勇者 片山右京のカミカゼ・ブレーキング・ショー

勇者 片山右京のカミカゼ・ブレーキング・ショー

日本人として3人目のF1ドライバー。 そのアグレッシブな走りは海外で「カミカゼ」と呼ばれた。 人生でも達成確率が少ない大きなチャレンジを繰り返すため、必然的に勝利や成功よりも、アクシデントや失敗、敗北が多い。 そのためプロセスではなく成果・結果主義の人や安全安心主義な人から批判を受けることもあるが、なかなかできない勇気ある片山右京の行動や生き方に共感したり熱狂するファンは多い。


片山右京

片山右京

レーサー
1991年、全日本F3000選手権チャンピオン
1992~1997年、F1で95戦
1999年、ル・マン24時間
2002年、ダカールラリー
アルピニスト
サイクリスト
自然環境運動家

誰も自分の前を走ることを許さない

陸王

片山右京が小さい頃、家には、アメリカのハーレー・ダビッドソンからライセンスを買って国内で生産された大型バイク「陸王」があった。
その影響か、片山右京は自分をマシンに見立てて、
「1速、2速、3速、・・・」
といいながら幼稚園へ走っていった。
父は元軍医で、非常に厳しく、スパルタ的だった。
しかしその反面、自分で責任さえとれば何をやってもよいという大らかな面も持っていた。
片山右京は、小学校に入って自転車に乗り出すと、神奈川県相模原市の自宅から江の島や鎌倉へ遠征し出し、小学校5年生で東京からフェリーで三重県に渡り、東海道を走行して自宅へ帰った。
そのときはじめて鈴鹿サーキットをみた。
中学入学時、身長は136㎝と低かったが、運動は得意で、体育の成績は常に「5」だった。
小学校6年生で1000mを3分1秒で走り、中学の陸上部では、中距離の選手になり、大会で勝ちまくった。
またずっと学級長や生徒会などに選ばれた。

スズキ ミニタン

片山右京は、16歳になるとすぐに原動機付自転車の免許をとった。
初めてのバイクは、スズキのミニタンというオフロードバイクだった。
そしてこれに魅せられた。
マフラーやメーターを替えて、バックステップをつけ、免許をとって1週間後には、頭を低くしてアクセルを全開し、100㎞/h超えを体験した。
原付免許をとって2か月後には、自動二輪免許を取得。
カワサキのKH250やホンダのCB400を改造し乗った。
マフラーを替えて、バックステップをつけて、要らないものはすべて外して軽量化し、200㎞/hを超えた。

18歳になると、すぐに普通自動車の免許をとった。
車を買うために夜中、アルバイトをし、学校では寝ていた。
そして日産サニー B110型、通称「イチイチマル」を買った。
甲州街道や箱根の峠道で、アクセル全開で直線を走り、ギリギリまでブレーキを踏まずコーナーに入る。
強引なステアリングで車の後輪が横滑りを起こすことがある。
そんなときは、曲がりたい方向と逆にハンドルを切って、車のお尻を振りを抑える。
これを「逆ハン」という。
前輪も後輪も滑っている状態を「4輪ドリフト」という。
ドリフトでコーナーに入れば、あまりスピードを落とさずに抜けられた。
しかし失敗して車がひっくり返ることもあった。
そんなときはすぐに起こしてまた走った。
サニーは数か月で潰れ、チェリー、バイオレット、クラウン、先輩、友人、父親の車なども潰れた。
片山右京は、3万円で買ったトヨタ・カローラで、スカイラインやトレノ、レビンなどを後ろからパッシングしあおった。
相手が乗ってくると、バトル開始。
そしてコーナーで恐れて失速するGT車を抜き去っていった。
片山右京のブレーキポイントは誰よりも遅く、アクセルは誰よりも全開だった。
誰も自分の前を走ることを許さなかった。

富士スピードウェイ

御殿場の富士スピードウエイは、サーキットライセンスをとれば、誰でも制限速度なしで走ることができる。
片山右京はそれを知ると、すぐにライセンスをとった。
そしてスピード違反もパトカーも取り締まりもない、速いものが勝つ世界を体験し、感動した。
昼は高校生。
夜は峠。
夜中はアルバイト。
たまの週末にサーキット。
そんな生活を続けながら、高校卒業が近づいてきた。
「進学はしないのか?」
進路について教師に聞かれ、片山右京は、こう答えた。
「オレ、F1ドライバーになります」
このときF-1は、日本のテレビでは中継すらされておらず、日本人のドライバーは1人もいなかった。
そして片山右京と教師は大笑いした。

ドライバー、兼メカニック

新人レーサーは、車を含めて、すべてを自分で用意しなければいけない。
車は、フォーミュラーカー(「車輪とドライバーが剥き出しになっている」という規格に沿ったレーシングカー)。
レース用タイヤは10万円。
レースの登録料が、1回、3、4万円。
クラッシュすれば修理代はだいたい20万円くらい。
1年間で、最低300万円は必要だった。
片山右京は、茨城県の筑波サーキットの近くにあるオートルック・ツクバ・ガレージというF1マシンをつくっている工場でメカニックとして働き出した。
そしてこの工場から中古のFJ1600を150万円で買って、筑波サーキットで練習した。
捨てられた部品をリペアしたり、使用済みのエンジンオイルをろ過し、自分の車に再利用したり修理したりした。

FJ1600

フォーミュラカーを用いたレースは、肺気量などでクラス分けされる。
その最高峰は、F1(フォーミュラ1)。
それにF2、F3、F1600などが続く。
筑波に来て2年後の1983年、片山右京は、FJ1600のレーサーとしてデビューした。
1984年には、鈴鹿サーキットに拠点を移した。
最初は住むところがなく、修理工場にあった廃車のライトバンやトラックの荷台にビニールシートを張って寝泊まりした。
深夜、スナックで働き、朝方帰ってきて仮眠し、ガレージで働いた。
収入はすべて車とレースにつぎ込んだ。
練習も、鈴鹿で20分走ると3500円の走行代と5000円の燃料費がかかった。

カミカゼ・ブレーキング・ショー

1985年8月、片山右京は、渡仏し、レーシングスクールに入った。
スクールの期間は2週間で、最後にレースが行われた。
片山右京は1位、2位は、後にF1レーサーとなるエリック・コマスだった。
帰国後、片山右京は、日本のワークス(自動車メーカー)チームから誘いを受けた。
しかしワークスドライバーという好条件を断って、再びフランスに戻った。
そしてインスタントラーメンは、今日は麺をゆでてソースをかけ焼きそばに、明日はスープをご飯にかけて食べるような貧乏生活を繰りながらレースに参加した。
1986年にはフランスのF3に参戦。
コーナーに突っ込み、誰よりもブレーキングポイントを遅くする片山右京のスタイルは
「カミカゼ・ブレーキング・ショー」
と呼ばれた。

F3000

1988年から、片山右京は日本で、F1に次ぐクラスであるF3000に参戦した。
この年はシーズン総合11位だったが、挑戦し続け、1991年についに全日本F3000選手権のシリーズチャンピオンになり、F1への道を確実にした。

F1

1992年、片山右京はF1ドライバーになった。
中島悟、鈴木亜久里に続いて日本人では3人目だった。
F-1は、1年の間、世界を転戦する世界最高峰のレースである。
参戦するチームは、15チーム前後。
各チームの2名のドライバーと、最新のコンセプトとテクノロジーがつぎ込まれた車が最速を競う。

大声を上げながらコーナーを回った

1994年、F1シリーズ第3戦、サンマリノGP。
予選2日目に、コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡した。
F1では12年ぶりの死亡事故だった。
その翌日の決勝でも、3度、ワールドチャンピオンになった音速の貴公子:アイルトン・セナが死亡した。
片山右京は、特にラッツェンバーガーと親しかった。
事故直後、片山右京は、救助のために真っ先に駆けつけたが、ラッツェンバーガーは心臓マッサージを受けていた。
レース再開後、事故が起こったところには、オイルが散っていた。
恐怖心を抑えるために大声を上げながらコーナーを回った。
セナの死は、レース後、アパートに戻る途中に立ち寄ったサービスエリアのテレビで知った。
その後は、いつもなら140㎞/hで走る高速道路が怖くて、まともに運転することができなかった。
ガラガラの高速道路をフラフラしながら帰った後は、ベッドの中で震えながら朝まで眠れなかった。

世界で最も勇気があるドライバー

片山右京は走り続けた。
ドイツGPでは、予選5位。
そして決勝ではスタートでは、うまく抜けて2位となった。
すぐにシューマッハに抜かれたもののの、3位をキープ。
結局、エンジンが壊れリタイアするまで、
日本中を
「もしかしたら・・・・」
とドキドキさせた。
ヨーロッパGPでは、最後尾からスタートした後、なんと19台を抜いて7位。
世界が
「あの日本人は一体何なんだ!」
と驚いた。
1994年度、片山右京は、イタリアのF-1誌で「最も勇気があるドライバー」に選ばれた。
その後、1997年までの6年間で合計95戦(当時、日本人最多)に出場し、F1から降りた。

「今、山に登らないと自分はダメになる」

片山右京は、F1を終えて、新たな大きな目標にチャレンジするため、
1996年、モンブラン(4807m)、1997年、マッターホルン(4477m)、モンテローザ(4634m)、ブライトホルン(4165m)、1988年、キリマンジャロ(5895m)など世界の山々の頂に挑み始めた。

ル・マン24

1999年、ル・マン24時間耐久レースの終盤、トップを走るBMW V12 LMRを、片山右京のトヨタTS020 GT-ONEがカミカゼチャージ。
しかしタイヤがバーストし2位となった。

自転車

2002年、九州最南端の佐多岬より、自転車日本縦断旅行を開始。
時間をみつけ、少しずつ走り、ゴールは北海道最北端の宗谷岬を目指す。

エベレスト

2002年10月、エベレストの8850mの山頂に挑戦し、あともう少しというところまで迫ったが、危険な要素があったため、勇気の撤退を行った。

ダカールラリー

2005年、トヨタ・ランドクルーザー100で、パリ~ダカールラリーに参戦。
総合30位、クラス3位 。

エコカーで挑戦

2006年、アジアクロスカントリーラリーに参戦。
トヨタ・ランドクルーザー100をバイオディーゼル燃料で完走。
総合14位。

2007年、史上初、使用済み天ぷら油をリサイクルした燃料を積んだトヨタ・ランドクルーザー100でダカールラリーに参戦。
総合68位、クラス19位。
「右京車は天ぷらのにおいがする」
と評判になりながら完走し、セネガル大統領夫人から特別に記念品を贈呈された。

遭難事件

2009年12月17日、南極のヴィンソン・マシフに登頂するための訓練として、自身が経営する片山プランニングの社員2名と共に富士山を登山中、遭難。
片山右京は、翌18日に自力で下山する途中、発見、保護された。
19日、行方不明となっていた社員2名の遺体が発見された。

片山右京さん遭難について  12月18日、富士山登山を行っていた片山さんら3名が遭難しましたが、その知らせに驚きまた他人事とは思えなかった。何故ならば同じ日に富士山登山を予定していたからだ。しかし、一緒に登ろうとしていた平賀カメラマン(山岳カメラマン)が海外ロケに出かけており延期。右京さんの遭難前日、奥多摩登山を行っていましたが、この日からグッと冷え込んでいた。天気予報は「雪が降るかもしれない」と伝えていたので、ダウンジャケットなどの防寒具に身を包んでいたが、それでも寒かった。奥多摩でこれだけ寒かったのだから富士山は大変だっただろうと、延期になった事を安堵していた矢先の右京さん遭難。  右京さん遭難の一報の直後からテレビ、新聞などの報道陣から話を聞きたいと連絡が相次いだ。そして何人かの記者から「片山さんが登山仲間を残したまま下山しましたが、どう思いますか!」と、最初から右京さんの判断に問題があったのでは、といったニアンスの質問が相次いだ。  しかし、私はその質問が辛く胸をえぐられる様な痛みを感じていた。何故ならば2年前私がチョモランマに登頂した日の出来事が頭の中を駆け廻っていたからだ。一緒に登頂した日本人登山家が下山開始直後に歩行困難となり、彼は私に向って「先に降りてください」と伝えてくるのだが、そんなこと出来るわけでもなく、そして次に「すぐに追いつくから先に降りていて」と。  一緒にその場に留まるのか、それとも先に降るのか。あの標高で彼を背負って降りる事は不可能。つまり助ける事は出来ない。かといっていつまでも一緒にその場に留まっていれば自分もやられる。酸欠と究極の極寒の中、自分はどうするべきなのか、なかなか判断できないまま彼に声をかけ続けていた。どれほどの時間が経過したのか、「う~ん」と唸り声と共に彼の首がガクッとなり、そのまま脈が落ちた。私の手も寒さで悴んでいたので本当のところ、彼の脈が止まっていたのかどうか、正直分からない。しかし、最後は自分が生きて帰らなければならないと、彼に「自分はどうしても帰らなければならない。申し訳ない」と声をかけ、彼の体が落ちないように岩にロープで固定し下山を始めた。  あの時の出来事が未だに何度も何度も夢に出てきます。今振り返ってみてもあの状況ではやはり助ける事は出来なかった。しかし、彼を残したまま下山した、置き去りにしてしまったことには変わりはない。  強風でテントごと200メートル滑落した仲間に寝袋や毛布でくるみ覆いかぶさるようにして温め朝まで「頑張れ、頑張れ」と声をかけながら体をさすり続けた右京さんの姿が私にはリアルに想像できてしまうだけに辛かった。亡くなった宇佐美さんとは学生の頃に交流があった。

http://www.noguchi-ken.com/M/2009/12/51368887.html

片山右京さん遭難について|ブログ|野口健公式ウェブサイト

 右京さんが下山を開始したのは午前11時過ぎ。遭難してから約12時間後。動く事もなく仲間に覆いかぶさったままの状態は右京さんにとってもギリギリの状況であったはず。 右京さんが仲間を残したまま下山したのは間違えていなかったと思う。最後は生き延びなければならない。極めて冷たい表現に写るかもしれませんが、冒険では一部例外を除けば基本的には自己責任が求められるもの。  そして報道陣からの質問の中で「この寒い時期に富士山に登ったことについてどう思いますか」とありましたので、それに対しては、「右京さんは12月中旬から南極大陸最高峰ビンソン峰遠征を控えていて、そのトレーニングだとするのならば、南極大陸の厳しい環境を想定した上で、可能な限り南極の状況に近い厳しい条件の中であえてトレーニングを行っていたとするのならば、それは当然のこと。富士山に登ることだけが目的ならば快晴無風の方がいいに決まっているが、南極遠征のトレーニングならば趣旨が違ってくる」と説明しました。私自身、南極遠征の時に同じような時期に富士山で最終トレーニングを行ったことがある。  厳冬期の富士山は時にヒマラヤ以上に厳しくなる。独立峰ゆえの凄まじい強風。逃げ場がなく、表面の雪面もガリンガリンに凍りつき、固くなった氷にはアイゼンの爪も充分には刺さらない。そして山頂付近でスリップしてしまえば、凍った滑り台から落ちるようなもので五合目付近まで落ちてしまうことさえある。  したがって冬の富士山は極めて厳しいのだが、だからこそヒマラヤ遠征前や南極遠征前に富士山でトレーニングする意味があるわけです。  山岳遭難には様々なケースがあります。経験不足による遭難もあれば、どんなにベテラン登山家でも相手が自然となれば時に遭難することもある。実際に一流の登山家も山で遭難してきたわけです。防げる遭難もあれば防げなかった遭難もあっただろう。なにしろ、生と死の世界が入り交ざるギリギリの世界の中で挑戦を行えば当然、リスクは付きまとう。  右京さんは7大陸最高峰登頂を目指すために、宇佐美さんという山の専門家を自身の事務所スタッフにし、ヒマラヤでの登山もまたトレーニングもこなし、計画的にチャレンジされていた。その上での事故だと私は思っています。  亡くなった宇佐美さん、堀川さんも、右京さんの7大陸最高峰登頂挑戦をサポートし一緒に夢に向かって歩んでいたのだと思います。だとするのならば、亡くなった彼らに対し最大の供養となるのは、右京さんが立ち直っていつの日か7大陸最高峰への挑戦を達成することではないでしょうか。  冒険人生は冒険から得るものもあれば、時に失うこともある。それでも、挑戦を続けなければならない時がある。冒険人生とはそういうものなのかもしれない。 宇佐美栄一さんと堀川俊男さんのご冥福をお祈りいたします。

http://www.noguchi-ken.com/M/2009/12/51368887.html

片山右京さん遭難について|ブログ|野口健公式ウェブサイト

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