プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!今回は、前回の「日本人ヘビー級レスラー」に続く「外国人ヘビー級レスラー」よ!!


プロレス総選挙2017の順位結果を発表のおさらい!色々意見のあったベスト20を確認!

プロレス総選挙

テレビ朝日

前回の「日本人ヘビー級レスラー」でも紹介したけど、WBCの野球放送の延長で深夜になってしまって番組を見れなかった方や寝落ちした方にもう一度プロレス総選挙2017順位結果をおさらいしたいわ!色々ご意見あったけど10000人のファンと現役、OB&OGプロレスラーの投票で決まった結果よ!誰?新日よりだと言っているのは!

1位 アントニオ猪木
2位 ジャイアント馬場
3位 タイガーマスク(初代)
4位 オカダ・カズチカ
5位 力道山
6位 棚橋弘至
7位 ジャンボ鶴田
8位 獣神ライガー
9位 三沢光晴
10位 スタン・ハンセン
11位 長州力
12位 武藤敬司
13位 小橋健太
14位 天龍源一郎
15位 ケニー・オメガ
16位 橋本真也
17位 蝶野正洋
18位 ハルク・ホーガン
19位 真壁刀義
20位 アンドレ・ザ・ジャイアント

この結果みなさんはどう思うのかしら?あたしは前回「日本人ヘビー級」を抜き出してベスト10を作らさせてもらったわ!それがこれ!要は少しでも細分化して多くのレスラーを紹介したいの!第1弾の「日本人ヘビー級」ももう一度是非確認して頂戴!!

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

そこで今回は「外国人ヘビー級レスラー」をピックアップして「マツド・デラックス」的にベスト10を作っていきたいと思うわ!絶対に忘れてはいけないのはこの「外国人レスラー」がいたからこそ「日本人レスラー」の強さやカッコよさが生まれたのよ!人によっては「外国人レスラー」の方がいい!と言うファンも生まれたわ!そしてどうしても自分の好みに偏ってしまうしわ。好きなレスラーに順位をつけるなんてと言うかも知れないけどあえてここでも10人選ばせてもらうわね!

第10位 ボブ・バックランド

「ニューヨークの帝王」
「超新星」

ボブ・バックランド

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これぞ正統派「アメリカンレスラー」とだったわね。ベビーフェイスがこれだけ似合うレスラーもいなかったわよね。そして、努力を怠らない本当に「真面目」な男よね。アマレスの基礎があったからこそ強靭な肉体を武器に技は地味だったけど「王者」として5年以上も君臨していた実力は「本物」だったわ。

ボブ・バックランドのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1973年にNWAのトライステート地区でデビュー。翌1974年3月、テキサス州アマリロに転じ、地区デビューから1週間後の3月9日にカール・フォン・スタイガーからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取する。アマリロではジャンボ鶴田やスタン・ハンセンと邂逅し、3人は同じ車で移動していたという。同年7月、アマリロとの提携ルートで全日本プロレスに初来日。外国人選手はミル・マスカラスをエース格に、シューターとして知られるダニー・ホッジとボブ・ループも同時参加していた。以降もNWAの主要テリトリーを転戦し、1975年10月にはジェリー・ブリスコと組んでトール・タナカ&ミスター・フジからジョージア・タッグ王座を奪取。1976年4月23日にはハーリー・レイスを下しミズーリ・ヘビー級王座を獲得。以降、11月26日にジャック・ブリスコに敗れるまで、NWA世界王者への登竜門とされた同王座を保持した。その後1976年12月7日のテレビマッチよりWWWFに参戦。クリーンなイメージの漂うアスリート・タイプのバックランドは、かつてのブルーノ・サンマルチノ時代との差別化を図る上で絶好の選手だった。また、ビンス・マクマホン・シニアはサンマルチノやペドロ・モラレスを王者としていた頃のような、イタリア系やプエルトリコ系といったエスニック・グループの観客への依拠から脱したいと考えており、出自を問わない「オール・アメリカン・ボーイ(The All-American Boy)」として、アメリカ人全体の支持を集めるべくバックランドはプロデュースされた。1978年2月20日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてスーパースター・ビリー・グラハムを破り、WWWFヘビー級王座を獲得。以降、翌年にWWWFが団体名をWWFに変更し、タイトルもWWFヘビー級王座と改称されてからも、ニューヨークの若き帝王として幾多のチャレンジャーを迎え撃った。WWFと提携していた新日本プロレスには1978年5月に初参戦。1980年5月の新日本『第3回MSGシリーズ』への特別参加では、同月27日に大阪府立体育館にてダスティ・ローデスを相手にWWF王座を防衛。同年の12月には猪木とのコンビで『第1回MSGタッグ・リーグ戦』に出場、決勝でスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンを破り優勝を果たした。このリーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントも参加しており、5月のローデス戦に続き、アメリカでは見られないベビーフェイスのトップ同士の対戦がタッグマッチながら実現している。1983年12月26日、アイアン・シークに敗れ王座転落。5年10か月間に渡って君臨していた「ニューヨークの帝王」の座を降りることになった。王座陥落後もしばらくWWFに残留し、ホーガン、アンドレ、サージェント・スローターらと共に、ベビーフェイス陣営の主力として全米サーキットに合流。1984年7月にWWFを離脱し、AWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" に参加した。1985年は2月22日にセントポール、4月18日にワシントンD.C.にて、リック・マーテルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1986年よりアメリカでは一時セミリタイア状態となるも、日本には1988年から1991年にかけて第2次UWFやUWFインターナショナルに参戦しており、高田延彦とのシングルマッチも3回行われた。1992年末、WWFに復帰。当初は王者時代と同じくベビーフェイスとして活躍し、1993年のロイヤルランブルでは60分以上も闘い抜いたが、1994年に突如ヒールターンを決行。1994年11月23日、ブレット・ハートを破り11年ぶりにWWF王者に返り咲く。しかし11月26日のMSGにおけるハウス・ショーでディーゼルにわずか8秒で敗れ、文字通りの三日天下に終わった。1995年はブレット・ハートと抗争を繰り広げ、4月2日のレッスルマニアXIではロディ・パイパーを特別レフェリーに迎えてのアイ・クイット・マッチが行われている。7月にはWARに再来日し、同月7日の両国国技館大会ではミル・マスカラス&ジミー・スヌーカと組んで6人タッグマッチに出場。WWF離脱後、1998年と1999年にはバトラーツに来日。2001年には新日本プロレスへの16年ぶりの参戦が実現、10月8日の東京ドーム大会において、かつてのライバル藤波辰爾と組んでザ・ファンクスと対戦した。2013年4月、WWE殿堂に迎えられた。2016年7月からは、バックランドを師と仰ぐダレン・ヤングのマネージャーを務めている。

9位 ハルク・ホーガン

「超人」
「現代のネプチューン」

ハルク・ホーガン

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「ハルク・ホーガン」と言えば、やっぱり「猪木失神事件」よね。実際にTVを見ていたあたしにとっては「トラウマ」になるくらいの衝撃だったわ。「アックスボンバー」なんか「スタン・ハンセン」の「ウエスタン・ラリアート」の2番煎じだと思っていた子供心に「ホーガン一番」がインプットされた瞬間だったわ!

ハルク・ホーガンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

スーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意。ビリー・グラハムには弟子入りを断られるも、NWAのプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介してヒロ・マツダのトレーニングを受ける。1977年8月に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーとして、ブライアン・ブレアーを相手にプロデビューを果たした。テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判となる。これを機に、超人ハルクにあやかりザ・ハルクをニックネームに用いるようになった。1979年12月、WWFに初登場、ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガンとリングネームを改め、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦でテッド・デビアスに勝利を収める。以後、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。デビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、その名を全米に知らしめた。1980年はボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にもフィラデルフィアやアレンタウンなどで再三挑戦。初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、シリーズ後半戦への特別参加という扱いで、初来日ながらアントニオ猪木とのシングルマッチもテレビ中継で組まれた。2度目の来日となる1980年10月には、タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格として、猪木の保持していたNWFヘビー級王座に挑戦した。スタン・ハンセンのタッグパートナーとしても活躍し、同年11月開幕の『第1回MSGタッグリーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争った。ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバーをフィニッシャーに使用。出演映画『ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセンに代わる新日本の看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり、猪木とのタッグやアブドーラ・ザ・ブッチャーとの対戦も実現した。1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木をアックスボンバーでKOして優勝を果たした。また、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、漢字で「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。1981年からはアメリカでの主戦場をAWAに移し、本国アメリカでもベビーフェイスとして大ブレイクを果たす。1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす。翌1984年1月23日、MSGにおいてアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠。1985年3月31日にレッスルマニアの第1回大会が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決では9万3173人という観客動員数を記録している。1990年には日米レスリングサミットへの出場で久々に来日し、スタン・ハンセンと大勝負を行う。1991年は当時WWFと提携関係にあったSWSにも来日、天龍源一郎との一騎討ちやタッグチームも実現した。1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場した。福岡ドームでグレート・ムタと対戦した。1996年7月、ヒールに電撃転向しnWoを結成、コスチュームのテーマカラーもレッド&イエローから黒ずくめに一新し、ハリウッド・ハルク・ホーガンを名乗った。2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWFに復帰する。2003年5月には覆面レスラーのミスター・アメリカに扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱した。同年10月13日、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。2005年4月、WWE殿堂入り。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3

ハルク・ホーガン - Wikipedia

8位 クラッシャーバンバン・ビガロ

「刺青獣」
「ビースト・フロム・ジ・イースト」

クラッシャー・バンバン・ビガロ

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「ボブ・サップ」の何十年も前に「ビースト」はいたの!それがこの「バンバン・ビガロ」いやここではあえて「クラッシャー・バンバン・ビガロ」と呼ばせていただくわ!何が凄かったかと言うと「170kg」の巨体で「空を飛ぶ」のよ!そしてプロレスの旨さ!彼の名言で「俺はほうき相手でもプロレスができる」は後世に残る名言だわ!!

クラッシャー・バンバン・ビガロのキャリア(Wikipediaより抜粋)

プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て、1985年12月に「クラッシャー・ユーコフ(Crusher Yurkof)」のリングネームでデビュー。1987年1月、アントニオ猪木の新たなライバルとして新日本プロレスに初来日。当初はモンスター・ファクトリーの主宰者である元プロレスラーのラリー・シャープをマネージャーとして帯同していた。スキンヘッドに刺青を入れ、炎をあしらった全身コスチュームで人気を集め、大柄な体型の割りに軽快な身のこなしで側転をするパフォーマンスで「動けるデブ」としてファンに認知された。ニックネームは「刺青獣」、アメリカでは「Beast from the East」と呼ばれた。新日マット参戦中はクラッシャー・バンバン・ビガロのリングネームでビッグバン・ベイダーとタッグを組んで1992年3月にIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍したが、次第に引き立て役にまわった。その後、日本では全日本プロレス、WAR、FMW、アメリカではWWF(現・WWE)、ECW、WCWにも参戦した。1987年のWWF初参戦時はサー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに、ベビーフェイスとしてハルク・ホーガンのタッグパートナーも務めている。1993年からの再登場の際は本来のヒールに戻り、テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションの主力としてブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと対戦。ECWではタズとの抗争、WCWでは同郷のダイヤモンド・ダラス・ペイジらとのユニット「Jersey Triad」などで活躍した。1996年11月17日、U-JAPANのメインイベントでキモと総合格闘技ルールで対戦。「入れ墨対決」として話題を呼んだが、開始2分15秒にチョークスリーパーで一本負けを喫した。 2000年7月に、火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助けた。その後遺症もあり40代を過ぎてからセミリタイア状態となり、弁当屋経営などに携わっていたが、2005年にバイク事故を起こし鼻骨骨折。同乗の女性が意識不明の重体になるアクシデントに見舞われた。 同乗していた恋人の女性がヘルメットを着用していなかったために、警察からは殺人罪に問われるも彼女は快方へと向かい警察からの嫌疑も晴れる。 だが、これを機にプロレスから完全引退した。 2007年1月19日に、フロリダの自宅で45歳で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%AC%E3%83%AD

バンバン・ビガロ - Wikipedia

7位 ビッグバン・ベイダー

「皇帝戦士」

ビッグバン・ベイダー

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TPG=たけしプロレス軍団として新日に登場したとき、新日ファンの殆どの人たちが敵だったと思うわ。たけし軍団に友人をもつ私でさえ違和感を感じたのを覚えているわ。でも、そのあとのベイダーはやはり「皇帝」だったと思うの。パワー&身軽さには度肝を抜かれたわ!「クラッシャー・バンバン・ビガロ」とのタッグには本当に胸がおどったわ!

ビッグバン・ベイダーのキャリア(Wikipediaより抜粋)

学生時代から全米オールスターのアメリカンフットボール選手として鳴らし、ジャパンボウルで来日。コロラド大学卒業後の1978年、NFLのロサンゼルズ・ラムズにドラフト3位で入団。チームは、そのシーズン、第14回スーパーボウルに出場した。ゆえに、本人の右手薬指には常に、その証となるスーパーボウルリングがつけられている。1979年7月、ひざの負傷により、リザーブリストに入った。レギュラーシーズンの試合に出場することなく、1980年8月、ラムズから解雇された。1985年にプロレス入りしベイビー・ブルのリングネームでAWAからデビュー。ブル・パワーのリングネームでヨーロッパCWAに転戦、オットー・ワンツを破りCWA世界ヘビー級王座を獲得。その後マサ斎藤にスカウトされ、1987年12月にTPG(たけしプロレス軍団)の刺客、ビッグバン・ベイダーとして新日本プロレスに登場。アントニオ猪木対長州力のIWGPヘビー級王座選手権が予定されていたところに TPG が割り込んだため観衆の不満が爆発し、最終的に暴動にまでなるが、ベイダー自身はその騒ぎの中、猪木から3分弱でフォールを奪う(混乱の末に猪木があっけなく負けたことが観衆の怒りに拍車をかけ、新日本はこの件で会場の両国国技館を管理する日本相撲協会から国技館の使用停止処分を受けている)。翌1988年から新日本の常連外人として定着、IWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得したほか、1991年より並行して当時新日本と提携していたWCWにも登場。WCW世界ヘビー級王座を獲得している。1993年5月、UWFインターナショナルに移籍。スーパー・ベイダーに改名し、1994年8月には高田延彦を破ってプロレスリング世界ヘビー級ベルトを奪取した。1996年1月に新日本プロレスに参戦し、正月恒例の東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦するも敗北。翌2月には WWFに移籍。1997年9月には、ケン・シャムロックとの試合貸し出しの形でFMW川崎球場大会に参戦。1998年5月、全日本プロレスに初登場する。そしてWWFとの契約解除後の同年11月より本格的に全日本プロレスに参戦。年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場し、準優勝(パートナーはスタン・ハンセン、公式戦は全勝)。1999年3月、ジャイアント馬場没後初の三冠戦(王座決定戦)で田上明を破り三冠ヘビー級王座を獲得、4月にはチャンピオン・カーニバル優勝。5月の東京ドーム大会(馬場の追悼興行)で三沢光晴に敗れて三冠王座を陥落したものの10月に奪還。2000年2月にはスティーブ・ウィリアムスとコンビ結成し世界タッグ王座を奪取。全日本プロレス分裂後の2000年10月からは、外国人勢では珍しくプロレスリング・ノアに参加。2001年10月にはスコーピオと組んで初代GHCタッグ王座を獲得。ノア離脱後はWJプロレスを経て、ハッスル、全日本プロレス、MAKEHEN、WWE、TNA、レッスルランドに登場。2009年2月に元WWEのテストとともに来日し、ベイダータイム1, 2を開催。7月にはトレバー・マードック、ヘイリー・ヘイトレッド、ランス・ケイドらを伴い、ベイダータイム3, 4を開催した。ベイダータイム3での花束贈呈役は当時グラビアアイドルで翌年プロレス入りする愛川ゆず季であった。2010年4月29日、ベイダータイム5において、自らの復帰戦を息子ジェシー・ホワイトの日本デビュー戦とともに開催し、往年のライバル藤波と18年ぶりに対戦した。近年は2005年から本人の権利となっているビッグバン・ベイダーのリングネームを用いることが多い。また、日本でのマネジメントはベイダータイムプロモーションが担っている。2012年では、TBSの「クイズタレント名鑑」の人気企画、「USC~史上最大ガチ相撲トーナメント」第三回に登場。また、この年の中盤では、WWE・RAW1000回目を祝うために、1000回目とその数回前の放送にレジェンドとしてサプライズ登場。観客に大歓声で迎えられ、若手のヒールであるヒース・スレイターと対戦し、勝利を飾った。2016年11月、交通事故に見舞われた後日、自身のTwitterで、うっ血性心不全により医師から余命2年であると宣告されていたことを明らかにした。現在、複数の医師の診察を受け、前向きに回復へ向けて取り組んでいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC

ビッグバン・ベイダー - Wikipedia

6位 デック・マードック

「狂犬」
「スーパー・ロデオ・マシーン」

ディック・マードック

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「ディック・マードック」ほど日本を愛してくれていたレスラーはいないと思うの。どんなマイナーな団体でも全力でプロレスをしてくれたわ。54回の来日がその証拠よ!「垂直落下式ブレンバスター」「子牛の烙印焼き」「ブルドッキングヘッドロック」たまらない技のオンパレードだったわよね。NOWリーダーとNEWリーダーの5対5の戦いには、猪木側に参戦したのも印象強かったわ。でもねマードックと言えばやはり、リングインの時の「半ケツ」だったわね!

ディック・マードックのキャリア(Wikipediaより抜粋)

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したとされているが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971年の来日の際には、12月4日には宮城県スポーツセンターにおいてアントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。また、1972年の「第14回ワールド・リーグ戦」にも来日している。1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。1973年6月、国際プロレスにテキサス・アウトローズとして初参戦。シングルでは6月29日に半田にてストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦し、テキサス・アウトローズでは6月30日に岐阜市民センターにてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。7月4日には富山市体育館にて、小林との金網デスマッチも行われている。1973年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決、ビル・ロビンソン戦(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1979年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など、名勝負も多く残している。また、覆面レスラー「ザ・トルネード」に変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974年11月5日に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。1984年にWWF入りし、アドニスとのタッグチーム「ノース・サウス・コネクション」で活動、同年4月17日にロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスを破りWWF世界タッグ王座を獲得した。1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターとブルーカラー・ギミックの「ハード・ライナーズ」を結成した。晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996年6月15日に心臓麻痺により急死。49歳没。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF

ディック・マードック - Wikipedia

5位 アブドーラ・ザ・ブッチャー

「黒い呪術師」

アブドーラ・ザ・ブッチャー

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「ブッチャー」は苦労人だったのよね。その為かニーズがあればどんなリングにも上がったの。だから、あまりいいイメージを持たない人もいたみたいだけど「ブッチャー」がいたからこそ日本人レスラーが引き立ったのは言うまでもないわ。「ブッチャー」「シン」「シーク」のような「ヒール」が日本のプロレスに生まれるとまたプロレスが楽しくなると思うのは私だけかしら?もちろん、入場曲の「ピンク・フロイド」の「ふけよ風、呼べよ嵐」も最高だったわ!

アブドーラ・ザ・ブッチャーのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1961年、モントリオール地区のプロモーターであったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス」、「ゼーラス・アマーラ」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。1960年代はカナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座を獲得。モントリオールでは1969年にイワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日。開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12月15日に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は、その模様が日本テレビの全日本プロレス中継にて全国に中継された。1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝。同年8月26日、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。1981年5月8日、新日本プロレス『第4回MSGシリーズ』開幕戦川崎市体育館大会にユセフ・トルコと一緒に現れ、そのまま新日本に移籍。1982年4月にはハルク・ホーガンとシングルで対戦、両者リングアウトに終わるも、強い印象を残した。1985年1月25日に『'85新春黄金シリーズ』徳山大会にて行われた猪木と3年ぶりのシングル対決が実現するものの蹴りの連打からブレーンバスターで、新日本移籍以来初のフォール負けを喫した。1987年11月に全日本プロレス復帰。どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。1988年にはタイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」が復活。ブルーザー・ブロディ追悼試合ではスタン・ハンセンと対戦し、ブロディのチェーンで互いの額を叩き割る大流血戦となった。1990年9月30日の「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント組と対戦。1996年、東京プロレスに突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。1997年には天龍源一郎率いるWARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。1999年から戦場としたグレート小鹿の大日本プロレスでは、BJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得した他、アブドーラ小林との師弟対決が話題となった。2001年の『ジャイアント馬場三回忌追悼興行』を機に、三度全日本に復帰。2002年にはテリーとのタッグが実現。2003年には武藤やボブ・サップらと「チームW-1」を結成し、RO&Dと闘った。2007年5月9日にハッスルに参戦し、芸人RGと対戦して勝利。IWA・JAPAN にも出場、ミックスドマッチでダンプ松本とのタッグが実現した。2009年7月26日の『ハッスル・エイド2009』でタイガー・ジェット・シンとのコンビを20年ぶりに復活させ、HG&RG組と対戦するも仲間割れ。2010年1月4日、新日本プロレス『レッスルキングダムIV IN 東京ドーム』に参戦。新日本マット登場は25年ぶり。2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。2012年1月2日、全日本プロレス『新春シャイニング・シリーズ』開幕戦において、現役引退を表明した。

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アブドーラ・ザ・ブッチャー - Wikipedia

4位 タイガー・ジェット・シン

「タイガー・ジェット・シン」と言えば「サーベル」と「ターバン」よね。そして「コブラクロー」と「垂直落下式のブレーンバスター」かしら?「猪木襲撃事件」等で本当に「狂虎」なんじゃないかと思っていたけど実は紳士なのよね。2011年の年末イベントの時にはかっての「相棒」の「上田馬之助」の遺影を持ってリングに上がったのには涙が出たわ!「悪役」のお手本見たいな選手だったわね。

「インドの狂虎」
「インドの猛虎」
「サーベルタイガー」

タイガー・ジェット・シン

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タイガー・ジェット・シンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1964年にシンガポールでデビューし、ジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠で知られたフレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー。1967年6月にジョニー・バレンタインを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、メインイベンターの地位を確立。1968年の暮れにベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、1971年2月に行われたザ・シークとの一騎討ちでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドル(当時の為替レートで約2500万円ほど)にも達していたという。初来日直前はオーストラリアを主戦場とし、スティーブ・リッカードらとツアーを同行する。この出会いがきっかけで、後にシンは日本で大成功を収める。1973年5月、新日本プロレスに初来日。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなり、ライバルの全日本プロレスに比べて外国人レスラー招聘ルートの弱かった新日本プロレスを支えた。1974年には新日本から追放処分を受けるが、猪木の返上で空位となっていたNWF世界ヘビー級王座決定戦への出場がNWFの仲裁により決まり、1975年3月に広島で行われた決定戦で猪木を破り王座を獲得した。同年6月に東京での防衛戦に敗れ、猪木に王座を奪回されるが、その後も再三来日し、猪木や坂口征二らと抗争を展開した。1977年2月には、国際プロレスを経て新日本に参戦した上田馬之助とタッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組からNWA北米タッグ王座を奪取。1980年、新日本の斡旋で登場していたメキシコマットで1月にカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得した。しかしこの1980年頃からスタン・ハンセンらの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。1981年7月3日の全日本プロレス「'81サマー・アクション・シリーズ」熊谷大会にマネージャーのボビー・ヒーナンと共に乱入し、翌7月4日の後楽園ホール大会から全日本に正式参戦。再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。1990年9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。シンより1〜2世代若い長州力、ブラック・キャット等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外では馳浩が所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と巌流島決戦を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。1992年にFMWに参戦。ストリートファイトマッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。FMWのリングでは、大仁田と電流爆破デスマッチ、関ヶ原でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シンと組んでタッグリーグ戦に参加した。また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。その後NOWに参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。さらに参戦したIWA・JAPANではベビーフェイスになってミスター・ポーゴと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。近年の来日ではハッスルで小川直也と戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。2009年7月26日にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎討ちを展開。2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。恒例の猪木劇場において、ブッチャーとともにアントニオ猪木を襲撃した。 2011年12月27日、『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3

タイガー・ジェット・シン - Wikipedia

3位 アンドレ・ザ・ジャイアント

「大巨人」
「人間山脈」
「一人民族大移動」

アンドレ・ザ・ジャイアント

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もうここからは誰が一位になったもおかしくないわ!あたしはここに「アンドレ・ザ・ジャイアント」をランクインさせたわ。やっぱり、この人は規格外よね。身体自体が凶器、いや存在自体が凶器だったわ。そして、忘れもしないのがやはり「ジャイアント・マシーン」よね。国際プロレス時代の恩を「KY若松」に返すために変身したとも言われたわ。でも「正体不明」って「平田」よりもバレバレよね。

アンドレ・ザ・ジャイアントのキャリア(Wikipediaより抜粋)

フランスのグルノーブルにて、ブルガリア=ポーランド系の家庭に生まれる。1964年、18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフとしてデビュー。フランス時代はジェアン・フェレ、モンスター・エッフェルタワーなどの名義で活動していた。初来日は1970年1月。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフのリングネーム(吉原命名)で国際プロレスへ参戦した。この前年5月18日にパリで行われた初代IWA世界タッグ王座決定戦でイワン・ストロゴフと組み、豊登&ストロング小林と戦うも1-2で敗れているが、日本でも報道されて評判は伝わっていた。この初来日時、AWAの総帥バーン・ガニアと邂逅、北米進出のきっかけを掴む。1971年の再来日ではカール・ゴッチやビル・ロビンソンを抑え、第3回IWAワールド・シリーズで優勝を果たした。その後、ブッキング権がガニアからWWFのビンス・マクマホン・シニアに移行したことに伴い、1974年2月より日本でのリングをWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木との抗争を開始。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時のマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、ジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着した。新日本プロレスではスタン・ハンセンとも外国人同士によるスーパーヘビー級の抗争を繰り広げ、1981年9月23日、田園コロシアムで行われたハンセンとの一騎討ちは、日本のプロレス史に残る伝説の名勝負とされる。同年12月10日には、レネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、第2回MSGタッグ・リーグ戦に優勝。1982年4月1日には蔵前国技館にてキラー・カーンを下し第5回MSGシリーズも制覇している。新日本プロレス参戦時は、実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、巨大なる人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった。1985年には将軍KYワカマツをマネージャーに従え、ジャイアント・マシーンなる覆面レスラーにも変身した。マシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカにも同様のギミックで登場したことがある。なお、ジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密だったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされていた。WWFと新日本プロレスの提携解消後も、1986年まで新日本プロレスに参戦し、4月29日にはUWFの前田日明との不穏試合も行われている。5月開幕のIWGPチャンピオン・シリーズでは、6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、アントニオ猪木に腕固めで初のギブアップ負けを喫した。1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝している。10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。全日本プロレスへ参戦していた当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなった。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、笑顔でファンの声援に応じたり、入場時の花束贈呈の際には、花束を受け取るとブーケ・トスのように後方の客席に投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールも見せていた。体調不良のため1990年にWWFを退団。父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリのホテル内で死去。死因は急性心不全であった。長年に渡る過度の飲酒が原因と言われている。WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。

2位 ブルーザー・ブロディ

「超獣」
「キングコング」

ブルーザー・ブロディ

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飛びぬけた身体能力とずば抜けた怪力で日本人レスラーを手玉に取っていたブロディ。独特の風貌と毛皮のベスト、そしてチェーンを振り回しながら入場するシーンは圧巻だったわ。「レッド・ツェッペリン」の「移民の歌」は彼の入場曲としてはぴったりだったのよね。ショーマンでありながらもガチに強い「ベビーフェイス」でも「ヒール」でもなかった「不思議」なポジションのレスラーだったかも知れないわ。

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