奥村チヨ

千葉県野田市に生まれ、3歳から大阪府池田市に移り住みました。兵庫県西宮市にある私学の女子校に在学中、知人が応募したCMソングのオーディションに合格してしまい、1回きりの約束でドリンク剤のCMソング(小野薬品・リキ・ホルモ「昨日、今日、明日」)を歌いました。
1965年に歌手デビュー
それをきっかけとして、卒業後の1965年に東芝から「あなたがいなくても / 私を愛して」でデビュー。和製シルヴィ・ヴァルタンとして売り出され、コケティッシュな魅力と甘えた歌い方でたちまち人気を集めます。
シルヴィ・バルタン

4作目のレコード「ごめんネ…ジロー」が大ヒット
この曲で『フジテレビ新人奨励賞』を受賞しました。
その後もベンチャーズが作曲した「北国の青い空」などのヒット曲に恵まれます。
『東芝3人娘』

当時の東芝が誇る人気絶頂3人娘です。黛ジュン・小川知子と共に『東芝3人娘』と呼ばれ人気を博していきました
小川知子
黛ジュン
「恋の奴隷」がミリオンセラーを記録、名実ともにトップスターの座へ
昭和44年(1970年)6月にリリースした「恋の奴隷」が100万枚突破するというミリオンセラーを記録、奥村チヨは名実ともにトップスターの座へと登り詰めて行った。
奥村チヨの、代表曲「恋の奴隷」が男性に従属的な歌詞であったため、奥村自身は歌うことをためらっていたといいます。さらに同曲のイメージから、当時は自宅周辺にまで付きまとうファン(今で言うストーカー行為)が多く出現したことから悩まされていたということです。
1969年 - 1970年に発表した「恋の奴隷」「恋狂い」「恋泥棒」のいわゆる「恋3部作」の爆発的大ヒットにより、人気歌手としての地位を確立。それまでのコケティッシュな雰囲気に、新たに官能的な魅力も加わり、初めてNHK紅白歌合戦出場も果たします。NHKでは内部規則により「恋の奴隷」の歌唱が禁じられていました。その為、紅白では「恋泥棒」を歌いました。
熱狂的なファンからのストーカー被害
デビュー当初から、小悪魔的な独特のルックスが注目されていましたが、人気に輪をかけて大ブレークするきっかけとなったのが、歌詞も流行語となった傑作「恋の奴隷」(1969年)と、それに続く「恋泥棒」、「恋狂い」(1970年)の”恋3部作”でした。世の男性はすっかり、官能美を極めた奥村チヨの虜となってしまい、ファンによるストーカー騒ぎまで勃発する事態になったのです。
現代でもセクシー歌手といわれる人はいますが、「小悪魔的」あるいは「コケティッシュ(coquettish)」というフランス語の形容詞がこれほどぴったりくる歌手はいないのではないでしょうか。ただセクシーでお色気があるというわけではなく、知性の裏づけがあり、男心をそそるしとやかな気品が備わっているのです。
浜圭介と結婚
1971年12月25日に発売された、自身のイメージを脱却し、歌手引退も辞さない強い希望で実現に至った曲「終着駅」も40万枚の大ヒット 。作曲した浜圭介も、作曲家として息を吹き返しました。
1974年に浜と結婚し、芸能界の第一線を退きます。
ふたりの間にこどもはいませんが、45年と言う長い間連れ添っています。「夫から、君は芸術品だから、ただそこにいてくれるだけでいい、といわれています。」以前TVのインタビューで奥村チヨはこう語っていました。とても愛されているようですね。
その後1980年にビクターから、「せめてさよならは・・・」をリリースして歌手活動を再開します。ディナーショーなどのステージを中心に、マイペースな活動を続けています。1993年には、60年代ブームに乗って「恋の奴隷」が再ヒットしました。個性的なスタイルと、時代を先取りしたファッションにも注目が集まり、新しい若い世代のファンも数多く獲得しました。
ジャケット写真を見ているだけでも、お洒落で楽しめます。
