音楽
CHAGEさんは、このアルバムを幼少の時に聞いて、今でも覚えているそうです。
「外国の人が日本語で歌っている」というところがすごく好きである、と語っています。
コニー・フランシスさんの歌声を聴いたことがあまりないので、コニー・フランシスさんご本人の日本語かわからないのですが、こういう曲が幼少期のCHAGEさんの音楽性を養ったのですね。
祭りに没頭する小学生時代。
CHAGEさんの産まれたのは福岡県の小倉。小倉では7月に「祇園太鼓」という大きな祭りがあり、6月くらいから練習が始まるそうです。
CHAGEさんは3歳くらいの時に、町内の公園で太鼓を披露し、それを見た大人がやんややんやと盛り上げていたという逸話があるそうです。本人は憶えていないそうですが・・・。
やはりこういう、他の子供にはないリズム感のようなものがあったのかもしれませんね。
大物には多分、こういう逸話が必ずあるのかもしれません。
変わり者のおじさんにつられ、ゴジラがビートルズに。
CHAGEさんのおじさんは一風変わった方で、部屋中がビートルズのもので占められている、ビートルズのマニアだったそうです。
CHAGEさんは、そのおじさんに「ゴジラの映画を観に行こう」と言われ連れていかれましたが、おじさんが連れて行った先は、「ビートルズがやって来る!ヤア!ヤア!ヤア!」という映画だったそうです。
言われるがままに観たその映画は、この天才に何か大事なものを記憶させたのでしょう。
音楽に出会ったのは中学時代の井上陽水さんの世界から。
中学生の時に、井上陽水の音楽に出会います。
当時のフォークソングの世界は、反戦、社会風刺のものが多かったのですが、井上陽水の世界はラブソング。
ここで、「好きな人に伝えるのは歌でできるんだ」という思いが生まれます。
しかし、どっぷり音楽だけにのめり込むのではなく、サッカーもやったし、女友達にも行くし、バイクにも大いに興味がある、多趣味な中学・高校生活を送ります。
CHAGEさんの作る音楽は、「純粋な美しい」流れというよりは、「アバンギャルド」というのか、「ファンキー」というのか、なかなか表現は難しいのですが、「型破り」的な感じの曲が多いと思うのですが、それは、この学生時代にいろいろなおもしろいことを経験してきて、その結果が作風に表れているのかもしれません。
次男坊だからこそできた?自由奔放な性格。
CHAGEさんは一家の次男として生まれました。
家族は、長男は本家の跡取りとして、絶対にサラリーマンにするぞ、と決めて育ててきました。
一方、次男坊であるCHAGEさんには、自由奔放な活動を認めていました。
CHAGEさんも、「兄貴は俺がうらやましかったと思う。」と述べています。
この時代の宿命のようなものかもしれません。
CHAGEさんは、相当なヤンチャぶりで、お兄さんの作ったプラモデルに、ベンジンをかけて燃やしたりしていたそうです。
そして、お兄さんの机を勝手に開けて、「今すぐ弾けるギター」といった本を勝手に読んで、勝手にギターを弾いていたそうです。
中学生の頃には博多に転居し、高校時代を博多で過ごし、そこで文化祭でひょんなことから新聞部に入り、「フォーク喫茶」をやります。
そこでひとつの出来事が起こります。
「第一」つながりで・・・。
CHAGEさんは別に新聞を作りたかったわけでは全然なくて、学園祭でバンドをやりたい、しかし「部活」でないと学校からお金が出ない。そこで廃部同然だった新聞部を乗っ取り、新聞は適当に作りながら、バンドを教室でバンバンやっていたそうです。
新聞部で好き勝手やっていたCHAGEさんは、福岡第一高校という高校に進学していました。
そこで、全国の「第一」とつく高校の新聞部に、「お前の高校の新聞を送れ」という手紙を出したそうです。
その中に、ASKAさんのいた「札幌第一」高校があったという、すごい偶然性が起こります。
しかも、その後、父親の北海道の転勤から故郷の福岡に転勤で戻った時に、ASKAさんも福岡第一高校に転校してきます。
CHAGEさんが教室でバンバン練習している隣の教室で、やたらどでかい声を出す人がいて、CHAGEさんは「誰なんだろう」と思ったのが、後のASKAさんでした。
こうして、ASKAさんとの接点ができたんですね。

CHAGE&ASKAの礎を作った福岡第一高校。
都築学園 福岡第一高等学校
大学へ進学。
2人はエスカレーター式に第一経済大学に進学。
そこでまた偶然の事件が起こります。
2人はともに音楽部に入部しますが、入部してすぐはASKAさんとの接点はありませんでした。
ASKAさんは一人で他の大学に行くなどして単独活動が多かったのですが、音楽部の先輩が部費を使い込み、他の先輩は責任を取って退部し、CHAGEさんとASKAさんの世代が資金面も含め、一から立て直すことになります。
そこでASKAさんとの強い接点が出来上がります。
教科書代を払わなかったことで留年に。
しかし、CHAGEさんの「いい加減」な性格は残っていて、体育理論の教科書代としてのお金を使ってしまい、払わなかったそうです。
それを教授が激怒して、いくら懇願しても単位をくれず、ここまで自由奔放な行動を許してきたCHAGEさんのお父さんの堪忍袋の緒が切れました。

体育理論の教科書(イメージ)
楽しい体育理論の授業をつくろう | 佐藤 豊, 友添 秀則 |本 | 通販 | Amazon
大学なんて辞めて、寿司屋を継げ!!。

CHAGEさんは寿司屋になる運命だった。
カウンターのお寿司屋さんのイラスト「へいお待ち!」 | かわいいフリー素材集 いらすとや
お父さんが激怒して、「ここまでいい加減なヤツだとは思わなかった。もう十分遊んだんだから、大学なんか辞めて、寿司屋を継げ!丁稚奉公から始めろ!」と、引導を渡されます。
ちょうどその時・・・。
ちょうどその時、ASKAさんがCHAGEさんに無断で、勝手に「面白い奴がいるから」と、ポプコンに応募してしまいます。
CHAGEさんはお父さんに、「1週間待ってくれ。1週間後にコンテストに出るから、それで落ちたら寿司屋をやる。」と懇願します。
しかし1週間ではさすがに何もできません。CHAGEさんも受かるなどとは思っていなく、俺の人生は寿司屋になるんだと、心を決めました。
「悪い!グランプリ取った!諦めてくれ!」。
この第15回ポプコンの福岡地区大会で、友達の彼女が選んだ、「夏は過ぎて」で、戦いに挑みます。しかし、終わって各賞の発表の時でも、CHAGEさんは賞をもらえるとは思っていないので、「はいはい、明日から寿司屋やります。」という心境だったとのことです。
そしてASKAさんが「最優秀歌唱賞」を獲得する快挙を見届けた後、「さあ、飲みに行くか」と帰り支度を始めた時、なんとCHAGEさんがグランプリを獲得します。
これで寿司屋の道が消えました。すぐにロビーでお父さんに電話し、「悪い!グランプリ取った。諦めてくれ!」と。
その後のCHAGEさんの活躍は、皆さんご存知の通りです。
このアルバムの7曲目に「夏は過ぎて」が収録されています。
博多は日本のリバプールか。
CHAGEさんのインタビューから引用させていただきます。
今更語るまでもなく、CHAGEさんの音楽の道を導いた井上陽水さんをはじめ、数々のアーティストを輩出している福岡という街。
本当に不思議な街だと思います。日本のリバプール、という表現がぴったり合っていると思いますね。
今、CHAGEさんは何を思う・・・。
1998年にシングル「トウキョータワー」でソロデビューしたCHAGEさん。
今年2018年、ソロデビュー20周年を迎えます。
2018年5月2日に、こちらの公式動画がアップされているようです。
相方のASKAさんもソロ活動を再開した今、ASKAさんの薬物問題を経たCHAGEさんは、何を思うのか・・・。
それはCHAGEさんにしかわかりません。