アントニオ猪木
1994年5月、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
1998年4月4日、東京ドームでの引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、ドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。
引退のスピーチでは数万人のファンの前で「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。あまりにも有名な「迷わず行けよ、行けばわかるさ」「ありがとー!」の後、10カウントゴングを聞き、リングを降りた。
通算成績はシングル戦 - 612勝41敗50分、タッグ戦 - 1466勝104敗130分。
主な獲得タイトルは東京プロレスでUSヘビー級王座を1回、日本プロレスでUNヘビー級王座を1回、新日本プロレスで世界ヘビー級王座を1回。他多数。
岩崎恭子 1998年9月【20歳】
1978年7月21日生まれ。静岡県沼津市出身。
1992年のバルセロナオリンピック、競泳女子200m平泳ぎで、金メダルを獲得し一躍時の人となった岩崎恭子。
当時は前年の世界水泳選手権やパンパシフィック水泳選手権でメダルを獲得していた千葉すずが、日本の期待を一身に集めており、岩崎は全くの無名の選手であった。
競泳では史上最年少(14歳6日)の金メダル獲得(2011年8月現在も競泳最年少記録)で、日本選手としての五輪メダル獲得の最年少記録でもあった。レース直後のインタビューで「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語った事もインパクトを持って伝えられた。
岩崎恭子(右)
その後、メディアの取材攻勢やストーカー、嫌がらせの電話が続き、練習に集中出来ないばかりか「金メダルなんか取らなければ良かった」と後悔するようになったという岩崎。
記録も伸びず、スランプに陥ってしまったが、それでも持ち直し、1996年のアトランタオリンピックにも出場した。
結果は200m平泳ぎは10位、100m平泳ぎは予選落ちに終わり五輪2大会連続でのメダル獲得はならなかった。
高校卒業後は、日本大学心理学部に入学した。1998年に伝染性膿痂疹を発症した影響から、同年9月の日本学生選手権で現役を引退した。
バルセロナオリンピックの200m平泳ぎ、タイムは2分26秒65だった。これは当時の五輪新記録であり、岩崎の生涯ベスト記録となった。
落合博満 1998年10月7日【44歳】
1953年12月9日生まれ。秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身。
体育会的な風習が嫌いで、高校や大学ではほとんど野球部に在籍していない。しかし、その実力は周囲も認めるところで、高校では試合が近づくと部員達が落合を説得し復帰してもらっていた(通算で計7回入退部を繰り返した)。
その後、社会人野球で頭角を現し、ロッテに入団。同年の誕生日で25歳という遅いプロ入りであった。1982年には史上最年少で三冠王を獲得し、1985年と1986年に2年連続で三冠王となった。日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した。
落合博満
1987年からは年俸1億円プレーヤーとして移籍した中日で活躍し、1993年には史上初の両リーグ200本塁打を達成している。その後、導入されたばかりのFAで巨人へ移籍し、1995年に2000本安打も達成した。
1996年オフに日ハムへと移籍。巨人時代に負った左手首の骨折が影響してか、不本意なシーズンが続き、1998年に現役を引退した。
1998年は開幕こそ4番での出場を果たすが、徐々に出場機会が失われていき、後半戦はほぼ代打での出場となった。チームも優勝を逃し、消化試合となった10月7日のシーズン最終戦に代打で出場。雨の降るスタンドは観客も少なく、数々の記録を打ち立てた打者には寂し過ぎる試合となった。
落合は当日、上田監督からの先発出場の打診を断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選んだという。結果は一ゴロに倒れ、現役を引退した(任意引退ではなく自由契約での引退)。
生涯成績は通算2371安打、510本塁打、打率.311。
首位打者に5回 (1981年 - 1983年、1985年、1986年)、本塁打王に5回 (1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)、打点王に5回 (1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)を獲得している。
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