ジョジョのポルナレフだって元ネタはこの人
ジャン=ピエール・ポルナレフと間違えてここを開いちゃった人のために。
元ネタはミッシェル・ポルナレフだからね。
wikiにもちゃんと書いてあるのよ!
日本ではミッシェルなミシェル・ポルナレフ

2007年パリ フランスでの完全復活コンサート
ミッシェル・ポルナレフ - Wikipedia
フランス語の発音ではMichelはミシェルなんだけど
日本では長年「ミッシェル」と呼ばれたり表記されたりしたので、
wikiでもAmazonでも「ミッシェル・ポルナレフ」となっています。
音楽家の父、ダンサーの母、本人は5歳から英才教育
父親はウクライナ出身のジャズ・ピアニストで作曲家。
ピアフやイヴ・モンタンにも楽曲を提供していたそうです。
母親はダンサー。
そしてポルナレフ本人は5歳(5歳!)の時から
コンセルバトワールで英才教育を施されていました。
コンセルバトワールとは「パリ国立高等音楽・舞踊学校」のこと。
日本で言うなら「東京芸術大学」てとこでしょうか。芸大は子どもは入学できませんが。
そこに5歳から入って、バリバリにクラシックの勉強をしていき
10代に入った頃にはピアノで優勝したりもします。
ところがそのころ、海の向こうアメリカでは
エルヴィス・プレスリーが音楽シーンを席巻。
ロックのサウンドに目覚めたポルナレフは、
クラシックに対する興味を失い、ピアニストになることを拒否、音楽院を辞めることに。
兵役に行っても不適格者扱いされ、
職を転々としたあと、家を出てボヘミアンな生活を始めます。
フレンチ・ポップスのはじまり
モンマルトルのサクレクール寺院近辺でヒッピー生活をしながら
ストリートミュージシャンをしていたポルナレフ。
やっぱりロックがやりたかったんでしょうね。
ギター一本で英語でのロックの弾き語りをしていたそうです。
ロックの本場のロンドンにも行ってみたものの、あまりぱっとせず
パリに戻ったところで、デビューのチャンスを得ます。
英語で歌いたいという願いは、デビューではかなえられず
デビュー曲「ノンノン人形」は全編フランス語。
だけどこの曲は、のちにレッド・ツェッペリンのメンバーになる
ジミー・ペイジがコード進行を書いており、
1966年シングル15万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
1966年の衝撃的なデビューののち
1970年前半にかけて、ポルナレフはフランスの国民的ミュージシャンになっていきます。
「愛の願い(Love me, please love me)」
「愛の休日(Holiday)」では、念願の英語での歌詞も入り
彼の音楽は、それまでのフランスのシャンソンとは別のものというカテゴライズをされ
「フレンチ・ポップス」と呼ばれるようになりました。
日本での「シェリーに口づけ」のヒット
ポルナレフのヒットした楽曲は、バラードが多いです。
もともとはコンセルバトワールでバリバリにクラシックをやっていた人間。
楽曲の構成や内容、メロディラインからイメージされる曲想は
クラシックの理論に裏打ちされるものが多く、
ポップスとはいいながら、スケールの大きい曲が多くあり
歌いあげるバラードと相性が良かったのでしょう。
愛の休日/ミッシェル・ポルナレフ Holidays/Michel Polnareff - YouTube
そういう意味では「シェリーに口づけ」は
ポルナレフのいつもの楽曲とは全くテイストの違う曲です。
まるでテクノポップのようなノリのいいアップテンポの曲は、
実は「渚の想い出」(発売時は「追わないで」)というシングルのB面でリリースされました。
当時のタイトルも「可愛いシェリーのために」でした。
シェリーに口づけ/ミッシェル・ポルナレフ Tout Tout Pour Ma Chérie/Michel Polnareff - YouTube
なんでこの曲のタイトルが「シェリーに口づけ」になっちまったのか、
wikiにはこう書いてあります。
「可愛いシェリーのために」の時はあまりヒットしなかったのに
「シェリーに口づけ」にしたとたん、40万枚のメガヒットになりました。
奇行の貴公子
「シェリーに口づけ」のジャケットからもわかりますが
当時のポルナレフはひたすらサングラスをかけていました。
(絶対サングラスを外さない3大ミュージシャンは
「エルトン・ジョン、ミッシェル・ポルナレフ、井上陽水」だそうです(笑))
それだけでもかなり奇異ですが、
あれだけきれいなバラードをきれいなピアノで演奏するのに
ステージではサングラスに加え、ギラギラのかなりとんがった衣装でした。
ステージの派手さで言えば、エルトン・ジョンとトントンだったようです。

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1960年代のフランスで、「英語の歌詞で歌いたい」というのも
相当反発をくらったようですが
シングル「君との愛のすべて」では放送禁止用語や露骨な性表現を入れて
発売禁止になっています。
また、1972年のオランピア劇場でのコンサートに先立って
パリ中に貼られたポスターには
自身のケツ丸出しの写真を使い、
フランス当局から逮捕されたりしました。
しかもその後も懲りずに
1973年のコンサートでは、オールヌードで股間を帽子で隠した写真を使用。
フランス当局もあきらめたのか、この時はおとがめなしだったそうです。

右がオランピア劇場のポスター、左はアルバムジャケットにもなりました
Michel Polnareff - Polnarévolution Affiche concert 1972 Jugement rendu le 20 décembre 1972. Le chanteur est condamné à 6.000 amendes de 10 F. Pein… | Pinteres…
1972年に初来日を果たしたときは、日本では大騒ぎになり
ライブの会場で興奮してポルナレフに近づこうと二階から飛び下りたファンが大怪我をし
一般のニュースでも大きく報道されたほどだったのですが
ポルナレフ自身は潔癖症をいかんなく発揮、
「東京の空気は汚れている。酸素ボンベを用意しろ」と発言
スタッフが酸素ボンベを急遽取り寄せたという逸話があります。
その時の写真が、のちのコンピレーションアルバムに使われています。

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アメリカでの失意と、脱税問題と、復活
フランスで国民的歌手となったのち
プレスリーを生んだあこがれの地アメリカに渡ったポルナレフですが
やはりアメリカのミュージックシーンでは注目されることはありませんでした。
1975年、フランス国内での脱税問題が発覚(のちに税理士の責任と審理される)
フランスに入国したら即逮捕という状況で
フランス国内での活動はほとんどできなくなり
本人は自律神経失調症を発症します。
それでもポルナレフの人気はおとろえることはありません。
フランス隣国のベルギーでコンサートを行った際には
1万5千枚近くのチケットの半分はフランスで売れ、
フランスから特別列車で行くツアー企画により、多くのファンがつめかけたそうです。
その後30年以上にわたり、
ポルナレフはフランスではコンサートを行うことはできませんでした。
ですがその間、ポルナレフの楽曲は、
フランスはもちろん、各国のドラマやCMに使われており
2007年のパリにおいて、34年ぶりの復活コンサートツアーが開始されるに至りました。
冒頭の写真は、その時のコンサートのものですね。
「シェリーに口づけ」やっぱり好きですか
「シェリーに口づけ」は
ポルナレフの主流の音楽ではないので
「フランスと日本ではウケる曲が全く違っているのがおもしろいねぇ」と
本人は語っているそうです。
でもこの曲は、トヨタ「ビスタ」やホンダ「ゼスト」のCMにも使われ
2006年からついこの間まで
読売テレビの早朝情報番組「朝生ワイドす・またん!」のオープニングにも使われました。
「タモリ倶楽部」の空耳にも登場していますし
こんなフラッシュ動画もありましたね。
この「トゥートゥートゥマシェリーマーシェリー」で
覚えている人も多いのでは?
どんな形でも、歌が生き残るというのは、すてきだと思います。
ポルナレフの他の曲も、ぜひ聞いてみてくださいね!