岡ちゃん
「岡ちゃん」の愛称で知られる。眼鏡がトレードマークで、現役時代には眼鏡を外さずプレーしていたこともある。
幼年期は野球少年 思春期からサッカー人生
大阪市天王寺の生まれで、当時のプロ野球球団「南海ホークス」のファンで野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。クラブではファースト、学校のクラブではピッチャーだった。
中学に進学すると、当時メキシコオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。中学時代には「ドイツに行ってプロになる」と言って両親を困らせる。
天王寺高校入学後もサッカーを続け、同校は進学校でサッカーでの実績がない高校にもかかわらず、岡田は3年時にユース代表で抜擢。クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。天王寺高では監督は試合の時しかいなかったため、日々の練習メニューは主将である岡田が考え実践していた。
大学時代
一年間の浪人生活を経て相当難関の早稲田大学政経学部に入学。早大サッカー部長の堀江忠男教授からは「私が推薦するから、体育専攻を受験するようにしなさい」という手紙を受け取ったが、それが岡田の政経学部挑戦に火をつけたと振り返る。
早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた。浪人生活のあいだに10キロ以上太り、大学では当初、サッカー部には所属せずサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたが、それを知った日本サッカー協会の関係者たちに説得され、6月になってからサッカー部に入部する。
古河電工時代
大学時代、岡田は元々マスコミ業界への就職を志望だったが、夢破れ1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、日本リーグの古河電気工業サッカー部に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。JSL1部での通算成績は189試合9得点。
1985年にリーグ優勝した際に監督だった清雲栄純は「当時の選手には珍しく、岡田は理論を持っていた。身体能力や技術は高くなかったが、予測能力が高くて声で周りを動かせた。そのコーチングが非常に的確で」「声を出す選手というのは往々にして自分は逃げ回るタイプが多い。汚れ仕事は人にさせて、おいしいところだけ持っていくような。岡田は最後は自分の身体を張れた」と岡田を評する。同年の古河が採用していたゾーンのラインディフェンスについても「岡田がいたからやれた守り方だった。戦いの意図を後ろから的確に伝えることができたから」と語る。
日本代表選手として
1980年6月1日ののエスパニョール戦で日本代表にデビュー。1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会に出場。当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1982年11月25日日の1次リーグ・韓国戦では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている。
指導者志望へと転機到来
1990年1月に行われた日本リーグ選抜対バイエルン・ミュンヘンの試合が、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった。この試合で日本リーグ選抜は善戦の末1-2で破れた。日本リーグ選抜の主将を務めた岡田は、海外トップチームとの対戦を通じてその埋めがたい差を身を以て実感して現役引退を決意。自分がバイエルンの選手たちに追い付くのではなく、どう指導すれば彼らに勝てるような選手を育てられるかに岡田の関心は移っていった。
待望のサッカー指導者
現役を引退した翌年から古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせる。1992年にドイツへとコーチ留学し、1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り、J開幕後のフィーバー状態の最中帰国したことを「浦島太郎になったようだった」と述懐。古巣・古河鉱業サッカー部が母体となったジェフ市原でコーチを務めた。市原とはプロ契約を交わし、清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。