「ぴあ」いまはない愛すべき雑誌
今でこそ「ぴあ」は、チケットぴあだったり
ムック本のぴあだったり、旅行ガイド本だったり
フィルムフェスティバルを開催したりと、
エンタテインメントとレジャー領域の大企業ですが
最初は雑誌でした。しかも月刊の。

ぴあ 創刊号 1972年7月
沿革|企業情報|ぴあ株式会社
及川正通氏の表紙に。以来ずっと。
1975年9月から表紙は及川正通のイラストに変わります。
以来2011年7月まで、表紙はずっと及川氏が描き続けていました。

1975年9月号 表紙は「フレンチ・コネクション2」
及川正通イラストレーションの世界―ぴあの表紙を飾った1000の顔 ぴあ (2002/07)

サザンだ~
○即/古いぴあ/1984年/7.27/NO.219/及川正通/サザ... - ヤフオク!
描かれているのはその時に話題となっているエンタテインメントの人物。
世間的に周知されていて、ぱっと見て「これはこの人」とわかる、なおかつ旬の人物。
この表紙に描かれること、イコール「認められた」と思う芸能人は多かったらしく
爆笑問題は表紙に描かれることが
「徹子の部屋」「いいとものテレフォンショッキング」と同等と言っていますし
布袋寅泰は「ぴあの表紙に描かれることは、紅白に出場が決まる感覚」と答えています。

1999年5月31日号 爆笑問題
及川正通イラストレーションの世界―ぴあの表紙を飾った1000の顔 ぴあ (2002/07)

1999年9月3日号 布袋寅泰
及川正通イラストレーションの世界―ぴあの表紙を飾った1000の顔 ぴあ (2002/07)

1980年10月10日号 山口百恵
及川正通イラストレーションの世界―ぴあの表紙を飾った1000の顔 ぴあ (2002/07)

1982年11月19日号 E.T.
及川正通イラストレーションの世界―ぴあの表紙を飾った1000の顔 ぴあ (2002/07)
及川氏の絵は、1985年からの関西版ぴあ、1988年からの中部版ぴあ、
芸能人やアーティストごとのムック版ぴあでも表紙を飾りました。
「ぴあ」目次はこんなふう

1982年6月18日号目次
ぴあ 1982年6月18日号
当時は隔週刊ですからカレンダーは2週分。
左はじのインデックスは
「映画」「演劇」「音楽」「ニューディスク」「FM」「美術」「イベント」「講座」「新刊」と
かなり多岐にわたってます。
ないのはTV情報とAMラジオくらいでしょうか。
でも、TVで放映する映画の情報はあるんですよ。
まずはとにかく映画館情報。大きいハコも、名画座も。
ぴあ創刊当時から隔週刊になるころは、東京にはたくさんの映画館がありました。
東京都内だけで300近い映画館があったんです。
たとえば、1982年当時で一番多かったのは新宿で、38件の映画館が掲載されていました。

1982年6月の新宿映画館MAP
ぴあ 1982年6月18日号
今新宿にある映画館は9館。1981年時点で存在していた映画館は、
「新宿ピカデリー」「テアトル新宿」「新宿武蔵野館」の3館のみです。
ミラノ座が2014年末に閉館したのは本当にさびしかった(涙

1985年2月22日号 ロードショウページ
○即/古いぴあ/1985年/2.22/NO.234/及川正通 - ヤフオク!
近日上映の映画の紹介も、きちんと出ています。
邦画ロードショウのページには、にっかつロマンポルノとかの紹介も載っていて、こっそり見てもやもやドキドキしたりしてたよ。

映画館のスケジュール一覧
ぴあ 1982年9月24日号

「映画の街角」というタイトルのページ
ぴあ 1982年9月24日号
映画館、上映映画、年月日と上映開始時間がこんなに細かく書かれています。
今はWEBですべて見られますが
それを一つの誌面にぎゅううっと詰め込んだ状態です。
しかも当時は2本3本の複数上映が普通にありましたから
そのことも含めると情報量は膨大ですよね。
映画館ごとの開始時間の情報はとても重要でした。
何時に始まる、が知りたいのはもちろんですが、
前の回の終了直前に館内に入って、席を取るためでもあります。
当時の映画館はいつでも出入り自由で、
現在みたいな完全入れ替え制の上映館はほとんどなかったです。
2~3本同時上映の映画は「名画座」と呼ばれる映画館でやっていて
「封切り館」と呼ばれる大きい映画館で上映されるような、そのシーズンの新作ではなく
リバイバルだったり、なんらかのテーマに沿ったチョイスをしていたりと
各名画座ごとに個性がありました。

三鷹オスカーの半券
ケロリン
今はなき「三鷹オスカー」は、あまり有名ではないけど珠玉のいい映画を並べていて
しかも「ぴあ」を持っていくと100円引きしてくれるので
けっこうオールで通ったりしてました。
体力あったなあ。昔は。
大きい上映館から、2~30名しか入れないようなミニシアター
さらに公共施設で行う上映会や、高校・大学の映画研究会の上映スケジュールまで
すべて平等に情報掲載するのが「ぴあ」のモットーだったようです。
映画だけじゃない。演劇も、コンサートも。
もちろん掲載されているのは映画情報だけじゃないです。
演劇も、コンサートも、チケットが必要な商業ベースのものだけでなく、
自主的な上演や無料のライブまで、きちんと網羅されていました。

1982年9月24日号 コンサートページ
ぴあ 1982年9月24日号
1980年代後半は「小劇場ブーム」と呼ばれ
原作・脚本・監督・主演・大劇場・スポンサーありきの商業ベースの演劇ではなく
劇団がオリジナルの作品を小さいハコで上演するスタイルの興行が定着しブームになりました。
その筆頭が野田秀樹の「夢の遊眠社」。
それから鴻上尚志「第三舞台」、
そして三谷幸喜「東京サンシャインボーイズ」。
これらのチケットを取るために、いつ、どこで前売りを始めるか
その情報は常に「ぴあ」から得ていました。
演劇やコンサート情報は、新聞記事か新聞広告、それと「ぴあ」しかなかった当時
いつもこのページを見れば情報がある、という安心感は、絶大でした。
FMラジオは番組情報だけでなく曲目まで
1980年前後は、東京ではFM局は2局だけでした。
NHK-FMとFM東京。
扱う局が少ないせいもあると思いますが
1~2週間の番組表と一緒に、
オンエアする予定の楽曲の、アーティストごとのインデックスもついていました。
そのころはラジカセで音源を録って、ウォークマンで聴く
そういうスタイルが定着していましたから
できるだけ音のいいFMラジオで録音して、外に持ち出して聴いていたものです。
そのためにも楽曲のインデックスはとても重宝していました。

在京FM2局の番組表とオンエア一覧
1982年6月18日号
当時のFMでのオンエアは、AMラジオがやってたような
「楽曲のイントロに紹介アナウンスをかぶせる」
「1コーラスだけ流してCMに切り替え」がなくて、
1曲をまるまる流してくれていたので、
音源を録るのにはとてもありがたかったのです。
NHK-FMは今もそれをやってるのかなあ。
これだけじゃない。「ぴあ」のインタラクティブなあれこれ。
こういったメディア誌は、一方的に情報を掲載するだけのものがほとんど。
読者からの投書や投稿は、
あったとしても「読者からのおたより」的なものなのが、それまでの雑誌でした。
ところが「ぴあ」は、その部分の充実度がハンパないんです。
ぴあに読者から寄せる投稿窓口はこんな感じ。
「ぴあテン」「もあテン」
「YouとPianist」募集欄
「はみだしYouとPia」
投稿欄「YouとPia」
投稿欄の「YouとPia」は、一般的な「読者の声」ですね。
でも単なる感想じゃなくて、
一家言あるようなレポート的な投稿が載せられていた気がします。
まじめにブログを書いている人の記事的な感じ。

YouとPianist ページ上部募集の欄
1982年6月18日号
「YouとPianist」募集欄は、ページの一番上に掲載されていました。
バンドや劇団のメンバー募集だったり、
譲ります・譲って下さい系の内容だったり。
知り合いはここに買えなかったチケットを「売って」と懇願の掲載をして
願いかなってコンサートに行けたと言っていました。
ヤフオクの役目もしてたんですね。
「ぴあテン」と「もあテン」
「ぴあテン」は、その年の各部門のベストテン、
「もあテン」は、各部門のオールタイムベストテンです。
そのころは、「読者や視聴者みんなで選ぶベストテン」的なものはあまりなくて
読者投票で行われるイベントはある意味「お祭り」でした。
ネット投票もできないから、みんなハガキで書いて送ってたんだよ。

ぴあテン&もあテン10周年フェアのページ
1982年6月18日号
そして「はみだし」 ぴあといえば「はみだし」
当時「ぴあ」を読んでいた人は必ず「はみだし」を思い出すはず。
ページの小口(左右ページのはじっこ)にある、1行の小ネタ投稿欄。
ここに掲載されるのがステータスだったりしました。

はみだしYouとPia 1行の「くすっ」
ぴあ 1982年9月24日号
1行(ものによっては右はじから始まり斜め左上に矢印で飛んで左はじに改行して2行)の
小ネタを楽しみに「ぴあ」を買ってる人も多かったはず。
今でいうTwitter的なもの。即時性はないけど。
でも面白いものは集めて本にもなりました。
ブログ書籍化のハシリみたいなもんだね。

はみだし天国 はみだしYouとPia傑作選1975~1985
ぴあ はみだし天国 はみだしYouとPia傑作選/中島... - ヤフオク!
2011年7月 惜しまれつつ休刊

ぴあ [最終号]
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当時ライバルの「シティロード」に加え
「プレイガイドジャーナル」「東京ウォーカー」「TOKYO1週間」など
後続雑誌をぞくぞく生んだ雑誌「ぴあ」。
インターネットというインフラが登場するまで
圧倒的な情報量を持っていた「ぴあ」。
この雑誌を片手に握りしめて
映画館や小劇場に出かけた思い出は、まさに「青春」でした。