最年少 加藤一二三四段
 若くして夢破れる人間はいつの時代にもいる。
 プロの将棋指し、即ち四段の棋士になれないまま年齢制限によって退会になってしまう《奨励会員》の存在は多くのドラマをうんでいる。
 彼らは14歳でプロ入りを果たした人間を見ていかなる思いを抱いたであろうか。
 1954年夏。
 加藤一二三四段は、当時最年少の棋士として登場した。
 
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天才 加藤一二三八段
 
  	少年期の加藤一二三
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 棋士育成機関に所属している《三段》までは真のプロとは呼べない。
 逆に《四段》に昇った棋士は王将戦、棋聖戦といったタイトル戦に挑戦していくことになる。
 羽生名人、渡辺竜王、郷田王将といった呼称は全てタイトルであり、タイトルを複数持つと二冠、三冠と呼ばれるようになる。
 将棋において最も伝統あるタイトルが《名人》である。
 四段になった棋士はまず「C級2組」というリーグ戦に入れられ、ここで上位の成績をおさめると昇級し「C級1組」に入る。
 C級2組、C級1組、B級2組、B級1組そしてA級と昇り、A級のなかで最も勝った者が名人挑戦者となる。
 順位戦と呼ばれる制度である。
 AだろうがCだろうが勝てば上がり負ければ下がるという原則は共通している。
 順位戦の昇降は年1回。
 加藤は毎年好成績をおさめ、18歳でA級に参加。段位も八段となる。
 若いからと言って容赦される世界ではない。
 1954年に最年少プロとして登場した少年は、4年後、今度は最年少八段として登場することになる。
 その間、一度も足踏みすることがなかった。
1950年~2000年代に将棋界で活躍されていた 【加藤一二三】を振り返る。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
最速の剣士 二上達也
 
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 史上初の中学生棋士という記録を持つことになった加藤だが、最速という点では引けをとらない男がいた。
 1950年。春。
 北海道からやってきた青年が奨励会に入門する。
 同年11月。青年はプロになっていた。
 奨励会在籍わずか8ヵ月という驚異的な記録であった。
 名を、二上達也といった。
 二上はC2、C1、B2、B1と順調に昇級する。
 B級1組で1年間とどまるも、1956年にA級入りを果たした。
 育成機関の扉を叩いてから業界屈指の強豪となるまでわずか6年。
 函館の天才と呼ばれた少年は日本を代表する男になろうとしていた。
天才を止めた男 大山康晴
 1956年に24歳でA級入りした二上達也。
 1958年に18歳でA級入りした加藤一二三。
 2人はトップランカーであることで満足せず、さらに上を目指してタイトル戦に挑んでいく。
 当時のタイトルは名人、九段、王将の3つである。
 1959年、二上は九段と王将に挑戦。60年王将戦、61年九段戦、62年名人戦に登場する活躍ぶりだった。
 一方の加藤も負けていない。
 1960年名人戦、61年王将戦、63年には新設されたばかりの王位戦、66年、67年王将戦に挑戦者として登場。
 これだけの登場回数があるにも関わらず、二上と加藤のタイトル争いは行われなかった。
 なぜか。
 大山康晴がすべての挑戦を退けていたからである。
 
  	大山康晴
大山康晴に関するトピックス:朝日新聞デジタル
実力制第3代、そして十五世名人、大山康晴は1923年生まれ。
 実力制初代名人木村義雄、兄弟子の升田幸三らとの激闘を繰り返していたが、木村はすでに引退しており升田は体調を崩しがちだった。
 タイトルは大山から奪うしかない。
 加藤と二上は果敢に攻めたて、こと二上は1962年に王将位を、66年前期に棋聖位を奪取する。だが次の年にタイトル挑戦者として現れるのが大山康晴であった。
 大山は容易には負けない。仮に負けたとしても翌年には奪い返してくる。
 このしぶとさこそが大山の将棋の、そして人生の特徴だった。
 大山康晴の生涯成績は1433勝781敗。
 タイトル戦登場回数112。うち獲得数80。
 タイトル戦の相手は強豪であるにも関わらず、その奪取・防衛率は7割を超えている。
 格上から勝ちを奪い、格下に勝ちを譲らない。
 棋界を覆う《暗黒星雲》と呼ばれる所以のひとつであろう。
 
  	大山康晴名局集
太陽と呼ばれた男 中原誠
 1972年。ひとりの男が新しい時代とともに出現した。
 1952年に木村義雄から奪って以来20年、兄弟子の升田以外には渡さなかった名人の位を、ついに勝ち取る男が出現したのである。
 中原誠。1947年生まれの24歳であった。
 中原はすでに棋聖を獲得しており、他にも十段、王将と大山のタイトルを根こそぎ奪う勢いを見せていく。
 つい前年には全タイトルを制覇していた大山康晴は、わずか2年の間に無冠にまで追い込まれていた。
 
  	中原誠
棋界の若き太陽 中原誠:時事ドットコム
 これが機だと言わんばかりに、内藤國雄、米長邦雄といった若手が次々に台頭してくる。
 大山は1992年に亡くなるまでA級に居続け、タイトル戦に登場し奪取することもあったが、名人に返り咲くことだけはついにかなわなかった。
 名人位を簡単に明け渡さないということについては、中原も大山も共通している。
 1976年。
 防衛に成功した中原は名人5期連続獲得の条件を満たし、大山につづき《十六世名人》の称号を得ることとなった。
 大山を破り、若き太陽と呼ばれた青年はますます輝く。
 彼が中心となっていた時代のことを中原時代と呼ぶ者もいる。
変遷
 
  	米長邦雄
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 時代は貪欲に才能を求めている。
 1972年に奪取して以来、中原の名人を奪うべく大内延介、米長邦雄、森雞二、桐山清澄らが挑戦していくが、中原はすべて防衛に成功する。
 中原はただの名人ではなく大名人であろうという評価がすでに定着していた。
 そんななか、1982年に珍しい男が名人戦の舞台に現れる。
 すでに40歳を超えすっかりベテランとなっていた加藤一二三であった。
時代を変える男 加藤一二三十段、そして
 加藤は大山が去り、中原時代が到来していくのを指をくわえて傍観していたわけではない。
 1968年には大山康晴を破り初のタイトルとなる十段を獲得。
 73年には昇格規定によって八段から九段に昇っている。
 76年には大内延介より棋王を奪取。翌77年にこれを防衛。78年には王将位を獲得。
 中原名人への挑戦者として名乗りをあげた時も十段のタイトルを防衛していた。
 中原誠名人対加藤一二三十段。
 すでに何度かタイトルのやりとりをしている組み合わせであるが、中原は時代の主である。
 ところが加藤一二三というのは波のある男で、デビューから名人挑戦まで一切止まらなかったあの頃の勢いが失われた気配は無い。
 では加藤なのか?
 いややはり中原なのではないか?
 勝者予想は荒れに荒れた。
 実際の名人戦はそれ以上の大荒れを見せることになる。
 
  	中原誠名局集
 1局目、双方の王将が敵陣に入り込み、勝負がつかない形になってしまったので持将棋(引き分け)が発生した。
 続く2局目は中原が勝ち先制するも3局目に加藤が取り戻す。
 実力伯仲とはこのことで、4局目に中原がリードすれば5局目は加藤が再度タイに持ち込んだ。
 6局目。同一局面が複数回発生したことによる千日手指し直しが発生。
 その後の7局目は加藤が3勝目で名人位そのものに王手をかける。
 しかし8局目は中原勝ち。
 追い込まれ簡単に折れるようでは大名人はつとまらない。
 勝ったほうが名人となる大一番中の大一番。
 第9局目でまたもや千日手が発生する。
 通常7番勝負である名人戦はこの年、《名人戦十番勝負》という尋常ならざる事態が発生していた。
 季節は移り、すでに夏に入っていた。
 勝ちを決定づける手を発見した男は、思わず大きく声をだしたという。
 数手の後、頭を下げたのは中原誠であった。
 加藤一二三名人誕生の瞬間であった。
 
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加藤一二三名人、そして。
加藤名人に限った話ではないが、その人物が、勝敗が後にどのような結果をうみだすのかすべてを知ることはできない。
 だが振り返ってみれば加藤名人誕生後、昭和将棋の男たちそして将棋界には小さくない変化が発生する。
 1983年。加藤名人は谷川浩二の挑戦を受け、敗退してしまう。
 谷川浩二は加藤以来2人目の中学生棋士であり、この時21歳。
 中学生でデビューし、20歳で名人に挑戦し、大山に止められて以来20年かけて取った名人位は、昔の自身に似た男に奪取されることになった。
 そして今度は谷川が時代を築いていく。
 80年代後半には昭和55年組と呼ばれる若手が登場。高橋道雄、島朗、南芳一、塚田泰明といった面々であり、新タイトル「王座」が誕生するなど華やかさが増した。
 
  	谷川浩二
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1989年。大山に変わって二上達也が将棋連盟会長になった。翌90年に棋士としては引退する。
 1992年。大山康晴が現役A級のまま死去する。90年にも66歳で南芳一棋王に挑戦した、最後まで勝負強い男だった。
 ちょうどこの頃から羽生世代が活躍し始める。
 羽生善治もまた天才のなかの天才と呼ばれる男で、大山や中原がつくりあげた記録を破り、更新していった。
 タイトル7つを羽生善治が独占したのは1995年のことである。
 03年。二上に続いて中原が将棋連盟会長となる。現役でありながらの会長職であったが、中原は08年対局中に倒れてしまう。脳内出血であった。一命はとりとめ、翌09年引退。
 05年。中原につづき会長職に就いたのは米長邦雄だった。
 米長は1943年生まれ。加藤と同世代であった。棋士と将棋ソフトとの対局を企画するなど多才な人物だったが、2012年に亡くなっている。69歳だった。
 2016年。二上達也が84歳で亡くなる。
 また新名人として佐藤天彦が登場。1988年生まれの若手である。羽生善治と森内俊之以外の名人が登場するのは、2001年の丸山忠久以来の出来事であった。
 
  	羽生善治
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  	棋を楽しみて老いるを知らず
 同じく16年10月。史上5人目の中学生棋士として藤井聡太四段が登場する。
 デビュー戦の相手は60以上年上の加藤一二三九段であった。
 加藤は彼に64年前の自分の姿を重ねただろうか?
 2017年4月現在、加藤一二三九段は現役として戦い続けている。
 規定により引退が決定しているが、引退したとしても加藤一二三九段が自分を失うことは無いだろう。
 最後に彼自身の言葉を引用しておく。
ひふみん@今夜TBS有吉ジャポン出演(@hifumikato)さん | Twitter
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  	加藤一二三九段
加藤一二三|棋士データベース|日本将棋連盟
 
     
    




