江利チエミ
江利チエミは独学でクラリネット奏者になりましたが、軍事徴用での作業で指先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりしました。音楽センスの素晴らしい人間で、デビュー当時のチエミは吉本興業に所属していました。当時の吉本は今のような規模だはなく、花菱アチャコと江利チエミくらいしかスターはいませんでした。
江利チエミは「元祖」サザエさん
映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ化もし(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となりました。

夫は高倉健
1959年(昭和34年)、江利チエミがゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚します。家庭に入るものの、翌1960年(昭和35年)に本格的に芸能界に復帰。高倉と結婚した3年後の1962年に、チエミは妊娠し子供を授かりましたが、重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれませんでした。

2人の結婚生活はやがて、トラブルに見舞われる。付き人をしていた江利チエミの異父姉による横領事件や、2人を攻撃するデッチ上げ話を流したりするなど、夫婦関係をこじらせる行為を繰り返したのです。高倉に迷惑をかけてはならない、と1971年(昭和46年)に江利チエミ側から高倉に離婚を申し入れることになります。江利チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻しました。

江利チエミの異父姉との出来事もあり、2人は71年に離婚。12年の結婚生活でした。
元夫、高倉健は生前、世田谷区瀬田に豪邸を持っていました。江利チエミと結婚し、新居を構えたのがこの場所であり、その結婚から3年後に妊娠するも、妊娠中毒症で中絶、70年には火事で自宅が全焼しました。更に翌年、2人は離婚。江利チエミが帰らぬ人となったのは、その11年後でした。このようなことから、彼はこの土地に大変な思い入れを持っていました。

江利チエミと高倉健の悲しい思い出が刻まれた場所はもう1カ所ありました。神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園です。高倉健はこの地に江利チエミとの間の水子を弔うための水子墓をたて、折に触れては訪れ、手を合わせていたといいます。しかし、高倉健の死後、養女が墓地を更地にしてしまい、その水子墓も今はもうありません。
高倉健の名作映画「鉄道員(ぽっぽや)」の特集で、再び涙して頂ければ幸いです。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
デビューまでの道のり
当事江利チエミは父、母、また3人の兄、の生活を背負っていました。
長兄は陸軍士官学校出身で、英語も堪能なエリートでしたが、戦後の価値観の変化で順調な生活とは行かず、父がマネージャー、長兄が付き人という形で芸能活動が、江利チエミが12歳のころからスタートすることになりました。1949年(昭和24年)のことでした。
1952年(昭和27年)1月23日に「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビュー。そのときチエミは15歳でした。母はチエミのデビューを待たず1951年6月に他界しています。
同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、チエミは「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになります。
江利チエミ アメリカへ
メジャーデビューの翌年、1953年(昭和28年)には、アメリカのキャピトル・レコードから招かれ、「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を歌います。その曲はヒットチャートにランキングされ、ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びます。それらは、日本人初の快挙でした。

ハワイでも公演を成功させ、そこでジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と合流し、彼らと一緒にに凱旋帰国します。その後ジョイント・コンサートを日本各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得します。

「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡する


江利チエミが1982年に45歳で、美空ひばりが1989年に52歳で、それぞれ若くして病気により亡くなっており、現在も存命中なのは雪村いづみのみです。現在、テレビなどでは自身の持ち歌より二人のヒット曲を歌う機会の方が多く、いづみがテレビ出演した際には、必ずと言っていいほど「三人娘」のエピソードが語られています。
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江利チエミ、45歳で急逝
1982年(昭和57年)2月13日午後、江利チエミは港区高輪の自宅マンション寝室のベッドの上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されました。しかし既に呼吸・心音とも反応が無く、まもなく死亡が確認されました。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものでした。

あまりにも突然過ぎる死に、江利チエミの親友だった「三人娘」の美空ひばりと雪村いづみ、他清川虹子や中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣し、葬儀の席でも深い悲しみに暮れていたそうです。

江利チエミがこの世を去る数日前には、2月8日にホテルニュージャパン火災、翌2月9日には日航機羽田沖墜落事故という、二つの大惨事が連日にわたり発生していました。ですから、当時の報道・マスコミはニュージャパン火災と日航機墜落事故で特別報道態勢を敷いており、テレビ各局は混乱に陥っていました。結果、江利チエミ急逝のニュースは予想以上に小さな扱いとなり、数日後に改めて追悼番組や特集などが組まれることになりました。

異父姉とのトラブルの結末
Y子は高倉健と江利チエミ、それぞれについて嘘の誹謗中傷を吹聴しまくり、ふたりを別居に追い込み、離婚へのきっかけを作りました。また、実印を使って江利チエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金までします。不動産までも抵当に入れました。

事件発覚後もY子は容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論を続けながら、江利チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露をやめませんでした。その挙句に失踪、自殺未遂騒動まで引き起こしました。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行でした。
江利チエミは、断腸の思いで異父姉を告訴します。異父姉Y子には懲役3年の実刑判決が下りました。
波乱の45年間だった
歌手デビュー直前に実母が死去し、3人の兄もチエミの存命中に2人が亡くなっています。高倉健との間に授かった子供も重度の妊娠中毒症から中絶することとなり、甥は電車事故死しました。そして、異父姉とのトラブルに、離婚と家庭運に恵まれていたとはいえません。

1970年1月21日には当時世田谷区にあった邸宅を火災で焼失、1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇するなど、芸能生活の華やかな栄光の陰には何故か常に「不幸」もつきまとう、波瀾万丈の45年間の生涯でした。