あの偉大なスポーツ選手達が引退した時って何歳だったんだろう?もう”あの頃”の彼らの年齢を超えてしまった

あの偉大なスポーツ選手達が引退した時って何歳だったんだろう?もう”あの頃”の彼らの年齢を超えてしまった

ボクシングや相撲、野球、サッカー、テニスなど、数多くのスポーツや格闘技で輝いた選手達。絶頂期で引退を決めた選手、怪我と戦いながら40歳を超えても第一線で活躍した選手。”あの頃”憧れた選手たちの引退年齢と成績をまとめた。


具志堅用高 1981年3月8日引退 【25歳】

1955年6月26日生まれ。沖縄県石垣市出身。

協栄ジム初代会長の金平正紀が具志堅の世界初挑戦の時に「100年に一人の天才」というキャッチフレーズで売り出し、1976年10月10日9戦目で世界挑戦。KO勝ちでWBA世界ライトフライ級王者となった。 沖縄県出身者として初めての世界王者であった。

※書籍:具志堅用高~第一部「戴冠」

具志堅用高

1980年までに当時の世界最多記録となる13度目の防衛に成功した。1981年3月8日に14度目の防衛戦を地元沖縄県での凱旋試合として行うも、挑戦者の猛攻にあい、世界王座陥落。最後はセコンドからタオルが投げ入れられた。

具志堅はこの試合を最後に現役引退の意思を固めた。現役続行を望む金平会長を関係者と説得し、納得させ引退した。

正式な引退会見は1981年8月。「今は寂しい気もしますが、悔いはありません」(読売新聞 2017年11月23日号より抜粋)のコメントと共にグローブを脱いだ。

生涯戦績 24戦23勝(15KO)1敗。
2015年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出された。また、同年にはイクメン・オブ・ザ・イヤー・イクジイスポーツ部門も受賞している。

釜本邦茂 1984年8月25日引退【39歳】

1944年4月15日生まれ。京都府京都市右京区太秦出身。

小学校でサッカーを始め、1962年1月の全国高校サッカー選手権では京都府立山城高校を準優勝に輝く。日本ユース代表や早稲田大学でストライカーとして頭角を現していく。
その後、ヤンマーディーゼル(後のセレッソ大阪)に入社し、豪快なプレーで関西の弱小チームを天皇杯で優勝に導いた。

※書籍:戦うサッカー 釜本流ストライカーの作り方

釜本邦茂

1968年に開催されたメキシコオリンピックでは、7得点2アシストの全得点に絡む活躍を見せ、日本は銅メダルを獲得。釜本は同大会の得点王に輝いた。強烈な右足シュートやヘディングなどを駆使して得点を量産する万能型のFWであった。

1984年2月13日、引退を発表。釜本の引退試合は、1984年8月25日国立競技場で「ヤンマー対JSL選抜」の試合として行われた。
当時の日本サッカーは冬の時代であり、プロですらなかった。マイナースポーツであったサッカーで唯一引退試合が開催された、それほどの選手であった。

試合には”サッカーの王様”ペレや西ドイツ代表のオベラートが招かれ、若手だったラモス瑠偉や木村和司、金田喜稔なども参加している。ぎっしりと観客で埋め尽くされた国立で、釜本は現役最後の得点となる先制点を決め、自らの引退に花を添えた。

日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。
また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。

北の湖 1985年1月引退【31歳】

1953年5月16日生まれ。北海道有珠郡壮瞥町出身。

テレビで初めて大相撲中継が行われた日に生まれた北の湖(本名:小畑 敏満)は、中学生で三保ヶ関部屋に入門。1967年1月に13歳で初土俵を踏んでいる。
その後「北の怪童」と異名を取るなど、めきめきと実力を付け、1974年に21歳2ヶ月の若さで横綱へ昇進した。この記録はいまだに破られていない。

※書籍:北の湖敏満 追悼号 2016年 01 月号

北の湖

横綱昇進後は全勝優勝を果たすなど、その実力を発揮し優勝回数を増やしていく。先輩横綱の輪島と昭和50年代の黄金時代を築き「輪湖(りんこ)時代」と呼ばれた。

しかし、北の湖が倒した相手に手を差し伸べず、さっさと勝ち名乗りを受けてしまうなど、土俵で見せる態度がふてぶてしいと批判され、負けると聴衆が湧く珍しい横綱となってしまった。
「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、当時子供が嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」という呼び方が揶揄的になされている。

力士としての晩年は怪我で思うように成績が伸びず、それまで”ヒール”としての役割から一転、「頑張れ」と応援されるようになっていく。また、千代の富士や隆の里らが台頭し、世代交代の波にのまれていく。

そして、1985年1月場所こけら落としとなった両国国技館の土俵に怪我をおして上がるが、初日から連敗した後、引退届を提出した。

通算成績は951勝350敗107休、勝率.731。
年間最多勝7回、最多連勝記録は32勝。幕内最高優勝回数24回(歴代5位)。

山下泰裕 1985年6月17日【28歳】

1957年6月1日生まれ。熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。

幼い頃から大柄でわんぱくを絵にかいたような子供であった。全国中学校柔道大会の団体戦には2年3年と出場して、ともにオール一本勝ちで藤園中学の優勝に大きく貢献し、「怪童出現」と一躍注目された。

1977年、当時の最年少記録で全日本選手権優勝し、以後、同大会9連覇を達成した。

※書籍:柔道の王者山下泰裕五段の足跡 (1982年)

山下泰裕

1980年のモスクワオリンピックで日本はボイコットし、涙をのんだ山下だったが、当時の代表選手として唯一1984年のロサンゼルスオリンピックに出場を果たしている。
同大会では、2回戦で肉離れを起こしながら決勝に進み、美談とされるエジプトのモハメド・ラシュワンとの金メダルを賭けた戦いに臨んだ。

決勝でラシュワンは山下の右足を狙わずに、横四方固めによって敗れ、山下の金メダルが確定した。その様子が話題となり、ラシュワンは国際フェアプレー賞を受賞している。

しかし、山下によればラシュワンは最初の攻撃で右足を狙ったが、山下が普段と逆の左足を軸にして返しに行き、そのまま抑え込みに入って一本勝ちとなったという。山下はこれについて「ラシュワンは決して、卑怯な手段を使っていないし、そもそも、ケガしたところを狙うのは立派な戦略である。」と語っている。

最後の大会となった全日本選手権までに、約7年6ヶ月の間に203連勝を記録しており(内、引き分け7回)、不敗記録が途切れぬままの引退であった。
また、対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)であった。

千代の富士 1991年5月14日【35歳】

1955年6月1日生まれ。北海道松前郡福島町出身。

中学生時代、陸上競技の走り高跳び・三段跳びにおいて地方大会で優勝するなど運動神経抜群だった千代の富士(本名:秋元 貢)。その後、九重(千代の山)が直々に勧誘し、九重部屋へと入門を決めた。

1970年9月場所初土俵を踏み、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。

※書籍:NHKスペシャル横綱 千代の富士 前人未到1045勝の記録 [DVD]

千代の富士

1981年1月場所は初日から14連勝を記録。千秋楽に1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。

千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、場所後に千代の富士の大関昇進が決定した。現在でも大相撲中継の最高記録となっている。

その後、横綱に昇進。1990年1月場所には30回もの優勝に到達している。年齢を重ねるごとに強さを増した晩成型であった。

しかし、怪我により休場が増えていく。怪我からの復帰場所となった1991年5月場所は、初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れてしまう。
3日目の貴闘力戦でも完敗し、現役引退を表明。

引退会見冒頭、「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました。」と言い、「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたなと、そろそろ潮時だなと」ともコメントした。

通算成績は1,045勝437敗159休(通算勝ち星は、引退時歴代1位、存命中は魁皇に抜かれ・逝去時歴代2位、現在歴代3位)、勝率.705。
年間最多勝3回、最多連勝記録は53連勝。幕内最高優勝31回(歴代3位)。

中野浩一 1992年6月4日【36歳】

1955年11月14日生まれ。福岡県久留米市出身。

高校時代は陸上競技をやっていたが、けがの為に陸上競技での大学進学を断念。競輪選手だった父親からの勧めで競輪の世界へと入っていく。
1975年、久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作り、1980年には、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成した。

※ゲーム(スーパーファミコン):中野浩一監修 競輪王

中野浩一

1977年の世界選手権で日本人として初優勝して以降、1986年大会まで10連覇を果たした。この10連覇のかかる大会の3ヶ月前に落車し、肋骨を5本骨折し、血胸、気胸を併発したが、10連覇への執念から治療、トレーニングを繰り返し偉業を達成している。

国内外で勝ち続けた中野だが、高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)は特別競輪の中で最後まで優勝できず、1992年大会では決勝戦の2着を最後に引退した。史上3人目のグランドスラム達成はならなかった。

生涯成績は1236走で666勝。通算優勝回数は158回。通算獲得賞金は13億円にものぼる。

原辰徳 1995年10月8日【37歳】

1958年7月22日生まれ。神奈川県相模原市出身(福岡県大牟田市生まれ)。

高校野球界の名将・原貢を父に持ち、原辰徳自身も生徒として東海大相模高校で指導を受け、3年連続で夏の甲子園に出場した。1975年の春選抜では準優勝。

その後、東海大在学中の1980年には、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に大学生としてただひとり日本代表選手に選出。その後、ドラフト1位で巨人に入団した。

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原辰徳

1981年の開幕戦にスタメン出場するなど、一年目からレギュラーを獲得し、最終的に打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得した。
1983年には球団史上4人目となる3割30本塁打100打点の記録を達成、打点王となった。

1986年、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、9月24日の対広島25回戦で津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。

翌年以降もホームラン王争いに加わるなど活躍するが、90年代に入ると怪我との戦いが増えていく。それでも1994年には14年連続二桁本塁打を達成している。

そして、1995年10月8日に現役最後の試合を迎える。原は4番・三塁手として出場し、7回裏の打席で左中間スタンドへ豪快な一発を叩き込んだ。
試合後の引退セレモニーでは「小さい頃 野球選手になりたい、ジャイアンツに入りたい、その夢を持って頑張りました。そして今日、その夢は終わります。しかし、私の夢には続きがあります その言葉を約束して今日引退します。」との宣言と共にバットを置いた。

生涯成績は通算1675安打、382本塁打、打率.279。
主なタイトルは打点王(1983年)。主な表彰はMVP(1983年)。

ベストナインには5回 (三塁手部門:1983年、1987年、1988年 外野手部門:1990年、1991年)、ゴールデングラブ賞にも2回 (三塁手部門:1987年、1988年)選出されている。

伊達公子 1996年9月24日【25歳】

1970年9月28日生まれ。京都府京都市上京区出身。

6歳からテニスを始め、高校卒業後の1989年にプロ転向。1990年の全豪オープンで4回戦進出、1991年には全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を飾った。

その後もWTAアワードの「最も上達した選手賞」を受賞するなど、飛躍を遂げ、1994年にはついに日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10入りを果たした。

※書籍:晴れのちテニス―伊達公子のプロツアー転戦記

伊達公子

1995年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成。この時の準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映されている。
この試合は敗れたものの、11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。

1996年は、ウィンブルドンで日本人初の決勝進出をかけ、準決勝で何度も対戦してきた女王シュテフィ・グラフとの一戦に臨んだ。試合は日没順延となり、翌日に持ち越されるもグラフに競り負け た。

伊達はその年の9月24日に現役引退を発表。世界ランキング8位での引退であった。

その後、2008年4月に12年ぶりに現役に復帰。伊達は37歳にして復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語った。

生涯成績は、634勝410敗(シングルス 450勝268敗、ダブルス 184勝142敗)。
ツアー14勝(シングルス 8勝、ダブルス 6勝)。

アントニオ猪木 1998年4月4日【55歳】

1943年2月20日生まれ。神奈川県横浜市鶴見区出身。

実家の石炭問屋の倒産後、ブラジルへと渡りサンパウロ市でコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働をこなした。そして、ブラジルへ遠征していた力道山にスカウトされ、帰国し日本プロレスに入団した。

1966年には自身をエースとする東京プロレスの設立(数か月で破産)や新日本プロレス設立するなど、プロレスの発展に尽力する。
また、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜し、ボクシングのヘビー級王者モハメド・アリとの世紀の一戦を行うなど、枠にとらわれないレスラーとなる。

※書籍:真実 (DVD付き)

アントニオ猪木

1994年5月、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。

1998年4月4日、東京ドームでの引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、ドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。

引退のスピーチでは数万人のファンの前で「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。あまりにも有名な「迷わず行けよ、行けばわかるさ」「ありがとー!」の後、10カウントゴングを聞き、リングを降りた。

通算成績はシングル戦 - 612勝41敗50分、タッグ戦 - 1466勝104敗130分。

主な獲得タイトルは東京プロレスでUSヘビー級王座を1回、日本プロレスでUNヘビー級王座を1回、新日本プロレスで世界ヘビー級王座を1回。他多数。

岩崎恭子 1998年9月【20歳】

1978年7月21日生まれ。静岡県沼津市出身。

1992年のバルセロナオリンピック、競泳女子200m平泳ぎで、金メダルを獲得し一躍時の人となった岩崎恭子。
当時は前年の世界水泳選手権やパンパシフィック水泳選手権でメダルを獲得していた千葉すずが、日本の期待を一身に集めており、岩崎は全くの無名の選手であった。

競泳では史上最年少(14歳6日)の金メダル獲得(2011年8月現在も競泳最年少記録)で、日本選手としての五輪メダル獲得の最年少記録でもあった。レース直後のインタビューで「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語った事もインパクトを持って伝えられた。

書籍:母と娘が見つけたほんとうの金メダル

岩崎恭子(右)

その後、メディアの取材攻勢やストーカー、嫌がらせの電話が続き、練習に集中出来ないばかりか「金メダルなんか取らなければ良かった」と後悔するようになったという岩崎。
記録も伸びず、スランプに陥ってしまったが、それでも持ち直し、1996年のアトランタオリンピックにも出場した。

結果は200m平泳ぎは10位、100m平泳ぎは予選落ちに終わり五輪2大会連続でのメダル獲得はならなかった。

高校卒業後は、日本大学心理学部に入学した。1998年に伝染性膿痂疹を発症した影響から、同年9月の日本学生選手権で現役を引退した。

バルセロナオリンピックの200m平泳ぎ、タイムは2分26秒65だった。これは当時の五輪新記録であり、岩崎の生涯ベスト記録となった。

落合博満 1998年10月7日【44歳】

1953年12月9日生まれ。秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身。

体育会的な風習が嫌いで、高校や大学ではほとんど野球部に在籍していない。しかし、その実力は周囲も認めるところで、高校では試合が近づくと部員達が落合を説得し復帰してもらっていた(通算で計7回入退部を繰り返した)。

その後、社会人野球で頭角を現し、ロッテに入団。同年の誕生日で25歳という遅いプロ入りであった。1982年には史上最年少で三冠王を獲得し、1985年と1986年に2年連続で三冠王となった。日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した。

書籍:なんと言われようとオレ流さ

落合博満

1987年からは年俸1億円プレーヤーとして移籍した中日で活躍し、1993年には史上初の両リーグ200本塁打を達成している。その後、導入されたばかりのFAで巨人へ移籍し、1995年に2000本安打も達成した。

1996年オフに日ハムへと移籍。巨人時代に負った左手首の骨折が影響してか、不本意なシーズンが続き、1998年に現役を引退した。

1998年は開幕こそ4番での出場を果たすが、徐々に出場機会が失われていき、後半戦はほぼ代打での出場となった。チームも優勝を逃し、消化試合となった10月7日のシーズン最終戦に代打で出場。雨の降るスタンドは観客も少なく、数々の記録を打ち立てた打者には寂し過ぎる試合となった。

落合は当日、上田監督からの先発出場の打診を断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選んだという。結果は一ゴロに倒れ、現役を引退した(任意引退ではなく自由契約での引退)。

生涯成績は通算2371安打、510本塁打、打率.311。

首位打者に5回 (1981年 - 1983年、1985年、1986年)、本塁打王に5回 (1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)、打点王に5回 (1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)を獲得している。

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