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青春の選択(Stay Hungry)
1976年6月、映画「青春の選択(Stay Hungry)」が公開された。
この映画でアーノルドは主役ではなかったが、ゴールデングローブ賞(ハリウッド外国人記者協会選出)新人賞にノミネートされた。
彼のスーツやワイシャツは仕立て屋があつらえなくてはならなかった。
ジーンズでさえ1本150ドルでつくってもらった。
アーノルドはサンタモニカにアパートを何軒か所有しそのひとつに住んでいたが、そこで新聞の取材を受けた。
彼の部屋にはサンタモニカ桟橋に使われていた木材でつくった家具があり、記者に出されたコーヒーカップは花瓶のように大きかった。
銃のコレクションや「ボディビルなしに国家建設はあり得ない」と書いた盾が飾られていた。
「僕は統率者となるべく生まれてきたんです。
子供のとき有名になりたいと思い、独裁者かキリストのような救済者になりたいと思っていました」
と語った。
1976年9月18日、オハイオ州コロンバスで開催したMr.オリンピアで、アーノルドは初めて興行を執り行った。
20ドルのチケットで3944席の会場は満席になった。
スタローン
1977年1月、第34回ゴールデングローブ賞の授賞式がビバリーヒルズヒルトンホテルで開催された。
受賞者は「キングコング」のジェシカ・ラング、「マラソンマン」のローレンス・オリビエ、「ネットワーク」のフェイ・ダナウェイ、「スター誕生」のバブラ・ストライサンド、そして「青春の選択」のアーノルド・シュワルツェネッガーなどだったが、最も注目を浴びたのは主演男優賞を逃したシルベスター・スタローンだった。
彼の「ロッキー」は最優秀作品賞に選ばれた。
この映画の裏には勇敢なサクセスストーリーがあった。
プロボクシングのモハメド・アリとチャック・ウェプナーの試合をみて感動したスタローンは、帰宅するとすぐに「ロッキー」を書き始め、3日半で脚本を仕上げた。
そしてニューヨークの貧民街からハリウッドに乗りこんで
「脚本は買うが君はいらない」
というプロデューサーと対決。
30万ドルの脚本料を蹴って自分が主演するということに持ち込んだ。
少ない製作費でつくられた「ロッキー」はアメリカに強い感動を与え大成功を収めた。
授賞式でアーノルドとスタローンは話すことはなかったが対面した
アーノルドは1歳上のスタローンに強烈なライバル意識を持った。
いつか最強はどちらか決めてやろうと思った。
Pumping Iron(鋼鉄の男)
ゴールデングローブ賞の授賞式直後の1977年1月18日、映画「Pumping Iron(鋼鉄の男)」が公開された。
数日後、ジミーカーターがアメリカ大統領となったが、アメリカの英雄はアーノルドだった。
新聞、雑誌、ゴシップ、食事の席でアーノルドの話が出ないことはなかった。
悪魔的傲慢さと誠実、無邪気さ、そして強さと自信を併せ持つアーノルドはアメリカの偶像となった。
アーノルドは、ベンツ社とBMW社から車を、オーストリア航空からは友人50人とのスキー旅行を贈呈された。
100ドル紙幣しか持たずに高級ホテルに宿泊し超一流レストランで食事した。
ウィーンの友人に「鋼鉄の男」の試写をみせようとしたら、配給会社が貸し出しを渋ったためアーノルドは
「カンヌ映画祭をボイコットする」
と脅してプリントを手配させ無事友人に観せることができた。
スー・モレー
1977年7月、アーノルドはベニスビーチでスー・モレーという女性と知り合った。
22歳のスーは友人とローラースケートをしていた。
アーノルドが話しかけると
「誘惑しているの?
あなたってビーチの街婦だわ」
といわれた。
アーノルドは驚いてみせて
「街婦じゃないよ、俺は。
街婦というのは売春婦のことだよ」
と返した。
「街婦はお金をとらないのよ。
売春婦はお金をとるけど」
とスーがいうとすかさず
「じゃ俺の家に行って辞書で調べてみようよ」
と切り返したが断られた。
スーは代わりに近くの本屋で調べてきてアーノルドが正しかったことを告げた。
アーノルドはスーの電話番号を聞き手帳に書き込んだ。
そのとき名前の横にローラースケートと書き添えた。
アーノルドの手帳には女性の電話番号の横に「黒髪」とか「巨乳」と書いてあった。
4、5日後、2人はデートしレストランに行った。
そこのウエイトレスはアーノルドと付き合っていたことがあり、新しい恋人を見せびらかすためにアーノルドはそのレストランを選んだ。
スーはビバリーヒルズのビダルサスーンの店で働いていたがアーノルドのトレーニングするゴールドジムの近くのサロンへ移り同棲を始めた。
遠征の旅にに出る前、アーノルドは2人の関係についてスーに約束させた。
アーノルドがいるときはスーは彼のアパートに住みお互い浮気をしない。
アーノルドが遠征するときは自由にする。
他の人とデートしたければしてもいい。
ただスーも誰とデートしてもいいがボディビル選手だけはダメ。
そしてアーノルドが遠征から帰ってきたとき、スーが他の男性とデートしたことを告げた。
するとアーノルドは怒り狂った。
アーノルドは自分が誘った女の子はみんなスーに似ていたからスーのことを思い出していたのに、スーがデートした男性は俺に似ていないと主張したのだ。
「あなたにそっくりの人なんていないわよ!」
やがてこのルールに慣れた2人は互いのデートを詳細に報告し合うようになった。
そして2人は燃えた。
ケネディ家
1977年8月、ニューヨークから帰ってきたアーノルドはロバート・F・ケネディ杯テニストーナメントのポスターを持ち帰り、それを2人の寝室には貼った。
そしてスーに故ケネディ大統領の姪のマリア・シュライバーに会ったことを話した。
映画スターとなったアーノルドは名士が集うパーティーにも出席していたが、ロバート・F・ケネディ杯テニストーナメントも招待状を手に入れ出席した。
そしてさらに週末をマサチューセッツ、ヒアニスポートのケネディ家の屋敷で過ごすことになった。
家に着くとケネディ家とシュライバー家がそろって教会に出かけるところだった。
アーノルドはローズ・ケネディと散歩をした。
アーノルドは、オーストリアの音楽、美術、オペラ、歴史をドイツ語で話すローズ・ケネディに驚き、強くて野心がある男性が好きなローズ・ケネディはアーノルドに好感を持った。
ローズ・ケネディの夫でありジョン・F・ケネディの父であるジョー・ケネディは8年前に亡くなった。
祖父がアイルランドからアメリカに移住してきてからジョーは3代目。
ハーバード大学卒業後、銀行検査官となり銀行の業務、財産の状況について検査を行った。
父親が大株主だったコロンビア信託銀行が他銀行に乗っ取られそうになったとき、親族や友人から金を借りて他の株主の株を買い取り乗っ取りを防いだ。
この功績から、25歳でこの銀行の頭取に選ばれた。
またボストン市長:ジョン・F・フィッツジェラルドの長女:ローズと結婚した。
第一次世界大戦が始まると、徴兵を合法的に免れるために義父のコネでベスレヘム・スチール社の造船部門の支配人補佐となった。
そしてここで海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルトと知り合った。
休戦7ヵ月後、ベスレヘム・スチール社を辞め、ヘイデン・ストーン社(Hayden, Stone & Co.)という老舗証券会社に入り株式売買業務を始めた。
そして自身も株式市場や不動産・動産投資で莫大な富を築いた。
今の基準でいえば完全にインサイダー取引にあたるものも多く、内部情報の取得の仕方にも問題があった。
1929年、株が大暴落したとき、ジョー・ケネディは暴落を予期して直前にほとんどの株を売り払っていたため被害を受けなかった。
そし株で得た資産を映画産業に投資した。
当時の映画業界は、ハリウッドに小さな映画会社が乱立している状況だった。
ジョーは経営困難に陥っていたFBO(Film Booking Offices of America)という映画会社を150万ドルで買収。
さらにKAO(Keith-Albee-Orpheum Theaters Corporation)を買い取り、パテ・エクスチェンジ社という会社の顧問にも就任した。
そしてFBOとKAOを合併させ、新たにRKO (Radio-Keith-Orpheum)を発足。
その過程でRKOの株をつかってさらに稼いだといわれる。
禁酒法時代にはマフィアと組んで酒類の密輸で稼いだが、禁酒法が廃止されるとサマセット社(Somerset Importers)という会社を立ち上げて、ジンとスコッチの販売網を独占して大儲けした。
またレストランやビルなど不動産にも投資したが、当時世界最大のビルだったシカゴのマーチャンダイズ・マート(Merchandise Mart)ビルも買い取った。
ウォール街とハリウッドで成功を収めたジョーはついにワシントンに進出した。
1932年の大統領選挙に打って出るフランクリン・ルーズベルトに資金援助を申し出、また新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをルーズベルト支持に引き込んだ。
大統領当選後、ルーズベルトはジョーに新設された証券取引委員会(SEC)初代委員長に任命した。
証券業界における不正を根絶し健全な株式市場になるよう監視、コントロールする委員会の委員長に悪名高いジョーが任命されたことに人々は驚愕した。
しかし毒が毒を制したのか、証券取引委員会の活動は高い評価を得た。
