こんにちは、はんまのままです。
今回は演歌の女王を称された女性演歌歌手の八代亜紀さんについて調べてみました!
懐かしい歌から現在の活動までお届けしたいと思います。
コンプレックスから一転
八代亜紀
八代亜紀公式サイトより
幼い頃から「歌」に親しみ「歌」と共に生活があったという八代亜紀にはコンプレックスがありました。あの独特なハスキーボイスです。そのコンプレックスを解消してくれたのが父親でした。
ジュリー・ロンドンのレコードを聴いてハスキーボイスの良さを知りクラブ歌手を意識、目指すきっかけになったということなので父親がジュリー・ロンドンのレコードを買ってこなければ、演歌の女王として芸能界にいることはなかったということになります。
ジュリー・ロンドン
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アメリカの歌手であり女優のジュリー・ロンドンは1926年に生まれ、その美貌を買われスカウトされました。1944年には映画デビューし結婚、出産、離婚を経験し再始動した時に歌手として活動を始めました。2000年にこの世を去っていますが、その美貌とハスキーボイスで今もなお熱烈なファンはいるようです。
ジュリー・ロンドンの歌声を聴いて自分の声でも歌手になれると自信がついた八代が次にしたことはバスガイドの仕事でした。人前に出るということが内気な性格が災いして苦手だったためだと後日語っていますが、このガイドの仕事が何か月やっても覚えられなかったとか。
バスガイド時代の八代亜紀
何カ月やってもダメガイドだった 八代亜紀さん - 私の一枚 - 朝日新聞デジタル&M
度胸をつけるために始めたバスガイドから歌の道に進んだときには父親に勘当されたとか。
そりゃ進学をしてほしいと望んでいた父親に対して就職を選び、その仕事も辞めキャバレーで歌手として歌っているとなればどんな父親でも激怒します。
何カ月やってもダメガイドだった 八代亜紀さん - 私の一枚 - 朝日新聞デジタル&M
勘当された八代は一人上京して銀座などでクラブ歌手として活動を開始し、レコード会社に専属歌手として契約するまでたくさんの女性たちの苦労や悲壮感を感じ取っていたとか。そんな女性たちが背中を押してくれたおかげで専属歌手として活動していこうと10代の八代が決めたわけでもなく所謂「上から目線」で行動したということだったらしいです。本当にクラブ歌手としては売れっ子だったんでしょうね。
愛は死んでも
八代亜紀 - 愛は死んでも - SN-1170 - レコード・データベース
何はともあれ歌手デビューとなった八代亜紀のデビュー曲は「愛は死んでも」という曲でしたが、もちろん売れるわけもなく2年ばかりレコードを持参して営業をしていたとか。演歌歌手のデビュー当時秘話でよく聞く話ではありますね。現実は厳しいと思い知らされ故郷に帰るかと思えば頑固な性格が帰してはくれなかったようです。
音楽を生業にしていくことを勘当するほど反対していた父親も2年間の営業を見聞きし会社を閉めて上京し八代亜紀の生活を支えてくれるようになり、家族一丸となって八代亜紀を応援してくれるようになったようです。
デビューから4曲目の「なみだ恋」が大ヒットし八代亜紀の歌手人生は大きく変わりました。
なみだ恋から始まった女唄
「なみだ恋」が大ヒットして真っ白だったスケジュールは真っ黒になったと八代は言っています。生活を一変させたヒット曲は120万枚以上売れるビッグヒットとなり後に映画化したという逸曲です。
なみだ恋
八代亜紀* - なみだ恋 (Vinyl) at Discogs