Phillip Spector
フィル・スペクターは「ウォール・オブ・サウンド」と称される独特の音作りで有名な音楽プロデューサーです。
フィル・スペクターが作り出した音は、世界各国の様々なミュージシャンに影響を与えており、ブルース・スプリングスティーンが出世作であるアルバム「明日なき暴走」を制作する際には「ボブ・ディランのような詩、フィル・スペクターのような音作り、デュアン・エディのようなギター、ロイ・オービソンのような歌唱」を目指したという話は広く知られています。

フィル・スペクター
フィル・スペクターが「ウォール・オブ・サウンド」による緻密なアレンジによるサウンドで一世を風靡したのは60年代前半で、その斬新なプロデュースによりヒット曲を連発しました。
70年代に入ってからも賛否両論あったものの様々な大物ミュージシャンをプロデュースしています。その一方で、もともと奇行が目立っていたのですが、それがエスカレートしてきます。

フィル・スペクター
そして遂に、2003年には恋人を射殺した罪で禁固19年の判決を受け、現在はカリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されています。

フィル・スペクター
あまりにも激しい変貌ぶりに驚いてしまいますが、フィル・スペクターが作り出したサウンドは嘘偽りなく素晴らしいものです。
「ウォール・オブ・サウンド」の完成形というと、ニューヨークで結成されたアメリカの女性ボーカル・グループ「ザ・クリスタルズ」の「ハイ・ロン・ロン」でしょう。全米第3位となる大ヒットを記録しています。
因みにタイトルの「Da Doo Ron Ron(原題)」とは、当初歌詞ができていなくて仮でDa Doo Ron Ronとしていたものをフィル・スペクターが気に入ってそのまま使用したのだそうです。
そして「ウォール・オブ・サウンド」の最高傑作といえるのが、ロネッツが1964年に発表した唯一のオリジナル・アルバムであり、天下の名曲「ビー・マイ・ベイビー」です。

プレゼンティング・ザ・ファビュラス・ロネッツ・フィーチャリング・ヴェロニカ
いかがです?いついかなる時に聴いても心が躍る素晴らしい曲、サウンドですよね。
当時はまだ録音技術が発達していなかったので、いくつもの音を重ねていくという録音作業はかなりの時間と労力を要していますが、フィル・スペクターは偏執的なまでにこだわりぬいて理想とするサウンドを作り上げています。
Let It Be_1970
70年代に入ると録音技術も大幅に進歩し、何よりフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」は時代に即さないようになってしまいました。
しかし、それでも60年代に作り上げたフィル・スペクターのサウンドに魅了されたミュージシャンがプロデュースを依頼します。誰あろう、ビートルズです。
当時のビートルズは解散目前の険悪な状況であり、映画と並行して制作されていたレコーディングは散漫なものとなっていました。メンバーもお手上げとなっていた膨大な時間の録音テープにオーケストラやコーラスなどのオーヴァー・ダビングを施し、フィル・スペクターはビートルズのラスト・アルバム「レット・イット・ビー」を完成させています。
しかし、本来とはまったく違ったコンセプトとなったことでポール・マッカートニーは大いに不満を抱え、2003年にはついにメンバー同意のもと「レット・イット・ビー...ネイキッド」としてフィル・スペクターの装飾的な部分を取り除き当初の計画にあったシンプルなアレンジに作り直して発表しています。

レット・イット・ビー
ポール・マッカートニーはフィル・スペクターの仕事を評価しなかったものの、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンは、短期間でアルバムとしてまとめあげたフィル・スペクターの能力を高く評価し、それぞれのソロ作品にプロデューサーとして迎え入れています。
ジョージ・ハリスンは、実質的なソロ・ファースト・アルバムとなった「オール・シングス・マスト・パス」にフィル・スペクターを起用しています。「ウォール・オブ・サウンド」が全体を覆いつくしたこのアルバムはレコードで3枚組であるにも関わらず記録的な大ヒットとなり、シングル・カットされた「マイ・スウィート・ロード」ともども70年代の幕開けを飾るロックの金字塔と言われています。
ジョージ・ハリスン以上にフィル・スペクターを信頼していたのがジョン・レノンです。ファースト・ソロ・アルバム「ジョンの魂」に続いてセカンド・ソロ・アルバム「イマジン」でもフィル・スペクターを起用しています。
ただ、ジョン・レノンの場合はシンプルな楽器構成で出来ていますので、言われない限りフィル・スペクターのプロデュースだとは分かりません。
そういった意味では、プロデューサーとしてフィル・スペクターを信頼していたのでしょうが、音楽の相性はあまり良くなかったのかもしれませんね。
とは言え「イマジン」、素晴らしいアルバムです。よく思いとどまってシンプルなプロデュースをしてくれたものです。フィル・スペクターに感謝しなくてはなりませんね。
フィル・スペクターには1975年に発表したロックのスタンダード・ナンバーのカバーアルバム「ロックン・ロール」でもプロデュースを依頼したジョン・レノンですが、このアルバムの制作途中でフィル・スペクターがマスター・テープを持ち逃げしてしまうといった事件が起こっています。
結局アルバムは、マスター・テープを取り返したジョン・レノンが自身で完成させていますが、この時期は二人とも酒浸りの日々を送っており、フィル・スペクターから銃を突きつけられたりと散々だったようですよ。
Death of a Ladies' Man_1977
もしかすると1977年に発表されたレナード・コーエン の5枚目のスタジオ・アルバム「ある女たらしの死」こそがフィル・スペクターの最後の傑作といえるのかもしれません。
フィル・スペクターが作り出したきらびやかで分厚いサウンドは賛否両論を巻き起こしましたが、異色作とはいえ傑作と呼べるアルバムに違いありません。
熱狂的なファンがいたとはいえ、あまりポップではなかったレナード・コーエンのイメージを覆す作品です。
ただ、ここでもフィル・スペクターは強引だったようで、デモテープだったものをプロデュースし発表しています。
わずか3週間で15曲もの曲を二人で書き上げて、アルバムを完成させたとされていますから意欲的に取り組んだアルバムだったんですね。

ある女たらしの死
End of the Century_1979
意外な組み合わせと言ってよいでしょう。フィル・スペクターとNYパンクを代表するラモーンズの組み合わせとは!ラモーンズの1979年に発表された5枚目のアルバム「エンド・オブ・ザ・センチュリー」がそれです。
これも発表当初は賛否両論あった作品です。いえ、むしろ評判は悪かった。バンドのメンバーからも、ファンからも、評論家からも厳しい評価を受けていたアルバムです。
この作品でフィル・スペクターの評価は地に落ち、過去の人となってしまいます。「ウォール・オブ・サウンド」によってラモーンズの特徴であるドライブするベースの音が全く聞こえません。これに関係者は我慢できなかったのですね。
しかし、しかしです。このアルバムはラモーンズにとって最大のヒットアルバムとなっています。

エンド・オブ・ザ・センチュリー
確かにホーンがうるさく感じます。ベースは聞き取れませんし、「ウォール・オブ・サウンド」はどうしても音がこもってしまいます。クリアな音が求められる現在では流行らないのも分からないではありません。
ビートルズの「レット・イット・ビー」が「ネイキッド」となったように、ジョージ・ハリスンの名作「オール・シングス・マスト・パス」も2001年に「オール・シングス・マスト・パス〜ニュー・センチュリー・エディション〜」としてリマスターされ、今の時代に「ウォール・オブ・サウンド」は合わないということで、最新技術を駆使してフィル・スペクターの痕跡を消し去っています。
残念な感じはしますが、それでもフィル・スペクターが成しえたことは偉大で、これからも語り継がれるに違いありません。